二日目 『慎ましき暴食』 その18
「……ええ。ケンカするのは、もうやめるわ」
「……ケンカしていたのかな」
「私は、少しそうだったかもしれない。とにかく……今は、すべきことをしないと」
たしかに。上着を脱いだまま、彼女の前で座り続けているのも、ずいぶんと間抜けなことではあった。コレット・イルザクスが近づいて来る。強力な呪いの数々で動く死体と化した男に、不用意なほど勇敢に。
君に似ている。観察者の視点を持っているようだよ。コレット・イルザクスは、冷静な視線で、呪いと祝福が戦争しているように疼く裂傷を見つめた。
「うわ。なんていうか、酷い傷だわ」
語彙は豊富じゃないようだ。だが、端的かつ適切ではあった。どう考えても、その言葉に反論するのは難しいのだから。
「ああ。古傷も多い。死んでからの傷も、たくさん喰らってしまった。『蠅』にとどめを刺すときに、神罰も受けたからな……」
「手当をしてあげるわ。その傷跡、治癒もしているみたいだけど……聖なる力と、それに反発する何かが暴れているみたいね」
「バチカンの祝福を込めた霊鉄。その怒りに触れているらしい。オレの『中』も、色々と変わっているんだろう。人だとは、思わないでくれ」
「バチカンの戦士ではあるでしょ」
「……使命は、果たす。人類を脅威から救うさ。そのために、死んだ命をまた捧げる。それはいとわない」
「理想的な戦士なのね。伝説を持っているだけはあるわ」
「……いいや。不幸な父親の悪あがきに過ぎないものだ。守れなかったからこそ、やけになって暴れている。往生際の悪い、ゾンビ野郎なだけだ……」
「そうなのかしら」
「それ以上のものに見えているとすれば、若さゆえの誤解だな」
「若者を馬鹿にするのね、おじさん」
乙女は目を細めつつ、おじさんの顔を見てくるよ。三十路の男を馬鹿にする若者に特有な顔だった。傷つくことはない。腹も立たない。ただ、おじさんという言葉に、不思議と抵抗が残っているだけだ。
「オレは、すでに死人だ。だからこそ、この仕事に全てを使い切ればいいだけだ。君とは、色々と異なっている立場だが……気にするな」
「わかった。気にしないようにするわ。さてと、アレク・レッドウッド。あなたに、私の力を一つだけ見せてあげる」
「……コレット?……なにをするつもりだ?」
「いいから。攻撃したりするわけじゃない。だから、じっとしておきなさい」
若い乙女は手袋を取る。雪のような白い腕を見せた。小さくて細い指も。
コレット・イルザクスはオレの右腕に白く小さな手で触れてくる。
「……傷口に指を近づけても、痛がりもしないんだ」
「痛いさ。痛覚だけは鋭敏に残っている。そっちから腐ってしまえばいいのにと願っているよ。それぐらいには、痛みがある」
「痛覚は鋭敏。なるほど。スカー・フェイスは、そんな戦いに要らなさそうな機能を、あえて残すようにデザインして呪術を組み上げたのかしらね?」
「マルコという男は、古風なんだ」
「古風?」
「全ての感覚に、意味があると考えていたタイプの男だ。痛みも、戦いに意味があるものだと考えたのかもな。オレを、戦わせるための道具として使いたいのは確かだろうから」
「ヴァルシャジェンを封じる気はあるのね」
「あるさ。世界を破滅させたいはずでは、ないだろうからな……」
「バチカンに報告したいことが増えたわ。もう一つ、増やそう。実験にはなるけれど、悪意はない」
「好きにしてくれ」
「力を見せるわ」
耳元近くでそう呟くと、コレット・イルザクスは白い指で赤い血がにじむ傷口を押してくる。痛みはあるが、それ以上に、コレットが何をするつもりなのか気になった。
「……治って……」
言葉があった。そして、うごめく傷口に触れた手から、何度か経験したことのある温かさを感じつ。やさしげな温もりだった。青く輝く、その神秘の力の色彩も、初めてではないものだ。有名な『奇跡』の一つ……。
聖書にもあるし、他の多くの神話にも出てくるな。こういう力の持ち主は、バチカンが好むときと、嫌うときに別れてしまう。イエス・キリスト的であれば正しいが、インドの尊者やアフリカの偉大な呪術師が使えば、暗黒の力として嫌われることもある。
それほど。
我々のような神秘を目撃することに慣れている職業の者からすれば、珍しくはない能力でもある。
「ヒーリング。コレット・イルザクス。君は癒しの力を持っているのか」
「ええ。そうよ。霊的な能力を帯びた道具を使えば、もっと、多くの力を発揮できる」
「……もっと、多くの力を、持っていると?」
「私は、そういう『家』に生まれたのよ。分からないかしらね、バチカンのベテランの戦士さんにも……」
「……いや」
記憶の中にしまい込んでいた知識に、感覚的な引っかかりを覚えていたよ。偉大な能力をコレクションして来た、バチカンの戦士に連なる系譜がある……。
様々な能力者とかかわりを持ち、その『血筋』に力を貯め込んできた特殊な一族がいるとは聞いたな。どこかタブー視されている一族だ。特殊すぎる婚姻のせいで、性格破綻者も狂人も、異常な姿として生まれる者も少なくないとは聞いた。
魔女狩りで滅ぼされなかったのは、彼らがいくつかの王家とも関わりのある血筋にもあるからだと―――そうだ。マルコから聞いたんだ。あのガンコな義父は、彼らの一族について、どこか否定的でもあったが……明らかに興味を持ってもいた。
あの日の師匠と同じ唇の動きを、包帯顔ではない義理の息子の口は真似する。
「『コレクター』……」
「その呼び名は、死ぬほど嫌いよ」
鋭い拒絶を帯びた青い瞳でにらまれる。その拒絶の鋭さは、肯定の裏返しでもあった。彼女は自らの一族が、どのようなものなのかを、不用意なほど素直にオレへ教えてしまう。
あの一族は、秘密主義者のはずだがな。
多くの偽名とカバーストーリーに隠されている、バチカンの『宝物庫』でもあった。奇跡と呪術と祝福と狂気と邪悪、欲しい神秘を、『コレクター』たちは保管している。バチカンが宗教的な演出に使いたい神秘を、いつだって提供することが可能だ。
「私たちはね、能力を入れるだけのモノに近いのかもしれないって……気分が悪くなるのよ。誰かのためのコレクションを形作るための部品みたいな気になる」
「……だろうな。君に相応しい呼び名は、もう一つの方だ。『聖杯』か……」
「そっちも、抵抗が強すぎる。とても罪深い呼び名だと思うわ。その名を与えられるには、私たちの一族が相応しいと思えないから」
……異能を持つ者たちと婚姻を繰り返し、自らの血筋に異能を持った怪人物たちを多く輩出して来た人々。バチカンのための神秘の『宝物庫/コレクター/聖杯』。その一族の女性としては、自分の存在理由に苦悩を抱えるのかもな。
20世紀は、それが許される時代なのだから。古き因習に、彼女のような活発な女性がいつまでも囚われているはずもない。
「力を保存するために私たちの一族の女は『道具』になった。ただの『容れ物』にされてきた。私は……それを変えたい。私の力は、そんな馬鹿げた生き方を否定するためにもある……だから。『聖杯』も『コレクター』も……嫌いなの」
「どんな呼び名なら、満足するんだ?」
「……それは」
「いや。いいさ。言わなくても、知っていたな、オレは。『コレット・イルザクス』。そう呼ぶんだった」
「……ええ。それでいいわ。それがいい。ほら、アレク・レッドウッド。お前の無駄に裂けていた筋肉が、ふさがった」
「……すごいな」
「……お前の異常な回復能力があるからだ。それに……神罰を、取り除いてやるだけでも、瞬間的に回復したかもしれない。お前は……その、何というか……生命力が多く感じるんだ…………本当に、ゾンビなのか?」
「……死んだはずだし、蘇生した。いわゆるゾンビだろう。食欲も睡眠欲もないはずだ。脈拍もない。体温も落ちてはいる。血だって出てはいるが、脈拍に合わせて吹き上がることもない。死体の兆候だ」
「そうだな。そんなものは……ゾンビだけ……あるいは………………い、いや。すみません。主よ。そうじゃなくて、なんていうか……っ」
「ハハハ。罰当たりなことを考えてしまったようだな、コレット・イルザクス」
「うるさい!」
顔を羞恥と怒りで赤くする乙女がいた。彼女は胸元で、オレの穢れた血に汚れた手を組み合わせて、ステンドグラスの下にある十字架にはりつけにされた半裸の男へ謝罪の祈りを捧げていた。
「申し訳ございません。主よ。私は……罪深い間違いを頭のなかで思ってしまいました」
ああ、そうさ。困ったことに。死んで復活したヤツは、オレみたいなゾンビ野郎だけじゃない。オレたちが所属する宗教の開祖である、貴方とおそろいだ。オレには嫁のマリアはいたけど、聖母のマリアなんていなかったが……死を遠ざけてしまった。
バチカンが殺したくなる気持ちも分かるが、呪術で動くだけの死体を、それほど敵視しなくてもいいのにな。
バチカンは、いつも神経質なところがある。古すぎる組織は、変わることを拒むものだ。我々は、19世紀あたりに滅んでいても良かったのかもしれない。
神さまが死んだ世紀を、20年も生きて来た。そろそろ宗教なんて消えても、人は間違わずに生きて行くだろう…………。
……世界大戦なんて起こしてしまった直後では、少し、説得力に欠くかもしれないが。知識を得て、科学の力で夢を叶えている。原罪なんて、みんな忘れちまって心理学と経済学の洗練に夢中になっているんだぞ。それでも、どうして血迷える子羊なのか……。
それが本質だからだとすれば、とても気が滅入ることだ。また、すぐに血迷いそうでね。
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