二日目 『慎ましき暴食』 その15
『蠅』の死骸が神罰の青い焔に焼き尽くされていく。形を残すこともなく消滅するはずだ。魔物と現実はきっと相性が悪いんだと考えているよ。
それでも疲弊した体のまま、睨み続ける。魔物は予想外の動きをしてくることもある。ただの獣であったとしてもそうだけど。それにね、ヴァルシャジェンの騎士だとか、この『蠅』は主張していたから。
……そんなオレと燃える『蠅』を遠巻きに見ていた市民たちの数は、どんどん減っていた。悪夢に出遭ってしまった人間が取るべき方法はいくつかあると思うけど、彼らの行動は、とても健康的なものだったと思う。
科学の世界に戻ってくれたまえ。
こんな悪夢のような力学に囚われた場所からは、離れるべきだよ。
ネリー・メルバの歌声が、三つの国にね、同時に流れるような時代なんだから。オペラ座なんかに出かけなくても、ラジオで聞けるんだぞ、あの素晴らしい女傑の声が……もう、すっかり婆さんだけど。世界一のソプラノだってことは、誰もが知っている。オレでさえ。
科学が好きな―――あるいは迷信深いバチカンの戦士にとって都合が良い市民なのかは、分からなかったが、怯えた者たちは去ってくれる。
焼き尽くされていく『蠅』の死骸を監視するという、無益な時間の浪費も終われそうだ。すっかりと『蠅』は焼き尽くされた灰になっていったからだ。
―――燃焼時間から見て、とても空疎な実在しかないんじゃないかしら……分子構造が虚弱なのだと思うわ。魔物や悪魔とかいう、ヘンテコな連中は……。
賢い君の推理を、オレは実感で裏付けしていく。君はきっと正しい。いつものように。この件に関しても、間違ってたりはしないんだよ。
「……いい仕事をした。そのはずだぞ、だから……コレット・イルザクス。狩猟用拳銃なんて、ヒト様の背後に向けるなよ」
「……背中に目でもあるのか?」
「ないよ。少なくとも、自覚はないんだが……君には、見えるか?」
間違ってもこれ以上の傷はごめんだ。まだ、エリーゼの遺体を取り戻していない。もう少しだけ、働くつもりだから。無駄に体を撃ち抜かれたくはない。
だから、両手を挙げる。若くマジメな乙女で、しかもシスターの恰好をした子なら、こういう動作をするくたびれた男に鉛玉をくれたりはしないと考えていた。世界大戦のせいで、みんな倫理観が狂ってしまっているのならば別だけども。
乙女の指は、引き金を絞ることはなかったんだ。
振り返った時にも、まだ狩猟用の大型拳銃がオレの胴体を狙っているのは見えたけど。
「さっき弾帯をもらう時、君に触れて察知していた。その拳銃のこともだ……これで、満足したかな。それとも、まだ、オレと戦い、オレを処刑してみたいのか?」
「怯えはしないぞ。そうすることが必要だと判断したら、私はためらうことなく実行する。お前は……アレク・レッドウッドよ」
「なんだ、コレット・イルザクス。バチカンの戦士よ」
「自覚はあるんじゃないのか?……それとも、戦いに夢中なせいせ、分からなかったの?」
「……なんだろうかな。戦いの時は、余計なことを気にしないんだ」
少しばかりは嘘もつく。処世術として必要な範囲には、聖職者もどきも考えながら言葉を作るものだった。きっと、ずいぶん大昔から同じこと。おそらく、これからずっと先の未来においても。
「悪魔のようだったぞ。3メートルの熊より巨大な『蠅』なんかよりな」
「そうか。今に始まったことではない。オレは、そういう野蛮なスタイルで仕事をしてきたからね」
「聞いてはいる。資料にもあった。バチカンの戦士たちの中で、最も多くの魔物を祓った戦士の一人……実に、粗暴な戦い方を好むと」
「間違いもある情報だ。好んだわけじゃない。これ以外に、方法を知らない。もっと紳士的な戦い方で、多くの魔物を殺せるのならば、オレだって社交界にデビューできそうなマナーをもらいに没落貴族の講義を受けたよ」
「おしゃべりな男だ」
「弁護してくれる者に恵まれなかったんでね。しかも、インドでの暮らしも長い。あそこは雑な人間ばかりだが、契約には厳しい。話術も、インドの商売人どもと絡んでいれば磨かれる」
「……正気だと、言いたいの?」
「正気ではあるはずだ。魔物を殺してみせただろ?」
「信用が得られると、考えている?」
「君の心を支配することは出来ないからな。君次第だ」
師匠であり、ついでに言えば義父でもあるマルコに裏切られたような男を、誰が信用してくれなくとも不思議じゃなかった。銀行だって、そんなゾンビに金を貸すなんて奇特な選択をすることはない。ああ、もうローンも組めないような身分さ。
人生をかけた長い買い物も難しい。もちろん、そんなことは今更どうだっていいことだけど。
それでも、主張はしておきたい。
「オレは……おそらく怪物になりかけてはいるだろう。かつてよりは、間違いなく邪悪である。それでも……誓うことを許してもらえるのなら、さっき君に語った言葉が嘘ではないと誓いたい」
「……娘のために、戦士であり続けるか。死体となった今でも」
「そうだ。そのために、ここまで来たし……まだ、先に向かう。納得が出来ないのなら、オレは君と戦うことになるだろう」
「……っ!?」
乙女は尼僧の姿には、あまりにも似合わない戦士の貌となっていた。今にも噛みつきそうな番犬の顔。躾けられていない、無軌道な衝動……そんなものは、少なくとも今は必要じゃない。
「さっきの戦いで分かったはずだ。君よりも、オレの方が魔物たちと上手く戦える」
「私を、軽んじるの?」
「そうじゃない。尊重しているからこそ、序列を語る。君だけで、あの『蠅』を祓えたか?……市民を怯えさせてはしまったが、肉体的には傷つけなかったオレと同じだけの戦果を挙げられたのか?」
「……仮定の話にしかならない。それで、私よりも優秀だって?」
「ダメならば、戦う。オレには確信があるからだ。オレがこの場で黙って君に殺されてやったとしても、現状は良くならない。オレが、君を手加減しながら制圧して、勝手に道を進んだ方が有益だ。オレが後続の戦士たちの先駆けとなる。猟犬代わりに消費してくれていい」
「献身的なつもりか」
「バチカンの精神からじゃない。たんに、そうするしか道が見えないからだ。娘の遺体にヴァルシャジェンを出産させられようとしている男としては、最良の道で、その悪夢を壊したい」
「…………怯えたわけじゃないから」
そこらの小娘みたいな口調になって、コレット・イルザクスはその言葉だけ使ったよ。オレは黙ってうなずいた。おしゃべりよりも、有効なうなずきだってあると、君に習ったことがあるからだよ。
シスター服にはあまりにも不似合いな大型拳銃が、ゆっくりと下がっていく。青い瞳は強さをたたえたままこちらを睨んでいるままだったけど、彼女も無益な衝突を避けてくれたらしい。
やっぱり、20世紀生まれの若者たちは古いオレたちよりも賢明なようだった。
「……少し、お前と話し合いたいところだぞ、アレク・レッドウッド」
「こっちもだ。オレが得た情報をバチカンに渡そう。君が嫌じゃないなら、ヴァルシャジェンの復活を阻止するために、バチカンが君に与えた情報も聞かせて欲しい」
「取引のつもり?」
「いいや。こっちはただ与えるだけだ。バチカンの情報よりも、多分、ヴァルシャジェン絡みの情報については優れたものだろう。知りたいのは、あまり興味がないことかな」
「分かりやすく言いなさい」
「義理の父親にハメられた理由が気になる。何か、あの狂人はろくでもないことを考えているような気がしていけないんだ」
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