二日目 『慎ましき暴食』 その8


 拳銃を牛革製のホルスターにしまい込む。銃弾を使うまでもない。この豚小屋には『蠅』退治に適したものが色々とある。柱の釘に引っかかったロープとかな。そいつを手に取ると、豚小屋の中を走る。


『逃げるのか!?』


 経験値の足らない若い『蠅』は、戦い方を知らないようだ。距離を取って走る者が、逃げている。そうとしか考えてくれない。『蠅』は自分を模造しながら、知識や経験を蓄積しているはずなのに。おかしなことじゃある。


 膨大な知識の図書館があったとしても。カード目録が用意されていなければ、使いこなせないでしょう。カード目録があったとしても、それをニヤニヤしながら探してみた記憶な無ければ。そんなことなのよ。


 いつだったか、君はそう教えてくれた。図書館の目録を引くことに、イライラしか感じられないオレには、未知の知識を教えてくれる君がとっても大好きだ。とにかく賢くてもバカはいるってことさ。


 『蠅』が本能的に追いかけて来る。狭いはずの場所を、邪悪な魔物の羽を振動させながら上下に左右によく動く。楽しんでいるな。『狩り』だと考えている。バカ犬のように。『飛翔』の能力に自己陶酔しているのかもしれない。たしかに素晴らしくよく飛ぶ。


 空を支配する日など、人類にはきっと来ないだろうが―――空を飛び回るほとんど全てのものを、人類は引きずり落としてきたんだよ。嫉妬がましいし、堕落が得意なのはアダムじいさまとイブばあさまの世代からの得意技なんだ。


 ロープを指でこするようにしごきながら、輪を作る。牛飼いの差別的過ぎるわらべ歌を頭のなかで歌わせながら、ロープの先に絞首刑にも耐える強靭なわっかを作った。しゃがむ。豚小屋の開き戸をしゃがみながら潜った。


『逃がさない!!』


 知っている。だから誘っているんだ。『蠅』ならば、脚くせが悪いものさ。開き戸に対して蹴り上げで破壊をする。知っている。何度も戦ってきたからな、『蠅』はものぐさで、手を使って獲物以外の何ものに対しても触ろうとはしない。


 通気性がある開き戸が蹴り破られて、『蠅』が昆虫的な長い脚と共に豚小屋の入り口前にある作業道具置き場に飛び込んだ。狙いの通り。不用意に伸ばした脚目掛けて、牛飼いの投げ縄を飛ばした。


 予測通りの行動と、予測通りの位置関係。空飛ぶ醜い魔物が相手だとしても、デザインした通りの戦術に絡め取るのは難しくはない。当然のことだ。誰もが物理学の囚われでもある。邪悪であろうとも神聖であろうとも。世界を定義する力の一つには、神々も悪魔も逆らい難いそうだ。


 ガッカリするといい。


 現実というものの洗礼を浴びればいいのだ、ルーキー。そいつが新兵の定めでもあるよ。


 ロープというものは単純で純粋なものだからさ。


 裏切らないよ、人みたいには。


 サディスティックな神さまがくれる運命よりも頼りになる。


 悪魔みたいに、きちんと力学を履行してくれるものだ。


 刺々しい形状の脚を広げていた輪が呑み込んだ。そのまま、引っかかりながら締まって行く……どんな荒れ馬でも、この力からは逃れられない。屈強な船乗りさえも、絡みついたロープには容易く巻き上げて吊るしてしまう。骨を砕かれながら吊られるんだ。


 力がね、的確に伝達するからさ。


 『蠅』よ。


 貴様のように軽い魔物では、この力学に抗えない。ロープとつながっているオレの体重と、雹の女神カーリーの祝福を得ているオレの腕力の前には、無力なものだ。


 シュルシュルと。小気味よい音を立てながら、ロープが絞扼した。『蠅』の邪悪で刺々しいが細長い脚を、重量と筋力が侵略する。


『ぐあ!?』


 耐えようとした。もがいた。豚小屋の空を支配していた『蠅』は、羽を揺らして強さを示そうとしたが。全ては無駄だった。空にいるものは、とても不安定だ。石ころ一つでもぶつけてやれば、偉大な猛禽も獲物を捨てて逃げ去った。


 空の覇権はあっさりと崩れ去り。


 『蠅』は、ロープ勢いよく豚小屋の容赦なく不潔な床に墜落してしまう。


 ロープを引きずるようにして走り、ヤツの羽を床でこする。脚を無理やりに引っ張り、飛び立てないようにしてやる。どうだ?包帯顔の師匠から直伝の、『蠅』の弄び方の一つだ。下らん動き、どこにでもある道具。それでも、ベテランは貴様を弄べるんだよ。


『ぐ、くそう!?ひ、引っ張るなあ!?』


「それもそうだな、失礼だ」


 自由が欲しけりゃくれてやろう。家畜みたいに引きずられることは、プライドに関わる。こういうガキはインドにはいくらでもいたからな。あの差別主義者のクソどもの国では。だからね、こんなみじめを、貴様に対してもいつまでもしてやることはない。


 意外と自由を重んじているんだよ。


 バチカンの戦士なゾンビ野郎もな。義務感だけじゃなく―――自由意志のもとに。死んでも世界を救おうとしている父親なんでね。


 ナイフを逆手に抜いたまま、ロープから逃れようとしてピンと伸ばした魔物の脚を目掛けて、雹の女神の加護を帯びた暴力で斬りかかる。


 『蠅』の醜い脚に、刃が突き立つ。硬いがね、バカ力が売りなタイプのバチカンの戦士の前には、この程度の硬さは意志を遮る障害にすらならないんだ。


 斬り裂いてやったよ。


 鋼と腕力で無理やりに、その醜い脚を切断してやった。


『あああ!?』


 喪失の瞬間、だいたいそんな風になる。人間も魔物も同じだ。『蠅』もな。この呆気なさ。この共通項を見つける瞬間。ベテランの心は変わるんだ。情熱ではなく、勝機を狙うだけの機械になるよ。


 殺気を爆発させながら飛び掛かり。交流ではなく、押し付けることを選ぶ。ボクシングの試合でもない。競うことはしてやる必要はない。どうだ、元も子もないだろう。ベテランっていうものは、そういうつまらない存在なんだ。


 機械のように動く。


 銀色の牙は残酷に踊り、脚を失って呆然としていやがるルーキーに正面から襲い掛かる。


『……っ!?』


 驚くなよ。ライフルが発明されたってね、人は接近戦を忘れちゃいない。魔物が飛んでいようが、力が強かろうが、接近戦が危なかろうが。そんなことを考えていては戦士はやれないんだ。


 銀色が『蠅』の腕を裂いた。左腕に深手を負う。それでも奴は顔を守ろうとしたが、間違いだな。そもそも狙っているのは、顔じゃない。腕だよ。ベテランはこれでも焦らない。有効な戦術も好む。手足を削いでやろう。


 硬くて一太刀のもとに切断できないのならば、何度だって削るように刃を振るっていけばいい。血があふれ、昆虫的な甲殻が割れて飛び、緑色の肉片が散った。脚に続いて腕も壊している。


 その痛みに、『蠅』は反応した。


 プライドがあるからね。


 負けっぱなしは、イヤなんだってさ。そんな感情を込めちまうからね。弾丸みたいに速くて長いストレートでも、こっちのほほの皮一枚を切り裂くのがやっとだよ。壊れていても、その速さを出せたことは感動的だが。


 深手を負っていない右を攻撃に使ってしまったせいで。もろくなった左しか、お前を守っていないな。視線を浴びたせいで、『蠅』の顔が歪む。魔物も人間に似ていてね。怖いときは、ああなるんだ。


 良くないな。


 感情的になってまで、することじゃないよ。殺し合いっていうのは、実に色褪せている行いであるべきだ。


 左手で、躱した『蠅』の右を捕らえながら。ブーツの底を『蠅』の顔面に叩き込む。『蠅』のボロボロになった左腕がガードしようと頑張ってはいたが、かまうことはない。ただ残酷に筋力を執行し、左腕を踏み抜いて壊してやった直後に、顔面を踏めば良かった。


『ぐぎゅうう!?』


 空を飛ぶ魔物にありがちだがね。顔を踏まれるという発想に欠けていることが多い。人間と戦うには、それはとてもいけないことだ。人間は、見下したいヤツだとか、大嫌いなヤツの顔面を踏みつけることが大好きな獣なんだからね。


 踏みつけに怯んだルーキーに、オレはさらに肉薄する。恋人みたいな距離だよ。愛をささやくつもりはないが、目の前に『蠅』の巨大なあごがある。緑色の強酸のゲロでも浴びせられたら大変だよ。だから、知っている。愛の距離では乱暴なことも出来るんだ。


 ナイフを走らせて。


 『蠅』の首根っこを深く裂いた。血管も切れたが、それよりも狙っていた部分が切り裂けた。さすがはベテランだ。怯えた雑魚ごときの急所を外すことはない。強酸性の体液をため込む袋。オレ目掛けて、そいつを吹こうとしていたのに……。


 残念だな。


 裂けた袋から流れ出るそいつはね、万有引力に引きずられるんだ。貴様にかかるぞ。強烈な酸の吐しゃ物が。


『ぎぎゃああああああああああああああああああああああああああッッッ!!?』


「熱いだろうな。融けていくぞ。だが、あきらめろ。もうお前には勝つ見込みがない。顔ものども肺も焼かれて、床を焼くその強酸の汁は、お前の大切な羽も焼いているぞ。もう、逃げられないということだ」


『く、くそが―――――』


 銀色の牙を振るうんだ。負け犬野郎の左眼に、思い切りナイフを突き立てた。眼球が壊れて、眼窩を形成する骨が割れながら砕ける。殺せたんだがね。ちゃんと手加減していたよ。頭蓋を完全には貫通することもなく、半分程度の深さにした。


「……訊きたいことがある。そいつを教えれば……そうだな。逃がしてやるかもしれないぞ」


 嘘をつく。


 ベテランだからね。真顔で、そんなことを告げることも出来てしまうんだ。まったくもって、聖職者とは言い難い立場である。バチカンの戦士なんてものは、こんなものさ。善行は、世界を救うこと程度しかやらないんだよ。




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