二日目 『慎ましき暴食』 その6


 ドン・ドブロシのいる豚どもの屋敷を目指す。アルフレッドは蜘蛛の足みたいに長い年代物のクラッチレバーを操作した、慣れた動きでね。ぬかるみに滑りそうなほどに速い。猟犬のように忠実な動きだった。


 ……個人的には共感することなど出来やしないのだが、魅力的なボスのための忠義はアンティークの車輪を酷使させて、瞬く間にあの豚と『蠅』の臭気が漂う場所に到着した。


 豚の遠鳴きが合唱しているな。豚どもは可哀そうに、怯え切って逃げ出したいのだろう。邪悪な『蠅』から。動物は邪悪な気配には人よりも敏感だ。人ほど邪悪に近くはないから、邪悪が持つ気配をより明確に悟れるのだろう。


 とても悪い状況だな。まともな者たちならば、この豚の合唱だけでも、立ち止まるはずなのに。まともじゃない我々は、アンティークで乗り付け、すぐさまそいつから飛び降りたりしている。異常な生き方をすべきじゃないな。変になってしまうから。


「うぐっ!?……この、においは!?」


「専門家でなくても、事態の進展が分かる悲惨さがあるな」


 背をかがめた体勢で走り始める。頭を低く、拳銃を両手持ちで、速射と反応頼みの防御を作戦とした。似たような姿勢で追いかけて来るルイ16世の手下は、きっとこの臭気に鼻をかみたくなっている面になったまま、口を開いた。


「どういう状況なのですか?」


「説明はしただろ?……『蠅』が出ようとしているんだよ。だから、腐ったドロドロの膿が泡立ちながら飛び出している頃だ」


「……我が主の命は」


「大丈夫だろうさ。罰は重い。すぐには死ねない。呪いにのたうち回りながらでも、元気なんじゃないか」


 予想しながら屋敷の玄関ドアを開いた直後。ショットガンの射撃音が臭気に満ちた空間を揺さぶった。


「元気そうだ」


「暴れておられる?」


「肉の奥で『蠅』が肥大化しながら形を成す。あんたの飼い主は、いわば肉の繭さ」


「ああ、ドイツ人のしみったれた不条理文学の犠牲者のようなことが、我が主に!?」


「不条理でもなかろう。呪いとは素直だ。臭い沼地に沈められて、骨だけになっていく腐った肉体……意趣返しの一つもしたくはなる」


「悪魔の肩を持つと?」


「純粋な聖職者でもないからな。魔物とだって、和解できるのならばそれをしたい」


 和解しにくいケースだと予想している。今回は、面倒だ。銃声と豚の絶命の悲鳴の大合唱が、屋敷の奥から響いてきやがった。コミュニケーション能力を発揮する余地なんてものが、ここにあるのかどうか。


「早く!」


「……散弾の弾はどれぐらい持たせた?」


「……多くはない」


「正確さに欠くね」


 近づけない。あの男がショットガンをぶっ放している以上、古い屋敷の湿気で緩んだ壁板をぶち抜いて、散弾が飛んでくる状況だから。


「無駄に傷を負うつもりはない。だが、安心しろよアルフレッド。そろそろ、動けなくなるだろう……」


 『蠅』に相当手酷く肉体を食い破られているだろうからな。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!??」


 銃声も豚どもの合唱も消し飛ばすような勢いのある声量。そいつが響き。ショットガンの乱射も終わりを告げる。激痛の最中で動ける者は、戦士か女だけ。男じゃ無理だと、君は指摘した。いつもじゃないが、よく当たるからね、君の洞察力は。


「オレの背後にいろ。撃つなよ」


「……ええ」


 信用はできないまま、ゾンビの体をルイ16世の手下のために盾として提供した。オレが前で、彼は後ろだ。善良なことだな。バチカンの戦士として生きるということは、こんな献身をさせることもある。おかしなことだ。殉教者に憧れる神学の徒でもないくせに。


 暴れる悲鳴が聞こえるドアを蹴破り、拳銃を構えたままドン・ドブロシをにらみつけた。正確には、その腐敗ガスと内出血で醜く派手に膨張した体の中で暴れている、『蠅』に対してなのだが。


「バチカン野郎ううううううううううううううううううううううッッッ!!?どうにか、しろおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!?」


「どうにかするもクソもない。ちゃんと体から『蠅』は出て行くぞ。外科的手術をするよりは、はるかに生存の確立は高い。素直に出産してみろよ」


「はああああああああ!!?ふざ、ふざけんなあああああ!!?」


「万能ではない。魔物を祓うためには、ときに犠牲はいる。耐えろ。痛いだけだ。死にはしない。死の慰めさえも、『蠅』はすすって肥大化する。それぐらいには、お前は恨まれている。殺しすぎたな。豚を女に喰わせたか。悪魔に憑かれる?……神からの罰だと思わんか」


「オレは、教会に、どれだけ金と便宜をはかっているとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!?」


 ぐちゅりぐちゅりと、不気味な粘つく音を立てながら。ドン・ドブロシのふくらんだ腹が膨隆していく。脂汗の浮かんだ顔で、ドブロシはそれを見つめる。血走っているせいで、眼球には色がついていないところがない。


「いやだあああああ!!!悪魔を産むのは、いやだあああああああ!!?」


「肉を喰われて飛び出してくるだけだ。血管や食道やはらわたの一部が引きずられるだろうが……なあに、死ぬほどではない」


「ぬかせええええ!!?こ、こんなことが、げんじつだなんて、みとめねええ、みとめねええええええええ!!!」


 ドン・ドブロシは、弾を撃ち尽くしたショットガンを投げ捨てて、巨大なベッドに並ぶ大きなクッションの一つを腕で払い飛ばすと、その下に潜ませていたナイフを取り出した。


「おれを、なめるなあああああああああああ!!!あくまごときがああああ!!あくまごときがあああああ!!!!しんたいりくにも、ねをひろげる、おれたちいちぞくのはんえいを、おうであるおれを、ぶじょくするんじゃねええええええええええ!!!!」


 ナイフが牙のように。その膨隆して伸び上がっていた腹を傷つけていく。とんでもない自傷行為だ。ナイフがうごめく腹をえぐり、赤い血と黄色く濁った脂肪が飛び散る。それでも彼が否定したい現実は膨隆とうごめきを続く。


 なるほど。ドイツ人の描いた悪夢に似ているかもね。君は、ああいう文学を好きだったな。そんなことを思い出す。懐かしい。だから、オレはきっと止めないのかもしれない。興味はないな、マフィアの自傷行為に対して、感情を持ってやることは難しい。ゾンビにはね。


「お、おやめください!!ドン・ドブロシ!!」


「うるせええええええええええええええ!!!!しょっとがん、もってこいいいいいいいいいいいいいい!!!このあくま、ぶっころして、ぶっころしてやるんだああああああああああああああああ!!!!」


 ナイフは肉をえぐりつづけるが、状況は不変だった。それはそうだ。アドバイスのために唇は動いた。君の愛した皮肉屋の口がね。


「そんな威力じゃ何にもならん。やめておけ」


「うるせええええええええええええええええええええ!!!!」


 ドブロシのぜい肉ではち切れそうになっている腕を伸ばして、ナイフをオレに投げつけて来る。やれやれ、バチカンの戦士を呼んだのはそっちだろうに。いい軌道であったが、ナイフを受け止めてやりたい気持ちはない。


 拳を使ってナイフを叩き落としてやったよ。ナイフの扱いを見せびらかすには、相手が悪いぞ。オレにそれを教えたのは包帯顔の天才だ。19世紀で最強のナイフ使いの一人であり、20世紀でも衰えちゃいるが、まだ現役のな。


 ナイフが命中しなかったことに対してのイラっとする気持ちよりも、出産への恐怖でドブロシは発狂寸前であった。尊厳を踏みにじられているようだ。君なら喜ぶだろ?悪人が脂汗と共に浮かべる絶望のしわなんてものはな。


「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!あるふれっどおおおおおおおおおおおおおお!!!おれを、ぶっころせええええええええええええええええええええッッッ!!!」


 恐怖におびえて狂ったルイ16世に、手下は手荒なことをしなかった。まるで幼い息子にしてやるかのように、手を握ってやっている。ほかにすべきことはない。感動的ではないが、そろそろ『蠅』が出て来るぞ。


「ぐ、ぐううううううううううううううッッッ!!?」


 ドブロシは悲鳴を噛み殺し……悪夢との遭遇に備えたようだ。膨隆の限界を迎えた腹部が、肉の繊維がもつ柔軟性の限度を突破する。シーツを裂くような音にまで近いのだ、『蠅』の出産時に響く、肉が裂けてしまうビリビリという音はね。


 人体を構成する肉が繊維であることを認識できる最良の教材として、ドブロシは機能しつつ。激痛と共に裂けてしまった腹の肉の奥底からは、『繭』から孵化した『蠅』がいた。


 赤と黄色と粘り気が混じり。


 虫にも似た長い手足には、トゲトゲが生えている。君の好奇心をくすぐるのかもな。ショウジョウバエの研究者どもに敬意を払う日が来るわ。残念だけど、その点のついては不勉強なオレには理解してやれないんだ。


 赤い瞳。


 出産物はそいつを煌めかせていたがね、頭部は全体的に人のそれだった。ドブロシは痛みに歪んだ顔で、血走る目を開く。


「お、おまえええええええ、えみりあんんんんんんんんんッッッ!!?」


『……違うよ。私は『蠅』だよ。君への恨みに寄生する。バチカンなどよりも、ずっと古い魔物だ。生け贄の一体となった若い名前などと、一緒くたにするな。伝統に失礼だよ』


「うちより長い伝統を持つか。古くて朽ちていそうだな」


 『蠅』はその哺乳類的ではない昆虫的な外骨格を捻りあげて、こちらを見つめる。


『……バチカンの戦士。マルジェンカさまのお体となった生け贄の父親か』


「そうだ。マルジェンカは、貴様を蘇らせて、命令を下したか。奴隷となり働けと」


『こちらが恩義で仕えているのさ。私はね、慎ましい性格の持ち主だ。分不相応な地位は求めない。ただの戦士でいいよ。敵の肉を食らう……その快楽に没頭したいだけだ』


「オレを殺す気か」


『そうするよ。君は、私の『同胞』たちをどれだけ殺したのか。そろそろ、罪を清算する頃合いだよ、バチカンの戦士』


「ならば冥途の土産に教えてくれるか?……ヴァルシャジェン復活の儀式は、どこで行うんだ?お前も参列するのだろ?」


『私はここで戦い続ける役目だ。騎士として、マルジェンカ様の背後を守る』


「知らないわけか。使えないな。魔物は、どいつもこいつも自己評価が高すぎて、反吐が出る」


『そうだろうかな?私は、それなりに強いぞ』


「ぐがああ!?」


「ドン!!?あ、悪魔め、離すのだ!!」


 銃声が響く。ドブロシの首を掴んで締め上げている『蠅』に向けて、弾丸が至近距離から撃ちこまれるが―――マルジェンカが注ぎ込んだヴァルシャジェンの力が、『蠅』を守っているようだ。弾丸はどれも『蠅』の外骨格に弾かれてしまう。


 ……純銀を使った弾丸でなければ、撃ち抜けないか。執事殿は驚愕する。


「下がっていろ。アルフレッド。オレがそいつを祓う―――」


『―――いいや。無礼者に余興を思いついた。従者よ。この男の首をへし折られたくなければ、バチカンの犬と戦え』


「……っ」


 素人がいるべき現場ではなかったか。忠誠心を逆手に取られることになるそうだ。オレの態度が悪かったせいだろうか?……『蠅』は立腹してはいるようだ。でも、相変わらず嫌味な性格をしている。過剰なまでの力を持たされても、正々堂々とは戦わない。『蠅』らしい卑劣さだった。




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