107話:美術室の幽霊少女
その場所は夜会の執務室付近より輪をかけて静かだった。
今はまだ朝だというのに進む通路は薄暗い。
三人分――俺とマレウス、それにイヴリスの靴音だけが空しく響く。
他の夜会メンバー達は、会長の命令でお留守番だ。
「人の気配がまったく無いな」
「ええ。《七不思議》の起動が確認された時点で、この辺りは封鎖されますから」
俺の独り言に、先頭を歩くイヴリスは律儀に応えた。
確かに、《七不思議》の発生する場所が分かってるならそうするよな。
今まで出くわした怪異は、どいつも普通の生徒が出くわしたら命が危ない。
これから会いに行く怪異は「美術室の幽霊少女」。
幽霊少女らしいし、昨夜のフラワーチャイルドさんみたいな感じだろうか。
「美術室の怪異は、他の《七不思議》と比べたら殆ど害は無いですよ」
「ん、そうなのか?」
「ええ、『美術室の幽霊少女』については何処までご存じですか?」
「……残念だけど、名前と簡単な概要ぐらいしか私も知らないわ。
美術室に、絵を描く女の子の幽霊がいるとか……」
「まぁ、その辺は名前の通りですね」
マレウスの言葉に、イヴリスはクスクスと笑う。
人の気配がまったく存在しない通路。
目的地である美術室は、もう暫く先にある。
だからというわけでもないだろうが、イヴリスはのんびりと怪異について語る。
「生徒の間で出回っている噂話も、概ね似たようなものですね。
――昔、絵を描くのが好きな一人の女子生徒がいました。
彼女はとある真竜様の為に絵を描くという大役を任されていました。
自分の絵が認められたと張り切って、女子生徒は絵を描く作業に没頭しました」
イヴリスの言葉はまるで詩のように。
寂しい通路の中を流れて行く。
俺にとっては「他人から聞く噂話」でしかない内容だが。
直ぐ傍らで聞いているマレウスにとっては、少し違うようだった。
微かに緊張を帯びた表情で、彼女はイヴリスの話に耳を傾けている。
「……大丈夫か?」
「ええ。ありがとう、心配してくれて」
小声で囁きかけると、マレウスは小さく笑う。
正直に言えば、あんまり大丈夫そうには見えない。
かといって此処で引き返す選択肢は彼女の中には無いだろう。
俺は頷いてから、マレウスの肩を軽く叩いた。
「しんどかったら何時でも言えよ」
「……うん、ありがとう。
その時は遠慮なく頼らせて貰うから」
「あぁ、そうしてくれ」
いざとなれば、俺が頑張ればまぁ何とかなるだろ。
そう考えている間にもイヴリスは語り続ける。
美術室に彷徨う幽霊少女に纏わる
「絵のお披露目も間近――という時に。
彼女の身に不幸が起こりました。
事故とも、彼女の功績を妬んだ他の生徒の嫌がらせとも言われています。
実際の処は不明だけれど、起こった事実は一つだけ」
そう言って、イヴリスは片手の指を一つ立てる。
芝居がかった動作と口調。
彼女はいつだって、酷く楽しそうだ。
「絵の完成を前に、女子生徒は命を落としてしまったのです」
「……それで幽霊少女か」
「ええ。絵を完成させられなかった事が、余程心残りだったのでしょう。
女子生徒は死した後も、涙を流しながらキャンパスに向かって筆を取っているとか」
それで物語はおしまいだと。
その区切りを示すように、イヴリスは自分の手を軽く叩いた。
乾いた音は静かな通路に良く響く。
確かに、今聞いた限りではそんな物騒な怪異ではなさそうだな。
地獄に繋がる十三階段だの、死に顔を映す合わせ鏡だの。
《七不思議》はそんなのばかりと思ったが。
「ちなみにその幽霊少女は襲ってきたりするのか?」
「先ほど言った通り、他の《七不思議》に比べれば殆ど害はないですよ。
絵を描く作業を邪魔したりすれば怒るかもしれませんけど。
仮にそうなった場合でも、他の怪異ほどの力はありませんね」
「他より弱いってわけか。何か理由があるのか?」
「私もハッキリとは明言できませんね。一応の推測はありますけど」
話している間も、俺達は足を止めない。
暫くすれば件の美術室も見えて来るだろう。
「……その話は、実際にあった事なの?」
ぽつりと。
独り言のように言ったのはマレウスだった。
彼女の眼は真っ直ぐイヴリスを見ている。
「ねぇ、答えて。イヴリス。今の話は事実なの?」
「生徒の間で語られる怪談としては、
「違うわ、私が聞きたいのは……」
「――実際に、美術室で出るのが本当に死んだ女子生徒なのか、ですか?」
僅かに空気の温度が下がったように感じた。
イヴリスの声は死神のように冷たい。
だというのに、調子そのものは愉快そうなままで。
聞き返されたマレウスは小さく息を呑んだ。
「細部は違いますが、起こった事そのものは概ね事実ですよ」
「けど、そんな話……」
「自分は知らないし、記録にも残っていない――ですか?」
笑う。イヴリスは笑っている。
それはマレウスの反応を心底楽しんでいるようにも見えるし。
何か別のモノを嘲っているようにも思えた。
ほぼ部外者の俺には、蒼褪めた少女の胸中は推し量れない。
素顔とも仮面とも付かない笑み。
イヴリスは今も笑っている。
「マレウス先生も、本当は分かっているんじゃないんですか?」
「……それは、一体何の話?」
「《七不思議》の事。或いは、先生自身の事」
「一体、何を言っているの。イヴリス」
進み続ける、その歩みだけは淀みがない。
薄暗い通路の向こう側。
そろそろ美術室に到着するはずだ。
俺はこの校舎の構造なんて理解してないが、そんな気がする。
「マレウス先生。貴女は昔の事を、どのぐらい覚えていますか?
大昔の事ではなく……そうですね、ここ数年ぐらいでも構いません」
「それぐらいなら、当然覚えてるわ。
卒業して《学園》を離れて行った生徒の事だって……」
「全て覚えていると?
なら一年ほど前も、私達が《七不思議》に対処していた事。
また貴女自身もそれに関わった事は?」
「――――」
その時のマレウスの表情。
驚いた、とはまた少し異なる。
覚悟はしていたはずなのに、それでも受け止めきれなかった。
さながら傷口のような、感情の空白だけが其処にあった。
「一年前に限った話ではありません。
《七不思議》の術式は決まった周期で凡そ一年毎に起動します。
今回は『学園長』の都合で例年より早く発生しましたけど」
「イヴリス、私は……」
「ええ、おかしな話ですよね?
一年毎に必ず発生する《七不思議》。
私達は一般生徒には知られぬよう対処して来ました。
その上で貴女も、それについては全く知らない。
仮にもこの《学園》の副学長である貴女が、そんな事あり得ますか?」
ゆっくりとした歩み、
その歩調に合わせるように、イヴリスの声は穏やかだ。
けれどその言葉自体は、魔女に向けられる弾劾そのものだった。
「……『学園長』は、私の記憶を制限してるはず。
だって、《七不思議》以外の事は、私はちゃんと――」
「ええ、そうでしょうね。
そして《学園》の記録にも、《七不思議》に関わる死者について残されていない」
けれど、と。
どうしようもなく笑みを含んだ声で、イヴリスは続ける。
「記録なんて幾らでも改竄できるんですよ?
『学園長』は貴女の記憶を制限している。
そこまで分かっているのに、その可能性に思い至らなかったんですか?」
「そ、れは……」
「考えなかったワケじゃないでしょう、マレウス先生。
けれど貴女は、意識しないままに疑問に蓋をした。
箱の中に入れられた猫の死骸を、見たくはないと拒むように」
やがてイヴリスの足が止まる。
自然と俺やマレウスもその扉の前で立ち止まった。
いつの間にそうなっていたのか。
気付けば俺達は、木造の廊下に立っていた。
同じく木製の扉には「美術室」と書かれたプレートが見える。
特に鍵もかかっていないようで、イヴリスは扉の取っ手に指を掛けた。
「これは知っていますか、マレウス先生」
「……?」
「この《学園》に美術室なんて無いんですよ」
それだけ言ってから、イヴリスは美術室の扉を開く。
中から独特の匂いが漂って来た。
埃っぽさはあんまり無いが、正直嗅ぎ慣れない匂いだ。
「これは絵の具の匂いですよ。初めてですか?」
「芸術の類はとんと縁が無くてな」
手招きするイヴリスに従い、俺も教室の中へと入る。
少し躊躇いながらもマレウスが続く。
その場にいる三人が中に入ると扉は勝手に閉まった。
「閉じ込められたか?」
「大した事はないですから、気にしなくて良いですよ」
「そうか」
イヴリスの言葉にとりあえず頷いておく。
まぁ最悪内側から破れば良いしな。
話をしながら、俺は美術室の様子をざっと眺める。
広い木造の教室には、見慣れない道具が幾つも置かれていた。
絵筆は流石に分かるが俺の知識じゃそれぐらいだ。
作りかけの石膏像やら未完成の絵やらも良く目に付く。
繰り返すが、俺は芸術とかは分からん。
分からんが、いつぞやのマーレボルジェの自画像よりはマシな気がする。
そんな風に軽く見ていると――。
「……ん?」
一つ、目に付いたモノがあった。
それはある石膏像だ。
サイズは結構大きく、俺よりやや小さいぐらいか。
まだ完成していないその像は、鎧姿の騎士を精巧に模している。
何となく見覚えのあるデザインだが、はて。
「――彷徨える騎士像。
それは、貴方が破壊した《七不思議》の騎士像を真似たものですよ」
首を捻っている俺にイヴリスが答える。
あぁ、そういえばこんな見た目だった気がする。
イヴリスも俺の近くまで来て、石膏像の騎士を見上げた。
「この騎士の名前は失われて久しいですが。
古竜の脅威が強かった時代に、ある集落の人々を纏めていた勇敢な方です。
団結を呼びかけ隣人と手を取り、過酷な時代を皆で乗り越えようと。
彼自身も、かつて恩師に授けられた教えを糧に役目を果たしたそうです」
「ほほう」
そうなると、かなり古い時代の人間なのか。
もしかしたらマレウスなら知っている相手かもしれない。
少し聞いてみるかと、彼女の姿を探して……。
「……マレウス?」
彼女も一緒に美術室に入ったので、当然その場にいた。
こっちに背を向ける形で、マレウスは教室の真ん中辺りに立っている。
呼びかけに対して反応は無い。
どうやらある一点をじっと見ているようだった。
俺はとりあえずマレウスに近付く。
イヴリスは笑っているだけで動かなかった。
距離が変われば、さっきまでマレウスの身体に隠れていたモノが見えてくる。
「……ん?」
いつの間に其処にいたのか。
少なくとも、俺達が美術室に入った段階ではいなかったはずだ。
大きなキャンパスの前に座る、長い黒髪の少女。
位置的にまだ後ろ姿しか見えない。
少女は俺達の視線はまったく気にした様子もなく、無言で筆を走らせる。
……この子が噂の幽霊少女か?
「……どうして」
小さな呟きは、マレウスの唇から溢れた。
その時、やっと気付いた。
彼女が見ているのは、筆を動かす幽霊少女の方ではない。
マレウスが目を奪われているのは、今まさに描かれている絵の方だ。
俺もそちらに意識を向けて――少しだけ、驚いた。
それは人物画だった。
芸術は良く分からんが、それでもかなり出来が良いように思える。
絵に対する思い入れとか勢いとか。
そういうモノが、ただ見ているだけでも強く伝わってくる。
ただ、俺が驚いたのはその絵の出来が良いからじゃない。
その理由はもっと単純で明快だ。
キャンパスに描かれている人物が、俺の知っている相手だったから。
「どうして……この絵には、私が描かれているの……?」
マレウスの漏らした言葉の通り。
大きなキャンパスに見えるのは、赤い髪をした女の姿。
薄衣を纏って美しく微笑むその様は。
疑いようもなく、マレウス自身を描いたモノだった。
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