82話:悪夢の終わり
「……今のは、ギリギリだったわね」
俺はバンダースナッチの炎に呑み込まれなかった。
その寸前、横からぶつかってきたアウローラのおかげで難を逃れた。
彼女の細い身体と共に床を転がる。
ギリギリのところを黒い炎は掠めて行く。
俺は精々、その火の粉を浴びる程度で済んだ。
――あくまで俺の方は。
「大丈夫か」
「そうね、流石の私もちょっと辛いわ」
俺を助けようとした為に、アウローラは完全には避け切れなかった。
その背は黒い炎に焼かれて、白い肌に無残な火傷が刻まれている。
人間であれば相当な重傷だろうし、竜である彼女にとっても同じはずだ。
けれどアウローラは、苦痛を殆ど表には出さない。
ほんの少しだけ苦し気に笑って。
「……けど、貴方が無事で良かった」
心底安堵した様子で、彼女はそう呟いた。
俺は彼女の身体を片手で抱きながら、一度その場から離れる。
追って振り下ろされた黒炎の刃が空間を焼き切っていく。
更に追撃を仕掛けようとしたバンダースナッチだが、それはボレアスが阻んだ。
巻き添えを心配する必要がない、全力に近い《
放たれた竜王の炎は、真竜の黒炎を押し退けて吹き飛ばす。
流石、味方だと頼りになるな。
「レックス、私は大丈夫だから……」
「分かってる」
このぐらいで死ぬとか、そんな心配はしてない。
しかし重傷である事に変わりはない。
強化した脚力で一度距離を離してから、アウローラを瓦礫の影に下ろす。
これも安全とは言い難いが、彼女なら大丈夫だろう。
「悪い、ちょっと待っててくれ」
「……レックス」
ボレアス一人では流石に危ない。
そう思い、直ぐに戻ろうとしたがアウローラの手が引き留める。
名を呼ばれ、細い指に軽く引っ張られる。
面覆いだけを上げられて、彼女はそのまま唇を寄せた。
柔らかい感触と、熱い酒が喉を通るような感覚。
触れ合っていたのは数秒ほど。
艶っぽい吐息を漏らしながら、アウローラは名残惜し気に離れた。
「今、使える分の魔力を渡したから。
貴方の言う通り、大人しく待ってるわね」
「……あぁ、ありがとうな。アウローラ」
今の状態で、それをすれば消耗して辛いだろうに。
無理に笑うアウローラの頭をわしゃりと撫でてから、改めて踵を返す。
渡された魔力は身体を巡り、内側で炎が燃えるように熱い。
これなら、さっきよりはがんばれそうだな。
「……終わって、落ち着いたら。
もっといっぱいしたいから、覚悟しておいてね?」
「そりゃ楽しみだな」
見送るアウローラの声を背に受けて、俺は再び死地へと駆ける。
戻れば、ボレアスはバンダースナッチを相手に正面から殴り合っていた。
力を失っているとはいえ、其処は流石に《北の王》だ。
それでも力負けしている為か、ボレアスの鱗も徐々に焼き焦がされていた。
ちょっとの間とはいえ、任せっきりで悪いな。
「ボレアス!」
「やっと戻ったか竜殺し。長子殿は息災か?」
「とりあえず休ませて来た。後は俺が何とかする」
「――ハハッ!!」
俺の言葉を笑い飛ばしながら、ボレアスは大きく息を吸う。
そうして吐き出した《吐息》をバンダースナッチにブチ当てる。
炎が爆ぜ、衝撃波が俺の身体を圧す。
本当に凄い威力だが、真竜は表皮を焦がす程度のダメージしか受けていない。
やっぱり、さっきよりも防御力は上がってるな。
ダメージは少ないが、一時の時間は稼いだ。
その隙にボレアスは俺の傍らへと飛んで来た。
「お前一人でアレと戦うと言うのか? 竜殺し」
「一人じゃ多分死ぬからな、助けて貰った上でだ」
「何とも自信のない言葉ではないか」
「別に英雄とかそういうつもりもないしな」
バンダースナッチはそれこそ物語の最後に出てくるような怪物だが。
しくじったら死ぬだけなら、まぁ普段と変わらない。
何とかがんばってみるさ。
そんな俺の言葉に、ボレアスはもう一度笑った。
「――良いだろう、刃を交えるのはお前に任せよう。
我は剣に戻り、お前の力となってやろう。
それで良いな? 竜殺し」
「あぁ、助かるわ」
「お前は我を討ったのだから、無様なところは見せてくれるなよ――?」
それだけ言うと、ボレアスの身体は炎に変わる。
一瞬渦を巻いてから、剣の刀身に吸い込まれるようにして消えた。
胸の奥に炎が宿り、巡っている熱を呑んで更に大きくなる。
「……良し」
戦う条件は、これ以上なく整った。
ボレアスが吐き出した炎を斬り裂いて、バンダースナッチが立ち上がる。
様子は変わらず、相対しているだけで焼け死にそうな圧力だ。
狂気が燃え続ける赤い眼差しを、俺は正面から見る。
確かにヤバい怪物だが、御伽噺の英雄以外には負けそうにない化け物だ。
けど今は、そんなに負ける気はしなかった。
「■■■■■ッ――――!!」
言葉の意味を為していない獣の咆哮。
互いに動いたのはほぼ同時だった。
狂った獣そのままの姿だが、操る刃の鋭さは達人そのもの。
他人事なら惚れ惚れするぐらいには見事なものだ。
対する俺は、それを無様に転がり避ける。
見栄えも後先も何も考えず、相手の攻撃を喰らうまいと全力で躱す。
「《
バンダースナッチの火力がデカ過ぎて、殆ど役に立たなかった力場の盾。
それを正面ではなく、刃を斜めに逸らすように設置する。
当たれば当然砕けるが、僅かに剣閃を歪める程度の役には立った。
出来た僅かな隙間に身体を捻じ込むように回避する。
繰り返す。死線の間を跳ね回る作業を、ただ只管に繰り返す。
隙なんざほぼ無いわけだが、決してゼロではない。
その糸みたいに細い一瞬を逃さぬように、俺は剣を振るう。
竜殺しの刃でも、強靭な鱗は一枚ずつしか削れない。
けれど一枚だけでも、俺の剣は届いている。
「もうちょいだな……!」
実際は、まだ山の麓に足を掛けたぐらいだろう。
だが頂きが見えているという事は、がんばれば上り切れるって事だ。
だから繰り返す。只管に繰り返す。
刃が掠らずとも、纏う黒炎の熱だけで身体が焼けそうだが。
動きが鈍った身体は賦活剤を呑み込んで、無理やり元の状態へと戻す。
そろそろ薬も打ち止めで、後は兎に角がんばる時間だ。
黒い炎に焼かれながらも剣を振る。
火の粉はこの際どうでもいい、一撃で死ななければ問題ない。
鱗を幾らか削ったが、バンダースナッチの動きは衰えないまま。
まぁ実際、まだロクにダメージ受けてないわけだしな。
つまりまだまだがんばる必要がある。
『――頑張って、私の
頭に響く声は、多分幻聴じゃない。
アウローラが《念話》で飛ばして来た声援だった。
こっからじゃ見えないが、イーリスやテレサ、ブリーデもどっかにいるはずだ。
そっちもそっちで、俺が勝たなきゃ困るよな。
胸に燃える炎の中で、ボレアスも愉快そうに笑っていた。
『期待が重いなぁ、竜殺し』
「まぁ、やる事は変わらんしな」
『それは確かに。であれば、やれるようにやってみせろよ。
竜を殺すのは、お前の得意分野だろう?』
いや、得意分野かは分からんけど。
実際これまでやってきた事で、此処までやれてきた事だ。
だったらやる。それだけなのは間違いなかった。
「■■■■■ッ……!!」
バンダースナッチの咆哮。
其処に狂気だけでなく、焦れた感情が含まれるのは気のせいか。
いつまで経っても俺が死なない事に、狂った獣も流石に苛立ってきたようだ。
それで攻撃が雑になったりしないのが非常に面倒だ。
弾くのは必要最低限で、出来る限り大きく躱す。
相手が二十の攻撃を重ねる間に、一刀差し込めれば良い方だ。
鱗が一枚、剣の切っ先に断ち割られる。
たったの一枚ではあるが、此処まで積み重ねたモノがある。
真竜が今の姿に変わる前も幾らか削った。
アウローラやボレアスの攻撃も、決してノーダメージなわけじゃない。
特にボレアスの撃ち込んだ《吐息》だ。
アレはバンダースナッチの表皮を焦がしただけではあった。
逆に言えば鱗の広い範囲を焼いてもいた。
幾らか脆くなった鱗は、剣を掠めれば容易く削れる。
少しずつ、一つずつ、一歩ずつ。
俺は剣を振るい続けた。
「ッ――――!?」
バンダースナッチは叫ぶ。
何か文句を言ってるみたいな雰囲気だが気にしない。
こっちにそんな余裕は微塵も無いからだ。
限界とかを語るのも馬鹿らしい。
既に死ぬ手前辺りを踊っている最中だ。
賦活剤は使い切ったし、後は気合いだけの勝負。
バンダースナッチの勢いはまったく衰えていなかった。
刃が一度閃く度に破壊が起こり、黒い炎は触れる全てを焼き焦がす。
ピシリと、その中で俺は微かな音を聞いた。
実際にそんな音だったかは曖昧だ。
確かなのは、それが地下墓地全体から聞こえてくる事。
遠からず、この場所は崩壊する。
仮に山のような土砂を浴びてもバンダースナッチは死なないだろう。
だがこっちはそういうワケにもいかない。
「キツいなぁ……!」
呼吸一つすら惜しい状況だが、思わずぼやいてしまった。
焦りはあるが、それでしくじれば死ぬ。
荒れ狂う真竜の動きを見逃さず、小さな傷を積み上げ続ける。
タイムリミットはもう間近だ。
「■■■■――――っ!!」
「とっ……!?」
不意にバンダースナッチが大きく吼えた。
それは衝撃を伴って空気を震わせ、地下の崩壊を更に早める。
天井から大小の瓦礫が落ちてくれば、此方は回避せざるを得ない。
――その瞬間をバンダースナッチは狙い打つ。
降って来た瓦礫を目隠しに、それを粉砕しながら向かって来る一刃。
収束した黒炎の熱量は、触れた石片を蒸発させる程。
勝負を狙った攻撃だが、仕掛けてくるのは予想できた。
炎で身体を焼かれるのを覚悟で、俺はその刃を敢えて剣で弾いた。
避けようにも、崩れて落ちて来た瓦礫が邪魔だ。
下手に回避して身動きが取れなくなれば、返す刀で塵になる。
だから前へと踏み込んで、黒炎を腕に浴びながらも刃を叩き落す。
焼かれる激痛で頭が沸騰しかけるが、我慢だ。
歯を食い縛り、俺が狙うのはバンダースナッチの首。
両腕に力を込めて、真っ直ぐ剣を打ち込む。
これまでの攻防で薄くなった装甲は、その一刀で容易く断ち斬られ――。
「ッ――!?」
いや、幾ら何でも手応えが軽すぎる。
薄い一枚の板を割ったような感触だけで、バンダースナッチの首が落ちる。
そして気付く。
甲冑へと変じた竜は、首無しだった。
また鎧を纏う前のあの狂った女は、俺より小柄だ。
首を断たれると同時に、竜の鎧は砕ける。
落ちた首――いや、『兜』に中身は入っていなかった。
破片となった鎧の下から、剣を構えた女の姿が露わになる。
さっきの一撃は、この罠で嵌める為か……!
下から掬い上げるような突きは、完全に此方の不意を打つ形だ。
しかし俺はその一撃をギリギリで回避する。
少し前に、油断ならない糞エルフと戦った経験だ。
最後の最後まで何が起こるか分からないと、そう構えていたから反応できた。
「ああぁああああっ――――!!」
狂ったように叫びながら、女は更に剣撃を放つ。
《竜体》を解除した影響か、黒い炎は消えていた。
力も落ちているが、速さと鋭さは変わらない。
激しい嵐にも似た攻め手に、俺は只管耐え続ける。
一刀でもまともに受ければ、それだけで致命傷になるだろう。
『レックス……!!』
頭に直接響くのは、悲鳴に近いアウローラの声。
応えてやりたい気持ちはあるが、今は目の前の嵐に集中する。
まったく切れ間の無い怒涛の連撃。
防御など一切考えずに、ただ敵を殺す為だけに攻め続ける。
……剣士としての腕は、間違いなく女が上だ。
技量なんて比較するのも馬鹿らしい。
まともな状態で刃を合わせるだけなら、俺に勝ち目は無かったろう。
だが。
「《炎の矢》」
呟く《力ある言葉》に従い、炎の矢が生まれる。
俺の身体で作った死角から、女の足下を狙って鏃を撃ち込む。
そのぐらいの魔法では大した傷にならないが、女の体勢は僅かに崩れた。
構わず振り下ろされる剣に《竜体》の時ほどの力はない。
だから《盾》の魔法で女の刃を弾く。
攻めるばかりの女は、それだけで致命的な隙を晒した。
《竜体》の護りも無くなった胴体に、俺は真っ直ぐに剣を打ち込む。
……どうしようもなく狂った女に、もう自分を守る必要なんて無かったんだろう。
ただ目の前の全てを斬り捨てる、憤怒と憎悪しか無かった。
だからその一刀は、酷く簡単に届いた。
「ぁ…………?」
何が起こったのか。
狂った彼女には、きっと理解出来なかったろう。
俺は躊躇無く、手にした剣を振り抜いた。
肉と骨が断たれ、そして切っ先はその奥にある魂も捉えた。
複雑に絡み合って一つになった、真竜の魂を。
何かを斬り裂く感触と共に、真っ赤な血が花のように散った。
「…………」
剣を構えたまま、俺は倒れた女を見ていた。
最後の最後まで何が起こるか分からない。
与えた傷も致命傷だが、まだ何かしてくる可能性も――。
「……ん?」
赤黒い、塵のようなモノが動いた。
一瞬身構えたが、其処に敵意はなかった。
塵は集まり、やがて一つの形を成す。
崩れつつある地下墓地の中心で、立ち上がったのは一匹の亡霊。
首を失い、再構築した身体も穴だらけの竜。
それはただ、流れた血に沈む女の傍に寄り添った。
女は勿論、首の無い竜も何も語らない。
――確かなのは、その瞬間に戦いが終わった事だけだった。
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