三日目 『強欲なる祈り』 その5
新聞を不器用な腕の使い方で広げているお姫様のもとへと戻った。
「進捗はどうだい?」
「デモが多いらしいな。政治的な対立も酷いようだ。そして、フランスとベルリンが嫌い。あとは……大して不思議なことも書かれていない」
「知っている」
「読んでいたものな。だが、社会勉強にはなった気がする。この土地の情勢を知っておけば、判断ミスが減るかもしれない」
「いいことだ。潜入する土地について詳しくなることはな。覚えておくがいい。古いが、有効に身を守る方法となる。魔物の中には、人間関係どころか、政治的な対立まで使いこなしてくる邪悪なヤツがいるんだ」
「マルジェンカが、その例だな」
「ひっそりと、その土地になじむ。そして、魔物に利用されている者を探せ。それが、バチカンの戦士が『狩り』を上手くするコツだ」
遺言として、その知識をこの若い戦士に渡して行くことにしよう。そんな風にオレは考えている。娘に知識を伝える父親のように……オレの心は、エリーゼの喪失のせいで、大きく歪んだままになっているんだな。
問題はないさ。
オレのいない世の中でも、オレの知識が世界を守るために使われるのなら。全くもって問題はなかった。冷えたコーヒーがわずかに残っていたコップ、死者には必要のない黒い苦みを口に流し込んで。こちらを見つめる青い瞳に告げた。
「移動を開始しよう。ドブロシの仲間以外からも、情報を集めに行く」
「ドブロシを頼りたくないの?」
「潔癖さから来ているわけじゃない。オレはな、どんなことをしたとしても、エリーゼの体を取り戻したいだけだ」
「そうだったな。了解だ。行くとしよう。『狩り』の仕方を、見せてもらうぞ、アレク・レッドウッド」
「ああ。覚えておいてくれ。若者よ」
「……慣れたのかしら」
「は?」
「……こっちのことだ。気にするな」
年頃の乙女は、娘を持つ身になったとしても謎なことが多い。
……バチカンの戦士としての行動に集中しよう。
灰色に曇るバイエルンの街角に出る。古く美しい街並みもありはするが、どこか静かで不穏な気配が漂っていた。政治的な混乱のせいか、たんに年の四割は雨が降るような寒い土地だから、薄暗くて当然なのか……。
小さくてまばらな雨粒が、今も空から降って来る。傘を差すほどではないが、それは野蛮な男の意見だった。
「傘を持っているか?」
「……こんな雨で?」
「顔を隠すことにも使える。魔物がいる土地では、それを使うことも有効だぞ」
「なるほどね。じゃあ、お前はどうするんだ?傘はヴィーゴに一つだけ積んであるけど。買うの?」
「オレはいいさ。こんなガタイの男は、小雨を気にしない方がフツーだ。フツーの男に化ける方が、オレにはマシだろ」
「ダブルスタンダード……ってわけじゃないな。たしかに、お前みたいな筋肉質のクマみたい大男が、この小雨で傘を差すなんて、ちょっとユニークだから」
「そういうことさ」
「待っていて」
小雨の中を軽やかに歩き、彼女はレストランの入り口近くに停めてあるヴィーゴを探る。20世紀の鋼の荒馬の後部には、物騒な武器を積んだ箱もあれば、物騒ではないコレット・イルザクスの私物も積まれた箱があった。
年頃の乙女が長旅をするにしては、小さくまとめられた箱だったがな。旅慣れているという気配を、あまり感じさせないサイズではあるが―――乙女の私物を詮索する行いなど、君の夫がするはずもない。
失礼な行為はしないよ、コレットもバチカンの戦士だ。一人前のエキスパートとして、仕事のスタイルには可能な限り口出しはしないさ。バチカンの戦士という風変わりでユニークな連中の行動に口出しなんてして、口論にならないとはとても思えない。
牛の頭骨に化粧を施すヤツだっているんだからな、我々の同僚には。私物の容れ物が少ない乙女なんて、まったくもって常識人に近かった。車や船の先端のように、緋色が走る獣の頭骨が飾られていないヴィーゴを見ると、安心できた。
「ジロジロとヴィーゴを見ているな」
「……ん。ああ、気に入ったんだよ。素晴らしい乗り物だ。長く、使ってやれよ。大切に」
「……ああ。お前の口調……そうか。消えるから、そんな風に言うのか?」
「かもしれない。だが、あまり気にしないでくれ。つい感傷的になってしまうことも多いが、オレは自暴自棄にはなっていない。昨日よりも、ずっと落ち着いている。ああ、薬も飲んでおくよ、精神科医から処方されたヤツがあるから」
「いや、きっと代謝が変異しているお前には、一般医の処方箋が作らせた薬では、効果が薄いだろう」
「……だろうな。人のために作られた薬だ。ゾンビには、効能が少しばかり落ちてしまうかも―――」
―――おしゃべりなオレの言葉に飽きてしまったのか、コレット・イルザクスはその腕を動かして、小雨の降る灰色の空に抗うために傘を開く。そして、何のつもりなのか、大男のゾンビの頭を、傘の下に入れてくれた。
「ほら、傘を差したぞ。お前も入れ」
「……この傘の下じゃ、狭すぎるぞ」
「そうか。そうかもな。だが、私は連れを雨に打たせておきながら、自分だけそれを防ぐことは気に入らん」
「気高いな、お姫様らしい」
「ああ。私は気高く生きると決めた。お姫様の気高さを持ったまま……キリストの騎士になるのよ」
「キリストの騎士か。バチカンの戦士よりも、良い響きを持っているように感じる」
「そうだと思う。ほら、傘を持て。若いシスターをエスコートする役目を与えてやるぞ、アレク・レッドウッド」
小さな乙女の手から、傘の柄を渡された。曲がった傘の柄を、太い指でしっかりと握る。
「目的地があるのなら、連れて行け。悲しそうで、罪深いお前の懺悔を、私に聞かせながらでもいいぞ」
「……励ましてくれているのかい、コレット?」
「どうだろうか。お前は、どうしてか、悲しい瞳をしているからな。あわれに思っているのかもしれん」
「慈悲深いね」
「そう在りたいと願うことは、愚かしいか?」
「いいや。真に正しい人生を送るためには、それは必要不可欠なものじゃあるよ。さあ、行こうか。戦いのために」
「ええ」
……いつか君に習ったように。若いコレット・イルザクスのために傘を差して歩く。道をときおり通る車から守るように、オレを彼女のための盾にするんだ。傘が雨粒を弾くのは、彼女の上だけでいいらしい。
君の教えを実行するよ。慈悲深く気高い者でありたいと願う、理想を胸に抱いたコレットのためにな。
バイエルンの歴史ある道を、灰色の曇天の中……魔物の悪意から隠れるようにして、オレたちは石畳を歩いていく。バチカンの戦士としての知識を、いくつか教えてやりながらな。
仕事は段取りをつけるのが九割だとか、実に基本的なことも教えておいたよ。オレには実践することが叶わなかった、理想的なことまでも伝えた。仲間を頼れとか、一人で戦うことは控えろとか、裏切られないように人間関係には気を配れとか。
色々と、まるで。
娘をより良い人生に導いてやろうと、知恵を捻っている、独善的な父親のような気分になってしまうよ。エリーゼに年の離れた姉がいたら、こんな雰囲気だったのかもしれない。エリーゼには、バチカンの戦士としての技術なんて、絶対に教えなかったが。
……こんな、いつ死んでしまうか分からない仕事には、就いて欲しくないのだ。だが、それでも……コレットがその道を望むのならば、オレは口うるさ過ぎて嫌われる先達の役目を果たそう。少しでも、彼女が死の影に呑まれないように、祈りを込めて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます