一日目 『忠実な色欲』 その3
指を何度も握っては開き、その様子を見た。アタマの働きは緩慢ではないようだが、指の動きは速さを帯びると、死にかけた虫のようにこわばりを見せる。
どうやら腱が緩みにくくて、それが関節に引っかかるようなイメージだ。全身のあちこちが固まっている。産業医あたりに相談すれば、温泉でのリハビリが要るとの診断でもしてもらえそうだな。
「はあ、馴染むまで、しばらく時間がかかるか……詳細は、教えてくれないところも、変わってないぞ、ダメな師匠だ―――」
君の父親の文句を言おうとしたそのときだった。
独占欲が強いという女神カーリーの罰が当たったんだろう。屋根が豪快な音を立てて引き裂かれていく。
雷が交通事故でも起こしたような音が響いて、せっかく、世界大戦を乗り越えた伝統と雨漏りを持つ天井を突き破り、その石造りの敵は姿を現していた。
重量が床板を壊して、その黒い翼は知性に欠ける面を見せつける。下品な笑い声も響かせていたよ。
『ひひひひいい!!見つけたああああ!!マルジェンカさまの、供物うううう!!』
マルジェンカ。
初めて聞いた名前だが。心当たりがあったよ。君も、そう思ったんじゃないか。君とオレのエリーゼに憑りつきやがった、あのクソみたいな吸血鬼のことを考えているんだが。
岩作りのバケモノは、翼を広げる。
『ガーゴイル』。空飛ぶ魔物の一種だ。それなりに高度な力を持った術者に作られ、その恩義に応える、低能で乱暴な魔物だった。
岩で作られた黒い躰が動き、身軽さの鈍ったままのゾンビに腕を伸ばして来やがる。左腕を取られたよ。こんな遅い相手に、腕を取られるなんてことは、戦士であることに誇りを持っているオレには、屈辱だった。この悔しさが、君には分かると思う。
戦士の父と夫を持つ君には。
『ひゃはははははは!!遅いぜええ!!』
黒い翼が広がって、強烈な力を発揮しながら羽ばたいた。宙に浮かぶ。ヤツも、こっちもだよ。ありえないことだな。
物理学を歪める、邪悪な魔物ども……いや。それにしても強すぎるな。通常ならば、こんな雑魚に、ヒトを掴んだまま浮かび上がることなど出来ないはずだった。
プロだ。
バチカンの戦士だ。
それゆえに理解している。この怪物は、ヴァルシャジェンの娘を介して、ヴァルシャジェンの力をわずかばかりか与えられているのだ。
ほんの少しだけ。それでも、この通りだ。
「ぐううっ!!」
風が重たくなるほどの速さで、宙高くに連れ去られていた。高く。高く。高いな、オイ!!高所恐怖症の男に、なんてことをしてくれるんだろうな!!
『ひひひひひいい!!落としてやるぞ!!バチカンの戦士!!死ねよお!!死ねええ!!』
「やめろ、低能」
ああ、青い空が憎い。どうせなら曇天が良かった。空の高さと広さが、あまりにも体感できる。ミニチュアみたいに小さくなった地上の愛車が見えた。死んでるくせに、冷や汗が出ている。生前の生理機能の名残りと出会えたからといって、嬉しくはないものだった。
『ははははははあ!!やーめるかよ!!』
「聞かせろよ。マルジェンカは何を考えているというんだ?わざわざ、トドメをささなかったオレに、刺客を送る理由は?」
『言わねえよ!命令に従うだけだああああ!!あーばーよッ!!』
舌打ちしたくなる愛想の悪さだ。だが、勤務態度としては正しい。忠実な労働者である魔物は、人間に表現したい感情など持っていないようだ。そこらの『野良』な魔物は、もう少し、人間とコミュニケーションを取りたがるのだがな。
……生きにくい世の中でね。産業革命を経た世界というものは。
魔物にも不満や苦しみはある。説得することで、トラブルを解決できれば、バチカンの戦士としては問題ないんだが―――コイツは、兵士のように任務に忠を尽くす。それ以外のことは、大して考えられないのか。
ありえる。石造りの心だ。単調と頑なさを感じる。経験が少なく、容赦なくシンプルにオレを殺そうとしているだけか。たんなる機械を相手にしているようなものと認識した方が良さそうだ。
『死ねえええええ!!潰れちまえええええ!!』
黒い腕がオレを手放す。
落下していく。
ああ、体を襲う浮遊感に、不安が募る。ゾンビのくせに冷や汗が噴き上がる。どうすることも出来ない、もどかしい時間が過ぎて。地上にゾンビの体は叩きつけられていたよ。
「ぐごほおおおおッッッ!!?」
……黒い体液が飛び散り、骨が破裂しながら砕ける音がした。口のなかに、何かドロドロしたものがあふれる。サイアクだな。かなり痛い。かなりだ。ゾンビじゃなければ―――。
『死んだああ!!死んだあああ!!』
……世界一巨大な2メートル超のカラスがいれば、あんな光景を作るだろう。砂利の多い庭に墜落したゾンビの上空を、ガーゴイルは黒い翼を羽ばたかせながら、死体を見つけて喜びを歌うカラスのように旋回している。
イヤな光景だったが、こちらは吐き気を伴うような痛みの代償を得た。隙を突けそうだな。油断しやがっているから、こちらにチャンスはある。
オレがゾンビ化していることを、ガーゴイルは知らない。生きた人間であれば致死性のダメージであったとしても、ゾンビは死なないものだ。とっくに死んで、腐りかけているんだからな。
『ぎゃあああん!?』
馬鹿カラスが驚いたような声で鳴いていた。オレが起き上がり、走り始めたことが腑に落ちない。当然だ。人間を想定しているから、遅れを取る。魔物は人間をバカにすることを喜ぶ癖がある。
バチカンの分析によれば、神の道から外れた者が抱く劣等感を克服するための、神の似姿へのあざけり―――現場の者の感覚としては、連中は本能的に嗜虐者であることが刻みついているからだと考えているんだがな。
何であれ。
どうでもいい。
分かり合うためにいるのではない。敵というのは、排除するだけの存在だ。死後硬直が少しはマシになり、カーリーの祝福だか呪いを帯びた筋肉の使い方が、少しは分かって来ている。動けそうだよ。砕けた骨も修復が始まっているようだ。魔物とは不気味だな。
加速する。
緩慢さはあるが、バケモノのような筋力は獲得している。初動こそトロイが、動きに乗れば速さを作り上げることは容易い。直線的で、人間的な動きではないが、使いこなさねばな。この硬く、強く、反応の悪い鈍った体を。
とりあえずは、あの家に避難して―――。
『逃すかよおおおおおおおおんんッッッ!!!』
『ガーゴイル』が空から降って来た。背後から飛来し、ウサギを狩る猛禽どものような動きで。逃げられるほどには慣れていない。この体にはな。
背後から重量を浴びせられる。馬車にでもはねられたような重みが加わり、大地に叩き伏せられた。
岩で形作られる黒い三つの爪が、地面に倒れ込むゾンビの背中を押さえつけながら握力を行使した。骨格が悲鳴を上げる音がしたが、あまり痛みはない。痛みに鈍感で、生命力は下等生物並みか。
ボギンン!!
『ひゃひゃはははああああああ!!!背骨が、折れちまったようだぜ、人間ッッッ!!!』
「そうらしいな」
『はあ……ッッッ!!?』
油断しやすい魔物の傲慢さを突くことは、それほど難しいことではない。両脚と両腕の力を使い、跳ねるように体を起こす。『ガーゴイル』の重さを、カーリーの祝福を得た筋力で瞬間的に圧倒していた。折れた背骨の痛みも、大したことはない。
数秒。いや、一瞬でもあれば十分だ。隙間があれば、人は―――いや、かつて人だったモノでも、魔物の拘束からは逃れられる。『ガーゴイル』の脚を跳ね上げて、手足つくって獣のように走り逃げ込んだ。家のなかにな。
いくらゾンビが不死で、女神カーリーのおかげでバカ力が強化されていたとしても。あのまま生身で戦い続けるのは分が悪い。
装備……空も飛ぶバケモノに最良の武器は一つだけ。飛び道具だ。
愛用の霊鉄のリボルバーが欲しい。筋力の強さも、不死者ならではのタフさも理解した。あとは、ゾンビのトロさが拳銃の照準にどれほどの精度を与えられるのかは気がかりだった。
やはり、優秀な戦士でいたいと願っているんだ、君の夫はな。死んだ後でさえ。
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