幕間5:竜殺しの詩


 ―――信じられないものを見ていた。

 それは現実と呼ぶには、余りにも幻想的な。

 御伽噺の一節から切り取ったかの如き光景で。

 私はただ、その様を茫然と見ている他なかった。

 

「…………」

 

 争うのは、一人と一柱。

 かたや、先ほどまで死にかけていたはずの甲冑の騎士。

 かたや、肉体を持たぬ炎と化した古き竜。

 如何なる経緯で両者が戦う事になったのかを、私は知らない。

 ハッキリと言える事は、一つだけだ。

 

「竜殺し……」

 

 幼い頃に、妹のイーリスと共に父から聞かされた物語。

 恐るべき北の竜王を、一人の王が討ち果たしたというその偉業。

 何度も、何度も。私達はその詩を聞いた。

 今の時代を考えれば、「人が竜を討つ」話は不遜ではあったけれど。

 私は――特に妹は、不可能を覆す王の在り方に胸躍らせていた。

 それが今、目の前に再現されていた。

 黒い炎が踊り、その渦中へと剣を構えた騎士が挑む。

 決して美しく洗練された戦いではない。

 むしろ不格好で、見る者によっては滑稽と評するかもしれない。

 人が竜に挑むという行為そのものが、最初から愚かに過ぎる所業だ。

 地を這う虫が、どうして天高くに在る者に逆らえよう?

 それが道理で、それが常識のはずだった。

 詩はあくまで御伽噺。憧れを抱こうと、それだけで現実は覆らない。

 ――少なくとも、この瞬間までは。

 

「――――!」

『――――!』

 

 竜と人との間に、言葉はない。

 ただ炎と鋼の応酬だけが果て無く続く。

 それはほんの瞬き程度の時間のようで、永遠に終わらないようにも思えた。

 時の流れば、此処だけ切り取られたみたいに。

 静止した世界の中心で、彼らは戦う。

 その戦いが如何なるものなのかを語る言葉は、私の中にはない。

 或いはどんな優れた吟遊詩人でも、それを詩にする事など出来ないだろう。

 私にも、理解出来る事があるとすれば。

 これが――これこそが、「竜を殺す」という事だけ。

 

『――ハハッ』

 

 激しく、烈しく、嵐そのままに荒れ狂う炎は。

 ほんの少しだけ、笑ったような気がした。

 甲冑の騎士はどうだろう。彼もまた、笑っているのか。

 少なくとも、振るう剣に怒りや憎しみという感情は見られない。

 あるのはただ、勝利を掴もうとする強靭な意思。

 死を恐れながらも死を厭わず、彼は踏み込む。

 そうして、どれだけの時を彼らは戦い続けただろう。

 ほんの瞬き程度のようでもあり、永遠と錯覚しそうな程。

 けれどこの世に、真に永遠なものなどない。

 

「…………」

 

 私に語れる言葉はなく、ただその瞬間を見ている他なかった。

 ――決着は、思いの外に穏やかなものだった。

 全身を焼き焦がされ、煙を上げて呼吸を荒げる騎士と。

 その足元で、半ば崩れかけたまま横たわる古き竜。

 詩に語られていた一節が、頭の中で蘇る。

 かくて、竜殺しの偉業は成し遂げられん、と。

 

「……どうだ」

『貴様の勝利だ、ただ一人の竜殺しよ。精々誇ってみるがいい』

「そんな余裕あると思うか」

 

 剣を突き付けられながらも、竜の態度は変わらない。

 何処までも傲岸で、何処までも不遜。

 だけど、言葉には僅かだが目の前の相手への敬意が含まれている気がする。

 己を討ち取った男を、竜はどんな気持ちで見上げているのだろう。

 

『だが忘れるな。我は《北の王》、永遠不滅たり魂を持つ古竜の王。

 その剣で我を斬ろうと、我が滅びる事は決してない』

「そうかよ」

『そして貴様がその剣を振るい続ける限り、我と貴様は繋がったままだ。

 貴様が力を得れば我が力も増す。またいつでも――』

「だったら、殺り直してやるよ」

 

 何度だろうと、必ず勝ってやると。

 それは人が竜に向ける言葉とは、とても思えなかった。

 言われた方は、むしろ愉快そうに笑って。

 

『不遜! 何たる不遜か! 嗚呼――だが、それで良い。

 そうでなくては、我を討ち取った者とは言えぬわ。

 ただ一人の竜殺し。人の身でありながら、天を落とした愚か者よ』

 

 彼は、竜殺したる騎士は、その言葉には応えなかった。

 代わりに、真っ直ぐに振り下ろした剣が炎の中心を断ち切る。

 ゆっくりと、やがて急速に、その刀身へと竜の炎は呑み込まれていく。

 

『ではまた暫し、貴様の中に潜むとしようか――』

「おう。家賃は取り立てるから覚悟しろよ」

 

 そんな軽いやり取りを最後に、古の竜殺しは完全に幕を閉じた。

 竜は去り、後にはただ一人の騎士だけが立っている。

 

「……よし」

 

 確かめるように腕を数度動かしてから、彼は背を向けて歩き出す。

 一瞬、茫然としたまま見送りかけてしまった。

 

「っ、待て、待ってくれ……!」

 

 だから慌ててその背を追った。

 彼も私に呼び止められると、素直に立ち止まってくれた。

 近くで見れば相変わらず――いや更に一戦交えた分、一層ボロボロになっている。

 けれど先ほどとは違い、その全身には生命いのちが燃え滾っていた。

 余りの違いに、私でさえ一瞬息を呑んでしまう程に。

 

「どうした?」

「っ……奴の、マーレボルジェのところへ行くのだろう?

 それならば、私も連れて行ってくれ」

「おう、分かった。行くか」

 

 余りにもあっさりと、彼は私の同行を許してくれた。

 言った私の方が困惑してしまった。

 

「その、良いのか?」

「いや、さっきまでの様子だと動けなさそうだったからな。

 大丈夫なら問題ないだろ」

 

 本当に、何と無い事のように彼は言う。

 

「あとまぁ、良く考えたら俺は道とか分からんし。

 適当にふらついても辿り着かんよなぁ……」

 

 本気で困ったように言いながら、彼は自分の兜を指で掻く。

 先ほどまでの竜殺しの姿が、まるで嘘のように彼は人間だった。

 不思議な――本当に、不可思議な男だ。

 

「真竜のいる最上層への道なら、私が把握している」

「だよな? なら道案内を頼めるか」

「それは勿論構わない。ただ……」

「ただ?」

「途中には、かなり分厚い防衛線が敷かれているはずだ。

 少なくとも上層に常駐している《牙》の部隊。

 後は中層以下からも人員を投入している可能性もある」

 

 真竜マーレボルジェは、狡猾で用心深い。

 どれだけの護りを固めているのかは、元は《爪》である私でさえ把握していない。

 辿り着く事さえ、本来なら容易ではないはずだ。

 しかし。

 

「そんなもん、正面からブチ破ればいい。

 もうコソコソするのも手間だしな」

 

 大した事じゃないと、彼はそう言い切った。

 本来ならば、狂人の戯言と変わらないような話だ。

 けれど私は、御伽噺の姿を見てしまった。

 竜が人と戦い、それに打ち勝つという御伽噺を。

 ならどれだけ夢物語のような無謀でも、この男なら大丈夫だろうと思えてしまう。

 

「? どうした?」

「あ――いや、すまない。確かに貴方の言う通りだ。

 真竜に挑むなら、その程度の事は蛮勇ですらなかったな」

 

 自分で言った言葉に、自分で笑ってしまいそうだ。

 私も無茶苦茶な事を言っているな。

 さっきまで胸にあった悲壮感は、もう何処にもない。

 我が身を犠牲にしてでも、せめて妹のイーリスだけは救い出さねばと。

 そう考えていたはずなのに。

 

「よし、いい加減行くか。アウローラやイーリスを、あんま待たせたくない」

「同感だ」

 

 頼もしき竜殺しの言葉に頷いて、私はその背に続く。

 ……死地に踏み込む前に、もう一つだけ聞いておかねば。

 

「すまない。今さらだが、名前を伺っても?」

「……そういえば名乗ってなかったな」

「私が操られていたせいだな。申し訳ない」

「いやいや、それはいいけどな」

 

 何とも奇妙な会話だ。

 戦場に赴く空気とは、とても思えない。

 

「今はレックスを名乗ってる。宜しくな」

「ええ、私はテレサ=アンテノラ。改めて宜しく、レックス殿」

 

 互いに名乗り合い、私は彼の後を付いて進む。

 あれほど恐ろしかった真竜の事も、今では何でもない事のように思えた。

 

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