二日目 『慎ましき暴食』 その9
羽ばたきも止まり、不動が作られる。ドン・ドブロシが殺した若者にそっくりだという『蠅』の顔……そこに残った右の眼球が、ぎゅるりと一回転したあとで。こちらを見つめて来る。
もの言いたげな視線ではある。だが無言を保った。ナイフをあえて止めていることに考えが及んだか。こちらの嘘に期待しているらしい。ありがたいことだよ。好都合だ。
『……何が、訊きたいんだ?』
「素直に吐くかな?」
『……君が信じるかどうかだね。バチカンの戦士よ』
「オレ相手に皮肉を使うのかい?……強気じゃないか。死にたいわけではないはずだぞ。まだ、産まれてからそう時間が経っていないんだ」
『……我々にとって、『死』は君らのそれとは異なる。共有しているからな。始まりの個体からの歴史を全て』
「オレの妻ならば、その言葉に疑問をぶつけるだろうな。自我というものは、一つしかない。情報が共有されていたところで。客観と主観の境界が融け合うことはない―――そんな説教で、お前に意地悪をするだろうよ」
『……怯えさせたいのか。私のことを』
「どうでもいいことだな。お前の感情になんて、実のところ興味がないんだ」
そうだ。
不必要なことばかりに、オレはいまだに囚われているような気がするんだ。
「オレはとっくの昔に、死んでしまってるからね……世の中の大半のことに興味が消え失せている。魔物の感情になんて、とくにね」
ナイフにわずかな圧をかけて、ゆっくりと刃を深く刺していく。
「個が持つかけがえのない唯一。ゾンビとなったオレには、冒涜し踏みにじったとしても、涙も笑い声も出やしないだろうさ。とっとと消えちまえばいい」
『……おい。やめろ。わかったから』
真摯な声を使われた。生きていたころの慈悲深い感性がくすぐられたのか、銀色の刃を握った拳は動きを止めた。見下ろしながら、口は使う。
「訊きたいことは一つだけだ。ヴァルシャジェンはどこで復活するのかな?北ヨーロッパのどこで、ヤツの娘―――マルジェンカは、父親を出産する気なんだ」
『……バチカンの戦士の娘の腹からな』
「挑発は無意味とは言わない。だが、有利になるとは思わないことだよ」
『分かったよ。ナイフを揺らすんじゃない。私だって、脳が損傷すれば、上手く話せなくなるぞ』
「なら、さっさと言え。マルジェンカは……どこだ」
『そちらが、本命なわけだ』
「オレを分析したいのか?……立場を弁えてもらわなくては困る。殺したくなるぞ」
『脅すなよ』
「脅しでもないが」
『わかったよ。教えてあげるさ。マルジェンカさまは、バイエルン王国にいる……』
「バイエルン王国か。革命で消え去った。最新の事情は、頭に入っていないのか。それとも懐古主義的なのか」
『言い間違ったのさ。選帝侯の一族とも契約したことがあるから、懐かしくてねえ』
「手下だったか」
『いいや。カトリックの君にはショックかもしれないが……私のことを、彼らは優遇してくれたよ。誰かを呪殺したい、そんなことを考える権力者は、どこにでもいる』
「古い情報しかもたないのならば、生かしておく価値はないだろうな」
『待ちなよ。私だってね、この形を作るために、贄となった彼の知識も奪っているんだ』
「貧しい流れ者の知識など」
『ああ。でも新聞は読んでいていたんだよ。無学ではあったが、新聞を読みながら女どもを物色する仕事をしていた』
「答えるつもりはないのか?……消滅したバイエルン王国のどこに、マルジェンカはいるんだ」
オレの……エリーゼ・レッドウッドは。ああ、探し出さねばな。エリーゼの躯に、魔王など産ませてたまるものか。オレの娘の死を、これ以上は、誰にも冒涜させるわけにはいかん。
『わかったよ。焦るな。君たち人類の悪い癖だ。焦るほどに、結論を急ぎたがる』
「オレには六日も残っちゃいなくてね」
『腐るか。死体だからなあ……美味しそうな匂いが、そのうち漂って来るはずなのだが』
「……会話を終えたいか」
『いやいや。わかったよ。バイエルン王国……私が協力した王国も消え去ったな。戦で負け犬になって、体制から逃れたかった。革命、革命、革命。素晴らしい手法だね。悪魔よりも血なまぐさい人の本性がそこにある』
「そんなハナシを」
『聞きなよ。焦るな。マルジェンカさまは、実に面白いところに隠れているぞ』
「……どこだ」
『カトリックの敵のところさ』
「東方教会のはずがない。彼らも、ヴァルシャジェンの脅威の深刻さは分かっている」
『……なーあ、バチカンの戦士、君こそ情報が古いんじゃないか?……新聞は読むべきだよ。社会情勢にも詳しくあるべきだよ、紳士ならばさ』
屈辱的な嘲笑を目撃する。生きていたころの熱量が血管を流れていたら、この失礼な魔物を野蛮な衝動で殺していたかもしれない。
だが。プロフェッショナルだ。魔王の復活を阻止しなくてはならないから、劣等感の傷口に塩を塗り込まれたとしても忍耐する。興味はないが、政治的な知識とやらを灰色の脳細胞から引きずり出す。痛みかけのバカのな。
最近話題のカトリックの敵。
敵。
敵。
世界情勢には疎い。政治にも興味はない。オレが求めているのは、シティに上場している株の銘柄の、どれが上昇するかということだけだ。それでも。大人として、耳に入れたくもない憎しみの力学を拾うことがある。
知識は悪ではない。
そのはずなんだがね、君に言わせれば。それでも、オレは時々、思うことがある。最近の人類は、きっと知恵をつけすぎてしまっているんだ。古典文学だけでなく、機械やら物理学やら飛行するデカい風船だとか。
空気から肥料を取り出せる?無限のパンを作れるようになる?……イエス・キリストの御業だって、知恵で再現できるようになって。自分の精神や知性が、正常なのか異常なのか、見ただけで分かるであろうことを、学問的に解明しようとしていやがる。
新しい価値観。
新しい科学。
新しい思想。
そうだ。
カトリックにとっては、東方教会以上に大きな敵も生まれているよ。
新しい考えによって、宗教を否定しても人類は生きれるんだと主張する、カトリックからすれば商売敵みたいなライバルが。キリストの加護などなくても、人類は正しく生きて、幸福を得られると主張する、アンチ・キリスト教徒たちが。
「……共産主義者の組織」
『正解だ。バチカンも、彼らを恐怖しているのかな』
「知らんよ。オレは、聖職者じゃない。魔物専用の殺し屋なだけだ」
『……それでも。政治的なしがらみからは逃れられない。人はね、人を憎むことで、組織の輪郭を作り上げられるんだ。拒絶の輪郭が要る。バチカンの戒律も、破門の恐怖も。そのためにあるだろ?』
「共産主義勢力は、あの土地では潰えたはずだ。瞬間的には、何かいたようだが」
『もともとがカトリックに篤い保守派の土地だからね。革命の嵐が変革を呼んでもすぐに消えた。きっと、これから反動が来るよ。あの土地からは極めてカトリック的で、どこまでも保守的な、キリストの騎士団が産まれることになるよ。君たちには福音だね』
「未来のことなど、どうでもいい。後始末をしたいだけだ。これ以上の長話をしたいのなら……もう一度、生まれ変わってからにしろ。飽きてきたぞ」
本当だ。政治も未来もバチカンもカトリックも、キリストの騎士団とやらもどうでもいい。何だっていいんだよ。欲しいのは、情報だった。そう、過去形だ。もう、オレはあきらめることにしている。追い詰めすぎて、このクソみたいな雑魚は。長話に頼ろうとしているだけだろうさ。
バカほど長話を好むものだ。
賢さを偽装したくてね。
君に教わったから。オレだって分かる。ああ、そうだ。もうガマンの限界だ。とっとと、この『蠅』を駆除して、エリーゼを追いかけるとしよう。バイエルン王国だろうが、共産主義政党だろうが……どっちとも、とっくの昔に消えていたとしても。
バイエルンの極右で愉快なカトリック野郎どもは、バチカンの戦士に協力してくれるだろうからな。ガセネタでもいいさ。血の気が荒い連中なら、中世以上の魔女狩りもする……悲惨なことになる?……それは、避けたいが。
……いいんだ。
……オレは。
そろそろ、自覚すべきだろう。
本当に救いたいのは、世界なんかじゃないんだ。君とオレの最愛の娘。守れなかったあの子。君の面影を遺し、オレが命に代えても守らなきゃならなかったエリーゼ。あの子を、助けるんだ。
あの子の体を、穢させはしない。何だってしてやるさ。極右で愉快なカトリック野郎どもが、どんなことをしでかそうとも―――ヴァルシャジェンにエリーゼを穢させるつもりなどない。
宣言してやろう。
バチカンの戦士として、魔物に向かって放つに相応しい言葉は、いつだって決まっている。
「……主に祈れ」
『……っ!!……う、嘘つきめ―――』
そうだ。容赦なくド汚い嘘つきだ。本質を表す。あちらもな。消化液で融けながらも、オレ目掛けて噛みつこうとアゴを動かしてくる。ナイフを握る手を狙うか。だろうな。そんなところだ。追い詰められた者の発想とは、貧困だな。
飛び退きながら。
拳銃を抜く。霊鉄ではなく、通常の銀の銃弾のためのそれだ。空振りしたアゴのすぐそばで、拳銃を乱射する。融けかけていたヤツの甲殻を簡単に撃ち貫いて、魔を殺すための銀色の祈りが、魔物の肉を至近距離からえぐるように踊った。
『ぎぐうう!?ぎゃあああ、ぐああううぐう!?』
祈りではないが、どうでもいい。どうでもいいんだよ。クソみたいな悪人に妥協するのも、邪悪な魔物と会話するのも、そんなことしている場合じゃない。エリーゼだ。オレは、もうエリーゼのために、この死体となった身を捧げれば―――っ!?
「どき……やがれええええッッッ!!?」
男の怒声が響く。腹を白い布で……おそらくベッドのシーツで巻くことで、傷口を雑に止血しただけの男。ドン・ドブロシという悪人。そいつが目覚めて、ショットガンをこちらに向けている。
もう動けたのか。大した生命力ではあるが……。
「邪魔をするな、ドブロシ!!退いていろ!!」
「うるせええええ!!!バチカン野郎!!!!その悪魔は、オレがぶっ殺すんだあああああああああああああッッッ!!!!」
狂犬のように、唾液を散らしながら。
人身売買で人殺しの救われるべきでないその悪人は、サイアクなことに、オレごと『蠅』を狙って撃ちやがった。聖職者みたいな存在に対して、何てことをしやがるのか!!これだから、マフィアなんて連中は大嫌いだ。
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