二日目 『慎ましき暴食』 その11



 『蠅』。その名の通りの魔物である。甘ったるい腐臭が鼻の穴から頭の中に入って来るよ。濃さのある甘いにおいほど下品なものはない。貴族趣味の香水なんぞと同じように、吐き気と頭痛を催すよ。


 不快なにおいに包まれたその場所で、肉質の強い繭から粘液まみれの三メートルほどの『蠅』が姿を現している。どこにでもいるような形の『蠅』だよ。たんに、全長が三メートルもあるだけでね。


 不愉快な光景だろう。繊細で清潔を貴ぶ人物であれば、卒倒するかもしれない。不衛生と醜悪の化身。そんなものが自分と同じ空気を吸っていると考えるだけでも、泥土にまみれる仕事を一度だってしたことのない貴人は狂うのかも。


 ベテランなだけで。


 インドみたいな土地に長らくいたこともあるからで。


 オレはガサツなわけではないと信じたい。


 へっちゃらさ。経験のおかげで、『蠅』のうごめく筒状の口なんかを見ても。そいつが醜く蠢きながら、人間の言葉を放ってきたとしても。巨大な『蠅』との対話。狂気を帯びた雰囲気を持つ行いではあるが……慣れていると、腹が立つだけだ。


『ぎぎぎいいい……ひひひいい!!……ああ、バチカンの戦士!!私は完璧になったぞ!!君ごときでは、敵わない……高みに戻った!!』


 羽ばたきが始まる。豚小屋の干し草とカビの混じったホコリが宙に舞って、オレの頭に降り注いで来やがる!!……バカに強い風だった。


「やはり、ヴァルシャジェンの力をいくらか渡されているか」


『あのお方は、我々の王だからねえ!!バチカンは認めたくないだろうが!!『神』という存在に、最も近しい!!』


「『神』の手下か、お互いに」


『私は手下ではない!!確かな地位と権威を持った!!ヴァルシャジェンの騎士なんだ!!』


 騎士とやらが羽音を甲高く響かせながら。こっちに飛び掛かって来た。逃げ場のない形で、その突撃を受け止める。


 鋼のように固い甲殻に覆われた前脚が動き、抱きかかえるようにはさみ込んできた。とんでもない力で、体をつぶそうと前脚が動く。『蠅』の醜い筒状の口が粘液質の唾液のせいで銀色に輝きながら、両腕で脚を受け止めたオレの胸に向かって伸びた。


 刺して啜るつもりなのだろう。


 肉を穿ち、体液を呑み込む。


 『蠅』の成体の食事は乱暴さと効率の良さを伴わせているが、こちらも『蠅』との戦いにはキャリアというものがあるんだ。もがくよ。屋根裏から飛び降りるように身を投げつつ、左の膝で『蠅』の口を打つ。


『ぎぐうう!?』


 『蠅』は空中で落ちないように支えてくれる。強い羽のおかげで、筋肉質のバチカンの戦士だったゾンビを一匹ぐらい抱えたままでも、宙に浮かべるのさ。天使みたいに飛ぶのが上手だ。見た目はグロテスクでもな。


 飛ぶのが上手だから落下はしないが、耐えるように頭を上に振るんだ。魔物であったとしても物理学の全てからは逃れられない。君の指摘していた通りにね。空を飛ぶ魔物の常というもので、『蠅』どもも墜落という行いを軽蔑している。


 だから。『口』がさらにオレから離れるんだ。仰け反るようにして羽ばたくために。何度も墜落という形の不名誉をぶつけられたくないようだ。


 構わないよ。その隙が作れたら、問題はないのだから。


 霊鉄のリボルバーを抜いて、構える。ああ、神罰の青い焔がオレの体を激痛と共に焼き始めるが―――それでも耐えた。戦士だから。痛みには強いし、計算高い。長く戦うよりも、この短期決戦で仕留めた方が、オレには得となる。


「じゃあな」


『ぐ、ぐがああ――――』


 霊鉄のリボルバーが弾丸を放つ。聖なる祈りが威力となって、祝福された火薬が爆炎と衝撃を作り上げる。不浄なゾンビ野郎の手を焼き払いながらも、聖なる光を放つ弾丸が放たれた。


 まっすぐに。


 貫いたよ、『蠅』の頭をな。『蠅』にとっての頭が左半分吹き飛んで、墜落の不名誉は始まる。ここらがベテランの老獪さだよ。ダメージ覚悟で、やっているのさ。あらゆることを手段として使う。それが、目標だけを見据えている男の覚悟だよ。


 ああ。


 クソ痛いことになる。落ちていく蠅と絡まるようにして、納屋の床に背中からぶつかった。金属みたいに硬い質感を持つ魔物の体が、重さを伴いオレを潰しにかかる。


 生身ならば致命傷かもしれない。少なくとも二週間はベッドで眠っていたくなる。君に賢くなるための科学論文を耳の穴から注がれながら―――思い出は、いつも死に迫るとやって来た。


「ぐふうううう!!?」


『ぎぎぎいいいいい!!?』


 悲鳴が噴き出した。潰れそうな圧力に耐えきれなくなって、体から漏れただけのこと。悲しいまでに、みじめだな。踏みつぶされたカエルのことが、頭に浮かんだ。


 動け。


 動け。


 動いて、殺せ。


 念じるようにして、不浄な死者の体を動かした。倒してやる。殺してやるぞ。そうすれば……オレは獲物に近づける。誰も幸せにはならないが、これ以上の不幸はゴメンなんだよ!


「死ねええええええええ!!」


 燃える腕を操り、霊鉄のリボルバーで『蠅』の腹を撃ち抜いてやった。だが……くそ。オレのことを嫌いになった相棒は、怒りのせいなのか威力が強すぎる。


 こちらの計画では、『蠅』の胴体を貫くのではなく、内部で跳弾させてぶっ壊してやるつもりだったのに……。


 不機嫌に荒れる神罰の弾丸は、バカみたいな貫通性を見せていたんだ。


 武器とは、銃弾とは。


 鋭すぎることが原因で、使用者に災いを招く。大昔も、二十世紀の今日だってそうだ。


『ひぎぎぎいいいいいいいいいいいいいんんんんんッッッ!!!』


 胴体を貫かれただけのせいで、『蠅』を仕留めそこなった!!内部で暴れてくれれば、これで決着がついていたのに。もっと、仲良くするべきだ。バチカンの戦士とその武器はな。


 『蠅』が脚を動かす。オレの顔面を殴る。脳が揺れる。生前の癖がまだ染み付いていやがるのか……脳震盪なんて繊細なふらつきが生まれた。


 ああ。まずい。


 まずいぜ。


 逃げられてしまう。そうすれば……誰かが犠牲になるんだ。それは……やはり。嫌だな。魔物に食われた死体、そんなものをどれだけオレは見て来たか。とても不幸なことだ。だから、逃したくない。


 腕を伸ばす。


 掴もうとしたんだが、怯えた『蠅』が全力で逃げようとするせいで空振りした。羽音が逃げる。だから、追いかける……飛び起きる。南インドのヨガの技術。膝蹴りも肘打ちも、この跳びはねる動きも……オレの体は死んでも忘れちゃいない。


 歩く。


 燃やされる腕を、伸ばしながら!!


 空中で羽ばたく『蠅』を目掛けて、銃弾を撃つ―――だが、外した。ヤツの脚を一本、撃ち抜いて落としただけだ。たまらない。なんてざまだろう。腕が焼け焦げて来たせいで、この近い距離で射撃を外した……10才のガキじゃあるまいし!!


「逃げるなああああああああああああああああああああああッッッ!!!」


 『蠅』を追いかけて、納屋の外へと飛び出した!!


 獣のように速く走れている。怒りはきっと、雹の女神と相性が良いのだろう。荒ぶる破壊の女神の加護で、『蠅』に追いつく。そのまま左腕を伸ばして、逃げるそいつの脚の一つを掴んだ!!


 宙に浮かぶ。


 飛んで逃げようとする『蠅』は、天使みたいに飛ぶのが上手だよ、やっぱりね。だからこそ、構うものか!!霊鉄のリボルバーを放つ!!至近距離からの射撃だが……威力が高すぎる!!また、胴体を撃ち抜いてしまう!!


 『蠅』の体液が降り注いでくるが、殺せなかったのは問題だ。オレは、このサイズの『蠅』を撃ち殺す飛び道具を持ってはいない。


『ぎぎぎいいいいいいいいいいいいいい!!!?』


 痛みにもがく『蠅』が空中で体を揺さぶった。オレが握っていた脚の一つが、関節の部分で折れてしまう。


 ああ。ヒトは。


 空を飛ぶには向いていない形をしているから。重力に囚われて、そのまま……たぶん8メートルほどの高さから落下しちまうことになる。


「ぐふううう!!?」


 さっきよりも高いところだから、痛む。当然のことだが……困ったことだ。すぐに起きたつもりだが……ヤツを逃がすことにはりそうで―――!?


「アレク・レッドウッド!!!」


 見たことのない形の車両が、唸り声を上げて現れる。三つの車輪を持つ、小さな車。自転車にも似ているような、不安定そうな形の何かが、この忙しい状況に乗り込んでくる。銀色の髪をした乙女の尼僧が、そいつを乗りこなす―――?


 ああいう変な乙女とは何度か出くわしたことがある。そして、例外なく、困ったことに、バチカンから派遣された同僚であった。『処刑人』は若い乙女のようだ。どこかの名門の娘かもしれないな。困ったことだ。


 娘を持つ男としては、どうにも戦いたくない姿をしているよ。


 ……だが。だが……一縷の望みはあった。細くて、弱々しいが。乙女よ。お前もバチカンの戦士であるのなら。


「乗せろ!!『蠅』を追いかけ!!殺すぞ!!あれに、誰も殺させるな!!」


「……ッッッ!!!」




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