二日目 『慎ましき暴食』 その7



「ぐうう……っ。ぎゅ、ぎゅるうううう……っ」


 『蠅』の硬質を帯びた三本指に締められた首のせいで、窒息していく男は唾液の泡沫を口からこぼす。ルイ16世の忠臣は、拳銃を向ける。


「悪魔の言葉に従うべきではないと、幼いころに神父様か牧師様、あるいは若くチャーミングな尼僧から聞かされなかったか」


「……年老いた尼僧がいました。18世紀に生まれた、清貧なる方。革命により、さまざまなものを失い。信仰だけが残ったと」


「慎ましくも、いい教育を受けたらしい。それでもなお、悪魔の手先と堕ちるかい」


「参りますぞ」


 暗殺者特有の機械的な冷静を生み出している……感情を揺さぶれそうな言葉を使っているつもりだが。ドブロシを見ていたときの感情的な顔は捨てたらしい。虫のようだ。高等な感情を持たずに、だからこそ目的だけに純粋でいられる合理性。


 美しさはあるが、人間味にはかける。君ならば、そう断言するだろうね。君は、人間が好きだから。


 早撃ちが襲い掛かる!!……カマキリみたいだったよ。嫌な撃ち方だ。伸ばしていた腕を胴体に引きつけながら絞り出すように撃つ。威嚇は消え去り、本気の殺意だけが残された。そんな印象を受けてしまうメッセージ性の強い動作だ。


 オートマチックの機構が速射を実現していた。全弾を躱すことは不可能だったよ。それでも、豚どもを区画している壁に逃げ込めた。


『反撃しないんだねえ。びっくりしたよ!!』


「……バチカンの戦士は、無意味に生身の人間を殺すことはしない」


『バチカンの戦士か……君は、自分をまだそう呼ぶのかい?分かるよ?鼻が利くのだ、全ての『蠅』がお前の死と腐敗を嗅ぎ分ける!』


「そうだとしても。アイデンティティは失ってはいないつもりだ。たとえ……魔物と同等の体になろうとな」


 左肩を弾丸が射抜いたはずだが。血があふれることもない。ショックを受けたつもりはないよ。君と同じように、オレだって予測をすることで、現実に備えられる。黒い不健康そうな冷たい血が腕を這うように垂れるだけ。それも、すぐに止まった。


 君の父親が断りもなくオレの死体に刻み付けた、雹の女神の祝福の効果なのかもな。正確には、分からん。だが、どうでもいい。静かに近づいてくる暗殺者の足音から距離を取るために、豚小屋の中を駆ける方が優先事項だ。


 乾いた殺意を響かせて、銃声と怯えた豚のいななきが満ちた空間を銃弾が打ち抜いてくる。遮蔽物が多いことが救いだな。


『どうした?どうしたんだい?一方的な戦いでは、つまらないなあ!!もしかして、銃弾が尽きるのを待っているのかな?』


「……作戦は語らんよ」


 『蠅』は、ドブロシの首に指をかけたままだ。ドブロシの意識は、まだあるようだが……窒息寸前にまで苦しめられては、わずかに指が頸動脈を解放する……そういう拷問めいた責め苦を与えられている。


「がごおお……っ。ごほおお、ぶほおおおおお!!」


 ヒトの限界を超えるほどに太らされた喉が、豚に似た声を出す。残酷な仕打ちだが、ろくでもない人生を送ってきたせいか。あるいは、ドブロシに同情する気が少ないせいか、オレを苦しめることはなかった。


 アルフレッドには有効だったがな。


 主の苦しみの声は、感情を消したはずのアルフレッドに唯一届く信号のようだ。高級な牛側の靴が汚れるなんてことも気にせず、不潔な豚小屋を暗殺者は駆けては、距離を取り続けるオレに銃弾を放つ。


 かなりの凄腕だ。罪深さに裏打ちされた動きだろう。


「忠誠心か……それが、あんたの罪の意識を打ち消している。殺すことは、組織に仕えること。あんたのボスに仕えること。そうすることに意味を持ち……過ちの苦しみを誤魔化してきた。あんたは、多く殺し過ぎたようだな」


「……私の人生を見透かして、どうなさいますか」


「流行りの精神分析ってヤツだよ。病める心を救うのに、こいつは説教よりも有効に働くこともある。あんたは、今の行動が間違っていることを理解するべきだ。主を救う方法ではない。それが出来るのは、オレか他のバチカンの戦士だけだ」


「……ならば、救ってくださいませ。私を殺していただいてもかまいません」


「邪魔をするなと言っている。殺したいわけじゃないんだ。敵を間違えているぞ、敵に操られているんだ」


「理解していただけますか。私は、主に忠実です。これまでも、これからも」


 こちらに反撃の意志がないと見たアルフレッドは、さらに積極的な追撃を行う。銃弾がまた体をかすめた。豚の汚物が飛び散っている板を射抜いて、当てようとしやがった。見えないはずなのに……大したもんだよ。


『早くバチカンの犬を殺せよ!!何しているんだ、お前のご主人さまの首をへし折るぞ!!』


「ぐぎゅうううう…………ッッッ」


「……ッッッ」


 アルフレッドの動きが焦る。表情に出た一瞬の葛藤の色彩は、特攻じみた攻めを招いた。乱射しながら、こちらを追い詰める。銃弾が底をついたタイミングで、彼は拳銃を投げつけてきながら、逆手にナイフを握り……飛び掛かってきた。


 体術でも、オレには勝てない。


 ナイフ使いとは、戦い慣れているのだから。ナイフを握る老いた前腕を打ち払うように左腕を走らせた。腕と胴体のスペースを作りながら、無理やり作ったその間隙に、右肘を打ち込んだ。


 あごに命中し、脳が揺れる。瞬間的なふらつきは、意志の強さでは抑えきれない。医学的にはね。それでも熟練の暗殺者は動き、絡みつくようにのしかかってくる。手首を回しながら、ナイフの先端で獲物の首を傷つけようと―――もがいた。


 意識が消え去りそうでも、体が動くことなど、我々のような生き方を過ごした者には珍しくない現象でもある。


 だが、もはや技と呼べる鋭さはない。


 少しばかりゾンビの薄皮をナイフの切っ先が裂いたところで、こちらの投げが封じられることもなかった。乾いた老体が、オレの怪力に牽引されて軽やかに浮かび、豚小屋の汚れた床に墜落する。


「がはうッッッ!?」


 背中を打たれたことで、肺から空気が漏れてしまうのだ。一瞬、肺がつぶれるから。それは老体でなくとも人の体から動きを奪う威力があった。まして、あごを打ち上げられた直後なら、なおのこと効果的なものになるさ。


『おいおい!!負けちまったのかよ!!情けねーなあっ!!』


「……お前こそだ!!『蠅』!!自分の力を見せてみろ!!」


『安っぽい挑発だが……手駒が消えちまったら、直々に戦ってやるしかないか。羽も、もう乾いたからね……じゃあな、『さなぎ』よ』


 ドブロシの首から指を離し、悪人が一人、窒息の苦しみからは解放された。『蠅』の背中に花開くように、透明な翼が広がる。体の準備が完了するまで、アルフレッドに守らせたか。まどろっこしいことをする。


 いや……おそらく、そんなものは不必要なことだったはずだ……そう、『蠅』は、どいつもこいつも卑劣な性格をしているものだ。楽しんでいただけに過ぎない。オレとアルフレッドが戦う様子を見て、『蠅』は笑いたかった。


 肉のさなぎ―――ドブロシの肥え太った体から『蠅』は宙に飛び立つ。黄色を帯びた透明な翼が、高速で振動し、ブウウウウンという飛ぶ虫けらに特有の不快な羽音で、鼓膜にケンカを売って来るよ。


 インドでも見た顔だな。マハラジャ/王の表情。あるいは、ダージリンで荒稼ぎしているイギリス軍の高級将校どもの面。


 豚小屋の臭い空気の中に漂っているそいつは、身分制度の最上位に君臨しているつもりの男たちに似ていた。こちらを小馬鹿にするような目つきだ。


「……『蠅』ごときが」


 挑発されることに、あまり耐性というものはなくてね。短気なバチカンの戦士は引き金を絞る。狙いをつけたつもりの速射……三発の弾丸は二つ外れた。しかし、『蠅』の長く歪な脚の一本にかすり傷を与えることには成功する。


 高速かつ変則的な軌道で飛び回る『蠅』を相手にしてのことだ。三発のうち、一発でも当たれば悪いことはない。


 豚小屋を前後左右に飛び回りつつ、それに上下の移動も混ぜていた。ひどく立体的な動き。サーカスの天幕で高く遊ぶ、曲芸を見せられているようだ。そんな遊ぶような軽薄な挙動をする『蠅』は、唐突に口を大きく開く。


 ヒトに似た顔はしているが、それはあくまでも表面のことだけらしい。ヒトの口はあんなに横へ広がりながら顔を割ることはしないから。噛みつこうとしている昆虫の下あごみたいに広がった、不愉快な構造から緑色と蒸気をまとった粘液が放たれる。


 とっさに避けたその液状の攻撃は、あわれな豚の一匹にかかってしまった。


「ビヒイイイイイイイイイイイイッッッ!!!??」


 豚が緑色の焔に炙られていったよ。下半身の肉が融かされながら焼かれている。


 『蠅』の能力は個体差があるものだが、これは、極めて危険な攻撃方法だ。ものの数秒で、食欲をそそりかねない香ばしさを、この不潔な豚小屋に充たしてしまうのだから。


 生きながら焼かれる暴れる豚からも、やはり焼き豚の匂いがしやがる。楽しめそうにない知識を頭に刻みながら、オレは牽制するための射撃を一発だけ放ち。たよりない豚小屋の支柱の一本に背中を隠した。


 これも盾にはなる。頑丈さではなく、ここを崩せば建物そのものが倒壊するかもしれないというリスクを、『蠅』が認識してくれたら……。


 付け込む隙を作ることにでもつながるかもしれないしな。


 姑息なことを思いつくのが、ベテランだ。弾丸を拳銃に補充しながら、その展開を期待していたが……この『蠅』は、連続で燃える嘔吐を放てないようだ。攻撃よりも、言葉による挑発を選ぶあたり。


『さあさあ、どうしたんだい?バチカンの戦士?もっと、どんどん撃って来なよ?……さっきは、惜しかったよ?』


 ……挑発されている。撃って来いか。産まれたばかりの『蠅』は、いつものように賢くはない。弾丸を撃ち尽くしたとき、バチカンの戦士が顔に浮かべる絶望を味わいたいのだろうさ。


 浅はかなことだ。魔物が期待するようなことを、バチカンの戦士は選ぶことはないというのに。駆け引きなんてものは、オレには通じないぞ、ルーキー。




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