二日目 『慎ましき暴食』 その1



 ……死体というのは存外、便利なものだったよ。重だるさはあるが、痛みや疲労感とは無縁ではある。柔軟性がないだけというか。まあ、腐敗が始まれば、こんな比較的快適な状態とは言えなくなるのだろうが……。


 朝陽のなか、一昼夜ぶっ通しで走り続けた車に給油をする。習慣とは怖いもので、腹が空かないのに、朝食までレストランで注文していた。


 サンドイッチにコーヒーとサラダ。そんなものを、口に運ぶよ。味は、少し全体的にもやがかかったかのようだ。塩も砂糖も苦みも、どこか鈍く感じる。ゾンビの味覚とは、こういうものだったか。


 そのうち。人肉を貪りたい衝動が現れ始めるのかもしれない。底なしの飢餓の苦しみが来て、ただひたすらに人を殺して喰らいたい衝動が生まれるのかと思うと、さすがに気持ちが滅入ってしまう。


 君には見せたくない姿だ。


 キスしてもらえたくなる可能性が、また増える。人肉を噛み千切った口なんて、愛らしさから最も遠いことだけは事実だ。


 美味しく思えない食事を無理やりに胃袋に詰めてみた。消化してくれると嬉しいが、どうだろうな。そこまで気の利いた消化機能をゾンビは持っているのかどうか。

レストランのイスに座ったまま。小銭を支払って、新聞を購入する。


 世の中では、『事故』があちこちで起きているようだ。『殺人事件』も。ヴァルシャジェンの眷属どもは、ヨーロッパ各地で災いを起こし、バチカンの戦力を分散しようとしているのさ。


 新聞を読みながら、コーヒーを飲む……。


 もちろん、パパだからね。


 資産管理にだって興味があるよ。シティの株価ニュースを見る。原油価格は平常を保っているようだ。経済界にまでは、今のところヴァルシャジェンの娘は意地悪をしていない。あちこちで戦いが始まれば、いろんな株が下がるだろう。


 通貨の価値が上がるはずだな。そっちの方に資産を移しておくのも良いことだ。そうすれば、一財産作れるかもしれない。世界の危機的な状況を利用して金儲けするなんてことは、悪徳商法の一種のようだけど。


 いつ死んでしまうか分からない仕事だからな。エリーゼのためにもお金を残しておかなくては。


 あの子が大学とか行ったり、魔物と戦わない形の娯楽的な世界旅行がしたいとか言い出したり、セントバーナードが余裕で飼える大きな庭付きの家が欲しいとか言い出すかも…………。


 …………習慣というのは。


 本当に怖いものだよ。


 娘のために財産を増やそうとか、死んだ今でもいい父親を目指して努力しようとしていた。もう、必要ないのにな。オレにも、エリーゼにも。未来はとっくの昔になかったというのに。


 ああ。イエスズメどもがさえずりながら踊る朝陽の中で。ゾンビは目から何かをこぼしそうになる。本当に、ろくでもないことだ。戦士として、弱くなりすぎている。オレは、もう少し強い動物だと考えていたんだが、違ったようだ。


 ぽっかりと風穴が開けられている。目にも見えない透明な心の実存を、今ならいくらでも説明できそうだ。そいつは胸の奥にあってね。痛みに強いゾンビの体を、神罰の青い焔よりも激しく痛めつけてくるんだ。


 苦しい。死んでしまいたくなる。


 君がこの世界からいなくなって。自殺志願者じみた妄想がアタマに浮かぶようになった。不健全な兆候である。復讐よりも愛の方がやさしく慰めてくれるから。ここで霊鉄のリボルバーを使って、君とエリーゼの魂に会いに行こうかな。


 ……ダメだろう。


 世界を守る。君もいなくなって、エリーゼまでいなくなったとしても。守る理由がなくたって、復讐をしなくてはならない。オレと君のエリーゼを殺したヴァルシャジェンの娘を、吸血鬼マルジェンカを祓うんだ。そうしたら、ようやく死ぬための許可が下りそうだった。


 誰からの許可か?


 そいつはちょっとわからない。オレ自身からではない気がするのは、自意識過剰なことなのだろうか、神さまよ。


 新聞を丸めたよ。こちらに視線を向けながら、ベーコンエッグにフォークを刺していた中年男を見る……。


「新聞を読むかな?」


「今朝の新聞ならね」


「今朝のだよ。世界のいろいろなことが書いてある」


「……株価の暴落でも起きたかな」


「いいや」


「そんな顔をしている」


「プライベートな問題についての苦悩があるだけさ。世界は今のところ平常運転をしているよ」


「それなら、オレは安心したよ。なあ、不幸なことがあったのなら、教会とか、精神科医に行くといい。彼らのカウンセリングを受けて、ちょっとは明るくなるといいよ、新聞を恵んでくれる、親切な旅人さん」


「自殺した友人が多いのかな。朝っぱらからやさしいね」


「そうだよ。戦場帰りとか、帰って来たら家族が戦火やスペイン風邪に巻き込まれて死んでいたことを知らされた男友だちの少なくない数が、飲んだくれて死んだ。飲んだくれる前に死んだマジメなヤツもいる。あんたは、後者になりそうだと感じたよ」


「善良なおせっかいに感謝するよ。君に、幸せが多いことを祈る。オレのぶんまで、幸せを享受してくれるとありがたい」


「殉教者みたいな態度だな」


「そう見えたとしたら、あんたはやはり慧眼の持ち主なんだ―――?」


 レストランを去ろうとした矢先に、駐車場に停めてある愛車のとなりに、クラシカルな馬車にも似た高級車が停まる。アンティークで実用性がない。だが、金を持っている男だということを周囲に知らしめる効果はあった。


 貴族文化は良くも悪くもヨーロッパに残っている。成金野郎は、どうしてかアンティークのつやにこだわるな。ルイ16世の手下のような姿をした執事が、こちらをじっと見つめていた。


 イヤな予感だ。あの男は、秘匿された身分であるはずのバチカンの戦士について知見を持っていそうだよ。バケモノではないと思うが、だとすれば厄介ごとがあるはずだ。そうじゃないと、ルイ16世の手下がオレなんぞを見て微笑み、近づいてくることはなかった。


 そして。


 分かっていることもあった。


 ルイ16世の手下の多くは善良な金持ちの手下だが。ときどき、この男のように死と暴力のにおいをさせている者がいる。例外なく、マフィア関係者だよ。古き良き王制の大半が終焉を迎えた今となっては、貴族趣味は悪人のコンプレックスを克服するために使われがちだ。


「おはようございます。紳士よ。質問があるのですが、バチカンの戦士でございますかな、貴方は?」


「違うね、と言っても信じはしないだろう」


「ええ。気配で分かりますからな。人殺しや、特異な能力の持ち主は」


「修羅場をくぐった悪党の護衛」


「ただの執事でございますよ。アルフレッドと申します。貴方さまのお名前は?」


「アレク・レッドウッド」


「レッドウッドさま。私の主が、貴方さまバチカンの戦士の力を必要としているのです。お力を貸していただけませんか?……専門家が要る状況なのです」


「あんたのような修羅場をくぐった悪党が、困り果てることか」


「ええ。私の力でどうにかなるのであれば、それでよかったのですが」


「何が起きている?」


「ここでははばかられる。主の名誉にも関わることですからな」


「地元で開業しているのか、マフィアが」


「地域貢献の一環ですよ。街の外の資本に好き勝手に商いをやられては、商売人たちも困りますから」


「物は言いようだ」


「……来ていただけないのでしょうか?……各地で、何やら奇怪な事件が多発しているようですが。バチカンはお忙しい?」


「忙しいよ。だが……取引による」


「取引?」


「悪魔祓いも魔物退治も無償でするのがセオリーだが、悪人が相手ではどうにも気が乗らない」


「報酬はご用意させていただきます。当方がこの案件の解決に対して使える予算は、ほぼ無制限でございますので」


「はあ。車で先行しろ」


「いえ。目隠しをした上で、私の車でお送りさせていただきます」


「無作法という概念を知っているはずだよね」


「もちろん。それを承知の上で。バチカンから、孤立しているのですよね?」


「どうしてそう思う?」


「信頼がおける古くからの情報網がありまして。貴方を追いかけているバチカンの『処刑人』もいるようですが……」


 初耳の情報だ。35時間も死んでいると世界は激変しているようだな。マルコの企みの結果だろうか。バチカンが『処刑人』をオレに差し向ける日が来るとはな。オレがゾンビ化したことで、破門したくなったのだろうか。


「お耳寄りな情報でございましたでしょうか」


「……まあね。君は、世渡りも交渉も上手そうだ」


「ドブロシ家の執事でありますゆえ」




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