幕間4:アリスに何があったのか?
……随分と、長い夢を見ていた気がする。
忘我の狭間から浮き上がった時、「私」が己が何者なのか分からなかった。
眠りは深く、「私」の中の記憶は酷く曖昧なモノになっていた。
先ず、「私」がいる此処は何だ?
見渡せば、其処は月日によって朽ち果てた霊廟のような場所。
幾つもの石棺が置かれ、「私」自身も同じ棺に横たわっていた。
棺に刻まれた名前は……知っているような、知らないような。
思い出そうとしても、頭から浮かび上がって来ない。
頭痛が酷い。「私」は誰だ?
あやふやな世界に一人だけ残された「私」の耳に、誰かの声が届いた。
いや、彼らは最初から其処にいたんだ。
ただ「私」がこの瞬間まで認識出来ていなかっただけで。
「目覚めた、本当に目覚められたぞ……!」
「あぁ、伝承は真実だったんだ……!」
「偉大なる《始祖》、正義の剣を掲げる御方よ……!」
……一体、彼らは何を言っているのだろう?
それは「私」の事か――いや、本当にそうなのか……?
頭痛が酷い。私は何を忘れているんだ。
視線を向ければ、「私」の棺の前で頭を垂れる人間達の姿があった。
彼らは一様にボロボロで、一目で敗残兵と分かる有様だった。
何かと死闘を演じながらも、力及ばずに逃げ出す以外になかった。
その事実だけは、直ぐに理解する事が出来た。
胸の奥に燃える感情が何であるのか、今の「私」には分からない。
戸惑う「私」の様子を、気に掛ける余裕すら無いのだろう。
罅割れた床に手を付いて、彼らは「私」に懇願した。
「久遠に眠りにあった貴女様を目覚めさせた事。
それがどれだけ罪深い事かは分かっております……!」
「ですが、今の我らには他に縋るモノがない。
どうか、どうかお許し願いたい」
「そして叶うならば、お力添えを賜りたく……!」
……一体、彼らは何を言っているのだろう?
ワケの分からぬままに一方的に捲くし立てられては「私」も困る。
故に先ず、事情を説明するように促した。
「私」自身が曖昧である事は、その時点では伏せたまま。
すると彼らは涙を流し、己の不甲斐なさに震えながらも語り始めた。
恐るべき災厄の訪れと、危難の時を。
その内容の半分も「私」の頭には入って来なかったが。
心の深い場所に、刺さる話も混じっていた。
「……そして、我らは『決死隊』。
多くの仲間と、託された《竜殺しの刃》と共にこの地に入りましたが……」
「あの恐るべき竜の王、その暴威の前に余りにも無力でした」
「切り札である刃を振るい、王を討ち取る予定だった者もあっさり命を落とし。
それ以外の仲間達の大半も殺されてしまった」
「我らの内、生き残ったのはこの場にいる者達だけです」
恐るべき、竜。
その単語が何故か、心を妙にざわつかせる。
熱く炎が滾るような、不可思議な高揚感を「私」に与えた。
竜。竜……恐るべき、竜の王。
それを「私」は知っているはずだ。
知っている……そうだ、知っている、覚えている。
「私」は、荒ぶる竜を鎮める事を望んで、戦いに出たはずだ。
その日の事を、「私」は鮮明に思い出した。
「最早打つ手無しと、そう諦めた時。
この地には、遠い昔に眠りについた《始祖》の伝説がある事を思い出したのです」
「強大なる竜の王すら屈服させた、偉大なる聖女。
正義の剣を掲げたというその方が、今も眠っているだけならば……」
「私達はその可能性に賭けて、この霊廟を見つけ出しました。
そして――伝説は、真実だった。貴女はこの時代にお目覚めになられた……!」
口々に語る彼らの眼には、希望の火が灯っていた。
自らが知る伝説にある通り、「私」ならば恐ろしき竜に打ち勝って見せると。
心の底から信じ――いや、絶望に対して縋れる希望が、もうそれしかないのだと。
己の無力から顔を背けるように、「私」に対して平伏していた。
……分からない事が、未だに多い。
彼らが口にした伝説とやらも、どうにもピンと来ない。
それは本当に「私」の事なのか?
分からない――分からないが、真実だと何故か確信出来る部分もある。
竜と戦った事。「私」はその為に、剣を取ったのだと。
この頭は欠片も覚えていないはずなのに、それだけは間違いないと思ったのだ。
だから、「私」はごく自然と頷いていた。
今の状態でどれだけ力になれるかは分からないが――出来るだけの事はしよう。
そんな「私」の言葉を聞いて、彼らは感極まったように泣き出した。
「ありがとう御座います、ありがとう御座います聖女様……!」
「偉大なる《始祖》よ、感謝します。
そしてどうか、無力な我々をお許しください……!」
「我らの戦いで、竜だって傷付いています。
あの御方より授かったこの《刃》ならばきっと……!
きっと、あの狂える竜王を討ち取る事も不可能ではありません……!」
そう言いながら、彼らが「私」に差し出した一振りの剣。
鈍い輝きを放つ飾り気の少ない長剣。
「私」はそれを手に取った。
刀身には見覚えのない術式が刻まれ、手にした「私」の魔力で脈動を始める。
この刃ならば竜を殺せると、彼らは歌う。
不死不滅であるはずの竜を、本当に殺す事など出来るのか?
分からない。「私」には何一つ分からない。
分からないが――請われた以上は、それを果たすのが「私」の役目だろう。
疑問は直ぐに泡と消えて、「私」は剣を片手に立ち上がった。
そうだ、竜と戦わねば。竜を討たねば。
無辜の人々を傷つける、その勝手な所業を見過ごしてはいけない。
きっとそれが、「私」にとっての「正義」なんだ。
そう気付くと、何故か晴れやかな心地になれた。
さぁ、竜と戦おう。竜を討ち取ろう。
弱い人々が「私」を頼り、そうする事を望んでいる。
ならば「私」は「正義の剣」によって、その期待に応えなければ。
「……あの狂った竜の縄張りに関しても、私達なら案内出来ます」
「竜との戦いは、貴女様にお願いせねばなりません」
「どうか、どうかお願いします。
奴の炎で燃え落ちた街や村は、一つや二つではないのです……!」
彼らの懇願は、「私」の中の義憤を駆り立てるには十分だった。
最早、己の使命に迷う事など一点も無し。
自分の名前すらもロクに出てこない状態で、「私」はのぼせ上っていた。
地下に造られていた霊廟を抜け出し、荒れ果てた山を行く。
……此処は、こんな景色だっただろうか?
何故かそんな事を考えながら、今や不毛と化した大地を眺める。
かつてはこれよりはマシな状態で、その後は人々の暮らす街もあったはず。
……あったはず? どうだったろう、良く分からない。
少なくとも今、この地には乾いた土と砂以外のモノは見当たらない。
いや、少し訂正する。
それ以外にも、翼を生やした歪な獣の群れがいた。
「奴が放った
「聖女様! どうか御力を!」
弱い彼らは悲鳴混じりにそう叫んだ。
見たところ、数は多いが大して強くもない。
生きているだけで死んでしまう彼らでは、確かに荷は重いかもしれない。
だが、「私」にとっては物の数ではなかった。
故に即座に蹴散らした。
預かった剣を振るっただけで、飛竜どもは虫のように落ちて行く。
一時は戦えるかどうか不安だったが、これなら問題ない。
記憶が曖昧でも、「私」の身体は戦い方は克明に覚えているようだった。
そんな「私」の戦いぶりを見て、弱い彼らは歓声を上げる。
これ以上ないぐらいの希望に声を弾ませて、自分達の勝利を確信していた。
「やっぱり伝説は本当だった……!」
「これなら、あの竜だって恐れる事はないぞ!」
「あぁ、最初は不安だったけど――」
……ほんの少し。
ほんの少しだけ、「私」は不快感を感じていた。
理由は分からない。何がそんなに癇に障ったのか、自分でも不明だ。
その感情もごく僅かなもので、胸の奥にしまうのは容易だった。
だから「私」はおくびにも出さず、彼らに先へ進むように促した。
最初の悲壮感など欠片も無く、明るい声が返ってくる。
何故だろう、不快だ。
それはまるで、肌の上を幾つもの蟲が這い回っているような――。
「……! 出た、出ました!
アレです、あの竜です!」
「嗚呼、なんて悍ましい姿だ……!
狂った怪物め! どいつもこいつも同じだっ!!」
「聖女様、どうか我らをお守りください……!」
その場所に辿り着いた時、彼らは一転して弱々しい悲鳴を口にした。
「私」の耳は、それを雑音としか捉えなかった。
其処は巨大なモノが暴れ回ったかのように、複雑に引き裂かれた大地。
砕け割れた地の底から、「ソレ」は這い出して来た。
さながら、大きな竜が人の形を無理やり模したような。
肉体の構造はところどころ歪で、その眼には理性の色は殆ど見られない。
ただ飢えた獣の敵意だけが、炎となって燃え上がっている。
これが、彼らが言うところの「恐るべき竜王」か。
……違和感があった。言葉では説明出来ない。
しかし「私」の中で、目の前の怪物が「恐るべき竜王」という言葉と合致しない。
違う。違うはずだ。竜とは、こんなものでは――。
『■■■■■――――ッ!!!』
「私」が思考の迷路を彷徨っていると、歪んだ竜が大きく吼える。
その咆哮だけで風が荒れて大地が震える。
どれだけ見た印象とは違っても、それは「恐るべき竜」と呼ぶに相応しい力だ。
弱い彼らは、そんな竜の一声だけで戦う意思を失っていた。
ただ無様に地を張って、「私」に哀れな声を叫ぶのみ。
「お願いします! お願いします、聖女様!」
「どうか、あの醜い怪物を――!!」
言われずとも、「私」は己の使命を自覚している。
竜と戦う。竜を討つ。そうしなければ鎮める事は出来ない。
だから「私」は剣を構えて地を蹴った。
疑問も違和感も乱雑に拭い去り、芽生えた「正義」の衝動のまま。
「私」は、恐るべき竜へと挑んだ。
あの日の――ように――?
『………………』
決着は、一瞬でついた。
天高く吼えた竜は、「私」を迎え撃つ事をしなかった。
剣を、《竜殺しの刃》を掲げる「私」を前に、ただその両腕を広げただけ。
疑問を持たずに振り下ろされた剣は、あっさりとその首を断ち斬った。
深く、深く。その魂の本質にまで届くように。
意味が分からなかった。
理解出来なかった。
「狂ってしまった私」の頭では、目の前の現実を直ぐには認識出来なかった。
背後で意味の分からない雑音が聞こえてくる。
「やった! やったぞ! やっぱり伝説の通りだった!」
「かつて、あの恐るべき竜を打ち倒した偉大なる《始祖》……!
永遠に生きるはずの聖女が、この地で久遠の眠りについていると……!」
「伝承は正しかった……!
本当に、あんな恐ろしい怪物を一瞬で屠ってしまうなんて……!」
うるさい。一体、お前達は何を言ってるんだ?
竜は、古き竜は不死だ。その魂は不滅で、その存在は永遠のはず。
「私」は――そうだ、「私」は、耐えられなかった。
人間は竜と違って、長すぎる生に抗えるほど心が強くなかった。
穏やかで幸せだったはずの日々が、「私」の心を徐々に削り始めた。
このまま完全に狂ってしまう前に、どうか「私」を殺して欲しいと――。
そう、願って、けれど優しい「彼」は。
そうだ――「私」を、「私」の心がこれ以上狂ってしまわぬようにと。
あの石の棺に、「私」と「彼」を支え、この地に豊かな街や村を築いた者達。
そんなかつての友だった者達が眠る、霊廟へと。
「私」を、長き眠りにつかせて――。
『……ア、リ……ス……』
その声は、酷く乱れていたけれど。
間違いなく――優しい、「彼」の声だった。
たった今、「私」が《竜殺しの刃》で首を断ってしまった竜。
その転がった頭から、力なく開かれた口から、漏れ出していた。
不死であるはずの竜が、不滅であるはずの竜が。
まるで今にも、死にかけているみたいに。
『すま……な、い……私、は――――』
……嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
どうして、何故?
戦いの王と恐れられながらも、誰よりも優しい心を持っていた貴方。
そんな貴方が何故、こんな姿になっているのか。
狂える竜の王? 貴方がそんな堕落を己に許すはずがない。
どうして、私達の庇護したこの地がこんなにも荒れ果てているのか。
何故――何故?
どうして「私」が、貴方を殺しているのか。
狂った頭では、もう何も理解する事が出来なかった。
「――――ッ!!」
「―――! ――――ッ!」
「――――――!!」
後ろから雑音が聞こえる。
もう、音としても認識出来ない。
お前達は、知っていたのか。
「私」が誰で、「彼」が何者であったのか。
全てを知っていて、「私」にこの刃を握らせたのか。
全て分かっていて、「私」に「彼」を殺させたのか。
……何だ、それは。何なんだそれは。
この世には「正義」があるのだと信じていた。
正しい行いには良き結果があるのだと、そう思っていた。
「私」はどんな過ちを犯した?
「私」はただ、永遠に耐える事が出来なかっただけ。
「私」は弱き人々の助けとなり、いつだって善き事を行おうと心掛けていた。
「私」は――「彼」を愛し、そしてたった一人の娘を愛していた。
そんな「私」は、こんな目に遭わねばならないような罪人か。
だとしたら――この世に、私の信じた「正義」など、何処にもありはしない。
もう魂を感じぬ「彼」の首を掻き抱き、燃えるように熱い刃を握り締める。
虫ケラが何か騒いでいるが、知った事か。
「私」は叫んだ。喉が破れて血が噴き出すのも構わずに。
それは断末魔の声。
一人の哀れな女が死に逝く前の、最後の声。
後に残るのは、一匹の獣だけ。
己の狂気を夢として、燻り狂える獣が一匹。
それで良い――「私」はもう、「私」でいる事すら耐えがたい。
愛する者の亡骸と、愛する者を斬った剣。
それだけを胸に掻き抱いて、私は狂った夢へと身を投げた。
嗚呼……けれど、最後に心残りがあるとすれば。
愛しい「あの子」の顔が、思い出せない。
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