一日目 『忠実な色欲』 その4
『待ちやがれええええええええ!!』
ドア枠、いや壁の一部をえぐるようにして、『ガーゴイル』がオレを追いかけてホコリの積もった灰色の家に突撃してくる。ああ、あちこちを崩しながら……クソ、強いな。
まるで竜巻のような力。ゾンビの体ではいまいち『肌で感じられる敵の強さ』というものが分かりにくいが、あらためて規格外の力を見せられると、危機の深刻さを思い知らされる。
ヴァルシャジェンの影響で、眷属どもが活性化しているわけだ。なるほど。サイアクだ。ヨーロッパ各地にヤツの強く危険な下僕どもは山ほど眠っている。目の前にいる雑魚だけでなく、そいつらまで近いうちに目覚めそうだ。
……世界にとって、あのサラエボでの暗殺よりも、深刻な引き金になったかもしれない。ヴァルシャジェンの娘―――マルジェンカの復活は。
ヨーロッパ中に災厄が広がるぞ。文明を滅ぼしかけた大戦の傷はまだ癒えてはいないというのに……。
……。
……いや。
もう生者ではない。世界のことなど、どうでもいい。使命を果たすとしようか。呼吸を消す。静かにしゃがみ、闇と融け合う。
『どこだあああああああああ!!?』
……気づかされることはあった。隠遁とゾンビの体は相性がいい。まるで物体のように静止が行える。体の大きなオレは、マルコに遠く及ばない隠遁術しか使えなかったはずだが、今ではマルコに匹敵するかもな。
『ガーゴイル』はこちらを探し、大きな麻布がかけられた家具を、壊して回る。この部屋は隠れる場所が少なからずある。
家具も残されている。空虚ではない。心音さえもない死人の体を使いこなし、影と障害物のあいだを蛇のように動く。完全な無音を帯びたステルスだ。
君の父親が全盛期にしていた動きを、ようやく初めてモノに出来た。
死んじまった後に。
ふん……やっぱり、あまりいい弟子ではなかったのかもしれない。そんなコンプレックスの実在を確認できた。
『がああああああああああああああ!!!』
麻布をかぶったピアノを叩き壊した『ガーゴイル』は、ピアノの影に隠れていたオレをようやく見つける。
『そこかあああああ!!!』
「遅い」
走る。筋力任せで、ただ数歩でいい。加速し……『オレの寝室』のドアに体当たりしながらダイブした。『ガーゴイル』も、すぐその後に続いて来る。ヤツの腕がこちらの脚を掴み……ゾンビの腕は、ベッドを掴む。引きずられる。ベッドごと。
『なさけないなあ!!そんなものに頼るかい、バチカンの戦士よお!!逃げられねえぜええええ!!オレの暴力からは―――』
叩きつけていた。ベッドを『片腕で持ち上げて』……そいつを武器として暴力に使った。背骨が軋み、肩の筋肉が壊れるような破裂音がした。問題はない。痛みは少ない。胴体をいっぱいに捻りながら、超人的な筋力を行使しても、壊れることはなかった。
『ガーゴイル』の伝統的にも見える鬼顔の頭部に、ベッドの重量が鉄槌となり衝突した。
『ぐひいいうっ!?』
ベッドが壊れてしまう。50キロはある分厚い木組みだから、それなりに威力はあったようだ。『ガーゴイル』の岩で組まれた黒い躰に亀裂を走らせるほどには。
その衝撃に合わせるようにして、足の裏でヤツを蹴り込み。束縛を逃れて床を転がった。見つけている。熟練したバチカンの戦士は、状況を把握する。兵士よりも、騎士よりも、猟犬よりも、バケモノ退治の専門家は、理不尽な体力差の戦いに慣れていた。
逃さない。
好機を逃すようでは、バチカンの戦士の水準は満たせない。床に転がる。リボルバー、祝歌に聖別された霊鉄を手に取る。構えて、狙い―――死者をも打つ神罰の痛みを初めて味わっていた。
「ぐううううう!!?」
手が、指が、焼かれていく!!
ゾンビとなり痛みに鈍感となった体なのに……経験と常識が驚きを与えてはいた。
だが、すぐに理解した。痛みと屈辱のなかで、マルコ・ザ・スカーフェイスの言葉の意味を。
補う必要があったのだ。
なにせ、オレはバチカンの戦士の力を、とっくに失っている。死から呪いで蘇生し、邪悪な地位を得てしまったのだ。聖なる存在から、どれほど遠ざかった冒涜の地に立脚していることか。
バチカンの戦士ではない、もはやこんな体を持つ者は当然ながらバケモノだ。
ゾンビは、邪悪な魔物に過ぎない。魔物ごときが、聖なる祝福の化身であるような、霊鉄のリボルバーに指を絡めることなど許されるはずがない。
激痛は、手から全身に及ぶ。
体を粉砕されるような痛み。邪悪への神罰の痛み。ああ、神さま、あんたは本当に、アレク・レッドウッドという孤独な男のことが嫌いだな。
『ひひひひ!!なんだああ、お前!!呪われてやがるのかよおお!!』
「違うなあッ!……もっと、深くだッ!!」
もっと深く穢れているぞ。嘲り笑え。バチカンの戦士に科せられたみじめな罰を。だがな。だが、戦士としての哲学までは揺るがん。
聖なる青き焔に焼かれる右手とその指。そいつで拳銃を構え直す。至近距離だ。外さん。激痛に照準は揺らがない。アレク・レッドウッドとは、そう在ることが出来る男だよな。君の夫は、いつも強がりが得意だ。
……『ガーゴイル』が悟っていた。
罰を受ける身でも、オレは銃を放つことが出来ると。確信し、敗北に怯え……命令に忠実な石の魔物は、黒い躰を走らせる。
『しねええええええええ――――』
「―――お前がな」
引き金を絞った。
弾丸が発射されて、『ガーゴイル』の頭部に命中し。そいつを砕く。
弾丸に封じられていた『聖なるモノ』が、神罰を邪悪に向けて解放するのが分かる。青く正常な光が、破壊の道となり『ガーゴイル』の全身に亀裂を描き。容赦ない悪への憎悪と怒りを、暴力に変えていた。
光の奔流が『ガーゴイル』の体を奥深くから裂きながら放たれて。
魔物は粉々に爆裂した。
勝利を知ったオレは、右手に握る脅威を床に投げ捨てる。痛みを愛しているわけではないからな。
……床に転がるリボルバーの霊鉄は、ただの使い古した拳銃であるかのよう、とたんに静かになる。右手と右腕が痛い。骨が見え隠れするほどの深い火傷だから……というか、神罰だからだろう。
激痛と痺れを帯びたままの指を、何度か握っては開いたりしているあいたに。魔物の肉は黒ずみながら蠢いて、火傷に崩された皮膚と骨を覆い隠していった。
「バケモノじみている……からかわれて言われたことはあったが、こうなると、本格的だ」
自己嫌悪しながら、乾かないはずのノドに水を通したい願望が心に浮かんだ。しばらく休むべきだった。呪われた体の使い方を、少しは学び……慣れてから動こう。動くほど体に溜まる熱。そいつを、今のオレは消し去れないようだ。
……きっと、死者の体に、この熱量は不利だ。不快感が強まっている。別にいつ死んでもいいが、事件を解決してからであるべきだった。
あいかわらず、マジメだろ。
君の夫はさ。
割れた窓ガラスを見た。疲れた男は、目の下に人生で一番ひどいクマを飼っている。
考えたくないことは山ほどあった。
エリーゼが死ぬよりも、前からだけど。
今もまた増えている。
気づいた違和感があるんだよ。オレの狭くて浅い人間関係のなかにあるものさ。考えたくはないから、そいつについては考えないことにしよう。包帯顔の義父の行動については、今はいいさ。最後の日には、全てが清算されるだろうから。
「……娘は、オレが取り戻す」
それだけで、もう十分だ。そのために戦うよ、きっと君のためでもある。
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