76話:過去は地の底に
……誰かが、オレを呼んでいる気がした。
けれどオレのいる場所は暗闇で、ハッキリとは聞こえない。
此処は何処だ?
いやそもそも……オレは、誰だ?
意味のない疑問ばかりが泡のように浮かんで消える。
誰かが、オレを呼んでいる。
それは分かる、けど何を言っているか分からない。
届かない。何も、この闇の中では。
まるで水の底へと沈んでいくような感覚。
オレはこのまま、何も分からずに溺れて行くだけなのか?
怖い、恐ろしい。
こんなはずじゃなかった。
そんなつもりはなかった。
オレは――「私」は、何一つ知らなかった。
何一つ分かっていないまま、己の愚かさにさえ無自覚だった。
永遠は人には長すぎる。
千年にも届かぬ時間で、人は容易く狂う。
いや、そもそも「正常」なんてモノはまやかしに過ぎないのか。
変わって、狂って、歪んで。
年月はただその繰り返しで、人は死ぬ事でゼロに戻る。
けれど、永遠に生きる事が出来てしまう者は、どうなるのか。
竜は最初から永遠に生きられる者達だった。
けれど、ただの人間に過ぎなかった私は違う。違った。
こんなはずじゃなかった。
そんなつもりはなかった。
私は、ただ、「正しい事」が報われると信じていた。
手に入れた幸福が終わりなく続くのだと、そう信じていた。
信じる事が、愚かさ故の過ちに過ぎないと、気付く事さえ無く――。
「……イーリスっ!! しっかりしろ!」
「ッ……げほっ……!」
私……いや、違う。違う!
オレだ、私じゃない。オレはオレだ!
胸の奥に淀んだ「何か」を吐き出そうとして、思わず咽てしまう。
慣れ親しんだ姉さんの声は、悪い夢からオレを引っ張り上げる。
心の端で融け合っていた「誰か」の記憶が剥がれ落ちるのを感じた。
今のは、あの金髪の女の……?
「イーリス、大丈夫か……!?
「っ、あぁ……姉さん、大丈夫。何とか」
「良かった……」
オレの身体を抱き締めながら、姉さんは心底ほっとした顔をする。
あんまり力いっぱいやられると、ちょっと苦しい。
気恥ずかしさを感じながらも、その背を軽く撫でてみた。
それから、改めて周囲の状況を確認する。
其処はオレ達が最初に意識を取り戻した、あの地下墓地と似たような場所だった。
暗く、古びて朽ちた空気だけが満たす石造りの空間。
あの妙な空間からは抜け出せたのか……?
そう考えたところで、気付く。
「姉さん、ルミエルは?」
「……分からない。
私も奇妙な夢を見たと思ったら、気付くとこの場所にいた。
その時点では私しかいなくて、今ようやくお前を見つけたところだ」
姉さんは苦い表情でそう答える。
ルミエルがいない。
あの扉に入った時点では、確かにいたのに。
こんなワケの分からん場所で逸れるとか絶対に拙い。
ちょっと足元がおぼつかないが、姉さんに支えて貰って何とか立ち上がる。
「探そう。絶対どっかにいるはずだ」
「あぁ」
オレの言葉に、姉さんは迷わず頷く。
そうして迷子の娘を探す為、オレ達は奇妙な地下空間へと踏み出す。
静かで、虫の羽音も聞こえない。
やっぱり空気から何から、最初の地下墓地に良く似てる。
此処には棺とかはなく、ただ迷路のように石の通路が続いてるだけだが。
複雑に入り組んだ道を進みながら、オレは小声で姉さんに話しかける。
「なぁ、姉さん」
「なんだ? 何か見つかったか」
「いや、さっきの話だけど。奇妙な夢を見た、って言ってたか?」
「あぁ……どうにも、他人の記憶を覗いているような。
そんな不可思議な夢を見たんだ」
「他人の記憶……」
それは、もしかして。
「……姉さん。それって、金髪の女が黒ローブと話してるような奴か?」
「……お前も、同じモノを見たのか?」
「あぁ、その後に竜っぽい奴と女がガチバトルしてるとこまで見た。
それで最後は気絶しちまったんだけど……」
「私も同様だ。そうなると、私達は同じ夢を見たのか……?」
「夢っつーか、姉さんが言った通り、『他人の記憶』を覗いたんだと思う」
理屈は良く分からんが、多分そういう事だと思う。
これまで見たのが、恐らく過去の記憶であったように。
オレ達はより直接的に、誰かの記憶を垣間見たんじゃないか。
そして多分、記憶の主はあの金髪の女だ。
「……分からないな。
一体何が目的で、私達にそんなものを見せてるんだ?」
「目的ね。そんなもん、無いかもしれないぜ」
「目的が無い……?」
「あぁ、それこそ何の根拠も無いけどさ」
そうやって言葉を交わしながら、オレ達は慎重に進む。
石に囲まれたこの場所自体が、何だか棺の内側みたいに思えてくる。
この場所が墓地であるなら、あながち間違いでもないか。
「狂った奴が、延々と意味のない行動を繰り返してる。
オレ達はただ、此処に来たせいで偶々それに巻き込まれた。
それだけな気がするんだ」
「……成る程」
仮にオレの言葉通りだとしたら、これほど馬鹿げた話もない。
完全に貰い事故とかそんな奴だ。
姉さんは真面目な顔で小さく頷いて。
「実際のところ、お前の言う通りかもしれないな。
仮に私達を標的にした行動だとしたら、不可解な事が多すぎる」
「どっちがマシだったかっつーと、微妙なところだけどさ」
獲物として怪物に付け狙われるのと。
頭のおかしい怪物が徘徊する巣穴に偶然紛れ込むの。
本当にどっちの方がマシなのか。
どっちもどっち、って言った方がいいかもしれねぇけど。
「……ところで姉さん。オレの《金剛鬼》は……?」
「残念だが、私がお前を見つけた時には何処にも……」
「マジかぁ……」
まだゲットしてそう間もないってのに。
もう失くしたとか地味にショックがデカいわ。
戦闘手段は勿論だが、こういう探索中にも地味に便利なんだけど。
……いや、まだだ。諦めるにはまだ早い。
オレらが此処に放り出されたのなら、《金剛鬼》も同じ状況のはず。
ルミエルを探している間に、運良く見つかる可能性だってきっとある。
そうと決まれば、僅かな痕跡も見逃さないように……?
「待て、イーリス」
「分かってるよ、姉さん」
注意を促す姉さんに小さく応える。
空気が変わった。
具体的に何がどう、とは表現し辛い。
ただ不可解な違和感が辺りを漂い始める。
それは此処までに何度も感じて来たモノでもあった。
折角抜け出したと思ったら、そういうわけでもなかったらしい。
「ホントに勘弁してくれよ……!」
オレがそう呟くと、周囲の景色が乱れた。
まるでノイズ混じりの映像のように。
羽蟲の大群が通り過ぎ、視界を遮るみたいに。
それらが晴れた後にはまた見覚えのない光景が広がっていた。
荒れ果てた大地と、それとは無関係に何処までも晴れ渡る青空。
世界の中心に立っているのは、一人の女と一頭の竜。
恐らく戦いの後とかだろう。
互いに傷付きながらも決して倒れず。
強い光を宿す瞳で、二人は相手の事だけを見ていた。
「……これで、何度目だった?」
『既に十は超えたはずだが、数えるのも馬鹿らしいな。
どうして諦めん。互いに不死の身だ、不毛とは思わんか』
「そうして私が諦めたら、お前はまた戦いを呼ぶ。
それで傷付くのは無辜の民だ」
『故にお前が代わりに傷付くと?
善行も過ぎれば驕った偽善になるぞ』
「諦める事が善だと。何もしない事が正しいとは思わない。
例え私が傷付く事が偽善でも、見知らぬ誰かが傷付くよりは余程良い」
言葉を交わす二人は、自然と笑みを浮かべていた。
荒れ地のように傷んだ身体とは真逆に、青空のように澄んだ笑みだった。
オレはそれを見ているだけなのに、何故か胸に痛みを覚えた。
物理的な痛みじゃない。
胸の奥をギュッと締め付けられるような、そんな痛みだった。
「……竜と人。戦う内に、彼らは心が通じ合ったんだな」
少し前の夢とは異なり、オレの傍らには姉さんがいた。
その表情は苦く、もしかしたらオレと同じ気持ちなのかもしれない。
古い竜の男と始祖の女。
本当に、見ているだけなのに酷く苦しい。
「……また、場面が変わる」
姉さんの呟き通り、再び世界が乱れる。
先程よりも激しく変化しているように見えるのは、果たして気のせいか。
新しい光景が映し出されるが、ところどころに虫食いがある。
ちょっとずつ、何かが狂っているような。
「……後悔はしないのか?」
「一体、何を後悔する事があると?」
何処かの部屋で、優しく言葉を交える男と女。
黒髪を短く切った壮年の男は、今初めて見た顔だった。
けど纏う空気や印象から、それがあの竜が人間になった姿だと直ぐ分かった。
厳しい面の男に、寄り添う女は微笑む。
「勿論、こんな間柄になるなんて最初は想像すらしなかった。
荒ぶる竜を鎮める事こそ私の使命だと、それだけを考えていた。
……けれど、心や気持ちは理屈じゃない。
私は今、貴方と共にいる事が幸せだよ」
「それは、私も同じ気持ちだ。
……だが、不死とはいえお前は人間だ。
そして私は竜、子を望む事は難しいだろう」
「なんだ、それを気にしていたのか」
案外可愛いところがあると、女は楽しげに笑った。
不本意そうな顔で黙り込む男を、その細い腕で抱き締める。
「子を授かるかどうか、こればかりは天命だ。
可能性がゼロなら諦める他ないが、僅かでも希望がある事は確認済みだ」
「……仮に無事に子を授かったとして、その子はこの地で最初の半人半竜だ。
私達の我儘で、我が子に過酷な運命を背負わせる事になるのでは……」
「何を弱気な事ばかり言うんだ、《戦王》の名が泣くぞ?」
柔らかい手つきで、女は男の頬を撫でる。
そしてそっと唇を触れさせた。
見てはいけないモノを見ていると、頭の片隅では理解していた。
けれどオレも姉さんも、眼を逸らす事は出来なかった。
「私達の子だ。きっと強く、正しく生きてくれる。
もし背負う運命が過酷なら、親である私達が支えてやれば良い」
「支える、か。最初から完成して生まれた
「そうだろうな、不変不滅の竜の王。
けれど今、貴方は変わった。
知らない未来を思い描いて、強く不安を感じている」
「……あぁ、お前の言う通り。
私は自分の変化を恐れ、戸惑っている。
《戦王》と呼ばれておきながら、何とも情けない話だ」
「……まったく。私の旦那様は冗談も通じないらしい。
そういう堅物なところも好ましいんだが」
本気で落ち込んだ男を、女は笑いながら強く抱き締めた。
触れ合う二人は幸福だけに満たされていた。
未来には何も、恐れる事など無いと。
「大丈夫だよ、二人なら。私達だってお互いを支え合える」
「……そうか。確かに、その通りだな」
「そして願わくば、二人ではなく三人となれるように。
いや、別にもっと増えても一向に構わないけど」
「一人でも奇跡を願わねばならないんだ。
余り欲張り過ぎるのは良くないのではないか?」
笑い合う二人。
竜と人、種族は違ってもその絆は本物だった。
だからこそ、余計に胸が痛む。
その結末が何であるのか、きっとオレ達は既に見ているはずだ。
ソレが良く知っている二人の姿ともダブる。
こっちの事などお構いなしに、過去は幸福と共に流れて行く。
「……なぁ。かなり気が早いとは思うのだけど……」
「? どうした」
「産まれてくる子の名前を、考えたんだ」
「……それは確かに気が早いが、良いのではないか?
出来れば、どんな名前か聞かせて欲しい」
「少し気恥ずかしいが……うん。
未来に、希望の『光』を見つけられるようにと願って――」
ぶつっ、と。
女が語り終わるよりも早く、過去の幻は消え去った。
後に残るのは、朽ち果てた現在(いま)だけ。
胸の中に、冷たい棘が無数に刺さったみたいな気分だった。
あの金髪の女が言おうとしたのは……。
「……イーリス」
「……先へ進もう、姉さん」
気遣う姉さんの言葉に、オレは感情を抑えた声で応じた。
多分だけど、姉さんも気が付いている。
だからお互い何も言わず、暗い通路を進んで行く。
やがて見えてくる大きな扉。
これも石で造られていて、随分と分厚い。
姉さんは無言で前に出ると、その扉に手を触れさせる。
変わらず物音も、生き物の気配も無い。
「開けるぞ」
オレが頷くのを確認してから、姉さんは扉を押し開く。
石が擦れる乾いた音。
扉が開かれ、埃っぽい空気が内側から流れ出す。
その部屋は――見覚えのある、場所だった。
「地下墓地……」
広い石造りの空間と、壁に作られた棚に並ぶ石棺。
それは間違いなく、オレ達が一番最初に目覚めた時の部屋だった。
驚きはない。何となく予感はあった。
色々ドタバタ走り回ったが、結局この部屋の
そんな生き物の気配は欠片もない、死者の為の部屋。
其処に見覚えのある少女の姿を見つけても、オレは動揺しなかった。
「ルミエル……」
自然とその名を呼びかけるが、反応はない。
少女は石棺の前に座り込み、何も言わずに俯いていた。
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