三日目 『強欲なる祈り』 その3
カウンターの向こうで苛立った顔面で皿を拭いている禿げ頭の中年男性に近づいていく。太い鷲鼻を揺らしながら、彼の不機嫌そうな目がこっちを向いてきた。
「何か用かい、よそ者さん」
「よそ者だって客だ。それに、オレは尼僧を護衛しているような敬虔なクリスチャンだぞ。不審がる必要はない」
「……で。何かな?お代わりが欲しいのかい?ビールが欲しければ、いくらでも注ぐし、ウインナーが欲しければ―――」
社交的ではないオレの交渉術なんて、あまり高尚なものじゃない。だから、包帯顔の師匠に習った通り、万国に共通な方法を行使するのみだ。皿を拭いている中年の毛深い指のすぐそばに、チップを置いたよ。
地球のどこにでもいるはずの商売人には、これが一番、手っ取り早い。金を渡せばいい。長らく禿げ頭で鷲鼻の厳つい男と話し合いたくもないだろ。筋肉質のゾンビとこの中年男が並んでいる光景なんて、絵面が悪すぎた。
鷲鼻がため息を吹いて、毛深い指はオレが出した金に伸びると、すぐにつかみ取る。手癖の悪さを感じる動きだったな。
男は跳びはねた油であちこち汚れている上着の胸ポケットに、オレがもうエリーゼのために貯蓄しなくて良くなったモノをしまっていた。大切そうに。
実にいいことだ。オレの代わりに、君の娘に何か笑顔になれるモノでも買ってやればいい。息子だったら、フットボールのユニフォームでも新調してやればいいんだ。靴を買ってやるとかでもいい。
何だっていいさ、好きにしろ。ウインナーを50本、フライパンで転がしながら炙るよりも、ずっといい稼ぎにはなったはずだ。
「家族のために使えよ、オレが娘のために使う予定の金だったんだから」
「……アンタ、娘さんを亡くしたのかい」
「そうだ。病気でね」
「スペイン風邪か?」
「違うよ。もっと、ろくでもない病気だ」
「……アンタの娘の魂に、主の祝福があらんことを」
「……ありがとう」
そうなるように、マルジェンカを倒さなくてはならない。
「何が、聞きたいんだ?……違法なフットボールの賭博の場所か?」
「違うさ。そんなものに興味はない。金銭欲があったころからも、賭博は嫌いだった」
「ほう。堅実だね」
皮肉たっぷりな響きだった。いいさ。オレは遊び心も知らない、つまらない男なのだから。
「変な事件は起きてはいないか?新聞記者が喜びそうな、おかしな事件だ」
「共産主義者どもが悪事を働いているよ。街の景気が悪いのも、全て連中のせいだ」
「何かしたのか?」
「……政治的な混乱を起こした。連中は甘言でオレたちを騙した。イブを誘惑したサタンのようだ。ろくでもない蛇野郎どもだよ。連中がオレたちを混乱させた。オレたちは、もっと団結していたんだぞ……バイエルンの兵隊も雄々しく戦ったのに、ムダになった」
「敗戦で景気は悪いわけだ」
「サイアクだね。仕事がどんどん減っちまったよ。ビールを頼むヤツも、ずいぶんと減ってしまったのさ」
「なるほど。それで、共産主義者は謎の儀式をして、怪死体の山を作ったりしていないか?」
「……いや。そういうことはしていないな。オカルトが過ぎるぜ、尼僧の護衛よ」
「まあ、冗談はさておき。暴動や殺人事件は?……美しいシスターのために、治安の良し悪しを調べるべきでな」
「なるほど。今は、週末の度に、何かのデモが起きている。打倒ベルリン!プロイセンの裏切りどもからバイエルンを取り戻せ!社会主義万歳!世界革命はこの土地から始まる!……そんなありさまさ」
「右も左も独立派も、忙しいわけだ」
「ベルリンは嫌いだ。我々は……自分の未来を、自分の手に取り戻したがっている」
「リーダーがいるのか?」
「……頼りなくなっちまった。色々なヤツが暗殺されたり、廃位されちまったり……気骨のある貴族の若者も裁判送り。誰もが、傷ついているな。政治的なリーダーに相応しいヤツは……誰だろうか」
「迷うということは、いないのさ」
少数政党の乱立。それが、バイエルンの政治情勢だということは、旅人でも知っているよ。ここは火種になりそうな土地でもあるからな……。
「……いや。何人か心当たりはあるんだが。そうだ、あの移民の男も」
「移民の男?よそ者は嫌いなんだろ?」
「嫌いだが、弁の立つ熱い男がいるのさ」
「名前は?」
「んー。何だったかな。ちょっと、忘れちまったが……やり手だぜ。共産主義者どもを探し出しては、糾弾していた。ちょっとエキセントリックな男だが、オレは嫌いじゃないな。きっと、他の男からも評価は高いぞ。もしかしたら、化けるのかもしれない」
「化ける、か」
「強い指導者になるのさ。オレたちカトリック教徒の労働者は、『受け皿』を求めてさ迷っている。きっと、強い指導者がいれば、オレたち国民の主権が回復されるんだ。仲が悪くなっちまった連中とも、仲良くまとまるよ」
「……なるほどな。政治的な混乱をまとめてくれるカリスマを、君らは求めているわけだ」
「ああ。貴族や王様じゃなくて、自分たちの投票で選ぶ、新しいリーダー。ベルリンにいる偽物どもじゃなくて、本物のリーダーを、オレたちは必要としている。そうじゃなければ、きっと、もっとバラバラになっちまうような気がしているんだ」
「……そいつらと接触できるかな?極左たちの情報を持っていそうだから、興味もある。彼らはカトリックの聖職者と仲良しだろ?」
「当然そうだ。行ってみるといい。彼らの拠点の一つは、この店の裏手の道をまっすぐ行った突き当りにあるぞ。ナチ党は小さな政党だがな。きっと大きく飛躍して、オレたちの期待に応えてくれるよ」
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