二日目 『慎ましき暴食』 その19
「……どうしてくれるのだ。お前のせいで。ますます私は罪深くなったぞ」
信仰への謝罪を終えたコレット・イルザクスは、口をすぼめて語った。子供みたいにな。その純朴さに、少し癒されてしまう。微笑みを浮かべたが、それを彼女は喜ぶことはない。
「不快だ。そんな態度は」
「……悪かったよ。謝罪する代わりに、君に良いことを教えておく。コレット。君に罪はない」
「主への冒涜に近しいことを、考えた。お前みたいな『ゾンビだか何だか分からないヤツ』と、聖なる復活を一緒にした」
「死体が呪いで動くこともある。どうせ、一時的なものだ。あと五日もすれば、人の意識も失って、永遠に地上をさまよう邪悪なものになる。あるいは、朽ち果てて、死ぬのかもしれない。何であれ、オレの命……いや、オレがこの戦いで消費されても、惜しくもなんともないものだ」
「……死んでいるからか」
「ああ。そうだ。もうこの世の者じゃない。本当は、ヴァルシャジェンとの戦いに参加してはいけないのかもしれないが……事情が事情だ」
「娘のためか」
「ああ」
「……エリーゼ・レッドウッドの体は、成人に近づきつつあるらしい」
「……マルジェンカが、成長させていると?」
「そうだ。その。出産させるつもりだろう。マルジェンカは父親であるヴァルシャジェンを産むのだから。体は大きい方が、良いのかもしれない……ああ。何を、この神聖な場所で口走っているのか」
「バチカンの聖別されたはずの仕事だ。きっと、信仰に対しても無礼ではないさ」
「そうだろうかな。この場所を選んだのは、間違いだった気もする……って。そういえば、アレク・レッドウッド」
「どうした?」
「服を着ろ。お前は、私を何だと思っている」
「コレット・イルザクスだ」
「そうだが。女性だぞ?……紳士的に振る舞え。服を着ろ」
「……ああ」
「何を嬉しそうに笑うんだ?」
「……不謹慎なタイミングになった気もするが。ちょっと、エリーゼが成長した姿を君に合わせた」
「それは、不謹慎だな。私を、マルジェンカが寄生した……お前の娘に合わせるなんて」
「成長してくれて、年頃の娘になっていたら。だらしなくリビングで服を脱いで過ごしている父親に対して、服を着ろ、紳士的に振る舞え、そんなことを言ったのかと……ちょっとな、考えてしまった」
「……アレク・レッドウッド。泣いているぞ」
「……そうか。そうなのか。そう見えるのなら、きっと……そうなのだろう。嬉しくもある。悲しくもあって。空しくもある。罪深いかもしれないが、やはり、喜びもあるんだ……」
ああ。
失われた時間が、見えた気がする。オレの理想的な未来。あったら良いと心から願望しても、届くことのなかった未来。
……まったく。
神さまなんて大嫌いだ。マフィアなんかの金で、輝きやがって。にじんで見える。聖なる母と子の姿に、オレは腹が立ってしょうがなくなっている。神さまに八つ当たりするなんてことは、何よりも間違っていることだというのにな。
それでも。オレから奪い過ぎたと、思うべきだぞ。
死体の流す涙なのに。怒りのせいで熱いんだ。だから。古いが磨かれたオーク材の床を見下ろすんだ……。
何もない場所を見る。そこに、邪悪な涙を落とすんだ。
「……アレク・レッドウッド。お前は、少し感情的になり過ぎている」
「……すまないな。すまない。違うんだ。君には、感謝している。見せてくれたから。失われたものを。いや。違うな。そもそも、オレには、なかったものを。見せてくれた……それは、オレには……とても、有難く。とても……ッ」
牙を噛みしめる。
とっくの昔に気づいている変異の一つ。わざと無視しているが、元来、大きかったオレの牙は、今ではより醜く肥大化している。獣のようだ。肉食と殺戮を殺す、インドの狂った大虎のようだ。
射殺されるべき邪悪なんだよ。ごめんな。君の夫は、怪物になりつつある。ごめん。君のためにも、未来を与えてやらないといけなかったエリーゼを……ここ数年で1億人は殺した極悪な吸血鬼に奪われている。
何が。
何が、スペイン風邪だよ。バチカンめ。科学で、非科学的な現象をごまかしやがって。そんな悪に……奪われて。そのうえ、もっと、とんでもない悪を……産ませるだと?
死んで腐っているはずの血が。泡立ち沸騰するような気がした。きっと、気のせいだろうがな……運命も、神さまも、悪魔も魔物も吸血鬼も。そんな大嫌いなものたちに勝てない、どこかの赤毛のうすのろも、本当に大嫌いだぞ。
ガギギギギイイイ。そんな醜い音が、教会の沈んだ空気を揺らす。コレット・イルザクスが警戒心を強める。武器を抜くべき気配を、目の前にいる邪悪から感じ取っているのだろうな。
当然だ。
こんな不安定な感情で、コントロールを失いつつある魔物よりも邪悪な怪物なんて。バチカンの教育を受けた者じゃなくても、殺すべきだってことは理解するよ。
だから。無様に慈悲を乞うんだ。みじめなガキの頃みたいに。
「……撃ち殺したくなっているかもしれんが。もう少し、時間をくれると助かるぞ。コレット・イルザクス……オレは……そう、弾丸だとか、ナイフだとか、爆弾みたいなものだと、思ってくれ。マルジェンカを、必ず、殺すから。そこで……全部、捧げて……オレは、きっと。この世界から焼け落ちて、消えちまうから……っ」
そう決めているんだ。
そうするよ。マルコが何を企もうと、バチカンが邪魔しようと。魔物だろうが悪魔だろうが、世界を区切った権力が作った国境なんかだって、貫いて。悪に噛みついて、そいつと一緒に燃え尽きる。
誓うんだ。
主じゃない。神さまでも、聖母でもなく。君にかな。君に―――。
……。
…………。
…………赤毛にね。
炎みたいで、ムダに邪悪な感じがする赤毛に。何のつもりか癒しの力を帯びた指を、銀色に輝く長い髪の少女は差し込むように使うんだ。
「……何をしているんだ。コレット」
「自分でも、分からない。私はな。父親が嫌いだ。母親を道具にして、私を作ったヤツだからだ」
「そうか。そういう親子もいるんだろうな」
「ああ。私と父親は、そんな関係なんだ」
「絵本でしか学べなかったんでね。理想的な親子関係ばかり、オレは見すぎているのかもしれないな。もっと、親子関係というものは、いいものだとばかり、思い込んでいたよ」
「そうか」
「そうなんだ。本当に、オレは愚かしいな……」
赤毛を、いつかの君みたいに。コレット・イルザクスが握ってくる。犬にするみたいな態度だ。君か、オレにケンカ売って来て、三秒後には全ての前歯をへし折られるバカどもしか、したことない行動だが。
オレは、まるで……。
君にさせるかのように。大人しく、うなだれていた。君にだけ懐いた猛犬みたいにな。
「……理想を、私も知らない。だが。それでも、アレク・レッドウッド。あなたは、きっと……良い父親だったのだと思う。良い夫でも、あったのだろう。世界の誰も彼もが、違った評価を、お前たちの作った家に与えたとしても。私は、そう信じることにする」
母親にも。妻にもなったことがないどころか、男の一人も知らない小娘のくせに。コレット・イルザクスは、オレと君とエリーゼのことを、信じてくれた。
それは。
きっと。
オレには大きな救いだったのだろう。今は……怒りはなかった。魔物に堕ちつつある巨大な牙を、鳴らすこともなく。ただ……何かで潤んで歪んでいる視界の果てに。ステンドグラスがある場所を見上げて、そいつらじゃないものを探していた。
他人の聖母子なんて、オレはな。探しちゃいないんだよ。そんなものは、オレには何の救いにもならないから。ただ、キレイで明るい光の中に。オレは……世界よりも、神さまよりも、大切なものを見つけたかった。
歪んで揺れる輝きのなかに、家族も願望の形も見えやしなかったが……それでも、きっと、何か表現しがたい、とても個人的な感覚に触れたのだと思う。分厚くて重いまぶたで瞬きすると、世界から、歪みも揺れも消えていたからだ。
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