一日目 『忠実な色欲』 その1



 ……君が死んでからも。


 オレは孤独にはならずに済んでいた。


 銀色の髪が誰よりも美しい、エリーゼがいたから。


 まだ幼いあの子。君とオレとのあいだに生まれた娘だ。


 エリーゼのそばでは、君と一緒にいるような特別な気持ちにもなれた。もちろん、あの子自身への愛もあふれてくれる。オレの宝。オレと君の一人娘。世界で最も大切な命。


 きっと、君があの子のそばで見守っていてくれたのだろう。あの子のことと、ちょっとはオレのことも。


 そういう奇跡みたいな幸せがね。オレを、この悲惨なことばかり多く起きる世界につなぎとめてくれたよ。君がいなくなったあとでも、生きられた。


 エリーゼを育てようと必死になったんだ。


 可能とは思わなかったが、『いい父親』でいたかった。作ったことのない料理もしたんだぞ。マズイって、言われたよ。ママの料理が食べたいとも言われた。


 サンタクロースにも不可能なことをねだられ、とても困ったんだが。


 それでも色々と手を尽くしたつもりだ。


 奥様たち向けの料理本を買い漁って、見慣れぬ単語に挑んだな。まったくもって不親切な描写が多い。


 『少々』って、どういう意味なのかは今もって分からん。『適量』ってのは、教えたことになるのかな?……それらを訊いているのだと、本に何度も噛みついたよ。


 悩ましいものだ。


 ベストセラーの料理本だったらしいから、きっとオレの知識や読解力のほうが足りないんだろう。


 『家庭料理』。君に作ってもらったことはあるが、幼い舌がどんな料理を好むのかについて、オレにはよく分からないんだよ。


 なにせ、子供時代が悲惨すぎてね。


 どんなものでも食ったんだぜ。


 君にさえも、言えないようなシロモノも口にしている。悲惨すぎて、君にドン引きされるのがイヤでね。


 オレが、『あれ』まで食ったことがあると言えば、二度とキスしてもらえないんじゃないかと本気で怯えているんだ。知りたがりの君にも、こればかりは教えられないよ。


 そんな男には、とてもじゃないが似合わないさ。


 バチカンの戦士と料理本なんてな……。


 家庭料理を作るために、必死にそいつを読んでも……オレでは、とても理解できない。きっと、テクニックの前に、もっと根本的な哲学のところで理解が及ばないんだ。オレには、家庭料理を作るために必要な『思い出』が足りなさすぎんだよ。


 心にその『絵』が浮かばない。奥様方みたいに、エプロンをつけて、エリーゼが大喜びになってくれる美味しくて家庭的な料理を皿に乗せる姿なんてさ。


 へへへ。無理だろ?赤茶色の短髪をした、人相の悪い筋肉質の男なんだぞ?このアレク・レッドウッドは……。


 ……とにかく。


 呪われた邪悪な怪物どもと殺し合いをする、オレみたいな荒くれ者には。どうにもこうにも難解さがあったんだよ、料理本の数々にはね……。


 それでも。


 こなしたよ。


 努力はしたんだ。


 『いい父親』になろうと、君の不在を補おうと。オレは努力を惜しむことはなかったのさ。それでも、結末は…………あれ?……どうなったんだかな。


 変だな……思い出せないぞ。


 ということは。


 オレは……きっとすでに黄泉路に堕ちているのだろう。このまま、ゆっくりと意識は溶けていき、闇と一つになって消えちまう。


 脳の中で起きている、科学的な事象によって構築されているオレの意識は、このままバラバラに四散するのさ。


 オカルト的なパワーじゃなくて、たんに神経の結び目とか、神経伝達物質とか。そういうものが、全部、分解されて消えていくだけのことだ。


 構わない。


 死ぬことなんて、怖くもない。


 こいつは強がりじゃないぞ。


 だって……君に会えるんだから。


 死ねば、君とまた、同じところにいられるじゃないか……もうずっと前から、食事の数よりは多く、この願望を心に描いてきたな。


 そいつが達成される……。


 ……。


 …………。


 ―――いや。


 違う。


 そうじゃない。


 オレは罪深いから、地獄に行くことになるんだったよ。


 なにせね、とても罪深いんだ。世界大戦で敵兵というだけの、ただの罪なき人のことまでも大勢殺したから。


 誰かの息子であり夫であり父親である誰か。そいつらは、きっと殺されるほど悪人じゃなかった。


 ……それよりも前に、インドでイギリス人に雇用されて戦ってもいたしな。まだガキだったのに、缶詰をもらうために何人も殺してしまった。釣り合うはずがない。


 ……金と政治のために人の命を殺めることは、とても罪深いことさ……本能から来る欲求のために人を殺すバケモノどもよりも、ずっとオレの方が悪党だ。


 生まれてこの方、暴力ばかり振るって来た。やがて、乱暴者はプロとして戦うことを求めた。


 そうやって誤魔化していたところがあると思うんだ。暴力や破壊が好きなところを、認めたくなくて。


 神さま。たしかにオレは弱いところがあったよ、他の全ての荒くれ者と同じように……。


 きっと……オレは許されないのだろう。神さまを裏切ったせいで押し付けられている原罪どころか、自ら罪深い行いで、自分の邪悪さを飾り付けても来たのだから。


 ……でもよ、神さま。自己弁護を少しばかりさせてくれ。この煉獄だか地獄の真っ白い空虚な場所なら、罪深い者の声もあんたの耳に届くだろ?


 『いいこと』もしたはずだぜ。


 バチカンの戦士となって、人類の敵と戦った来たじゃないかよ。科学的で常識的な世界に、邪悪なヤツらが困った影響を出したりしないように。


 その邪悪な芽をしらみつぶしにして排除する戦いをこなしたじゃないか。


 我ながら、いい仕事をしたと思う。邪悪なものが減れば、世界は少しだけマシになるのだから。必死に、自分の唯一得意なことである暴力を振るい、殺しまくったぞ。


 ……あらためて思うに。


 オレは、自分で考えていたよりも、ずっと『善人』なのかもしれない。


 ……その証拠が見えるぜ。


 今ここで、君が見えるんだ。嬉しいことに、エリーゼもいるな。君のもとに、オレはちゃんと届けることが出来ていたらしい。


 ああ、君とエリーゼに手を伸ばす。どうか拒まないでくれると、嬉しい。抱きしめさせてくれ、右の腕で君を、左の腕でエリーゼを。それをしたいんだ。だって、家族が久しぶりに三人そろったんだ――――――。


「きゃははははははははははははあッッッ!!!」


 邪悪な笑いが世界を裂いて。天国だと感じるその場所は、真っ暗な黒色に塗りつぶされてしまう。見えなくなる。君が……そして、エリーゼが。どこにもいなくなる。


 叫ぼうとしたが、どうしてか、悲鳴も上げられない。


 ……ああ、ちくしょう!!


 どうしてだ!!


 どうして、忘れていたんだ、アレク・レッドウッド!!


 この笑い声の主に壊されたんじゃないか。そうだ。コイツは、オレのエリーゼに呪いを仕掛け、死に至らしめ、死体を奪い取った!!『ヴァルシャジェンの娘』ッッッ!!!


 裂かれて歪み、壊れて崩れる天国から、オレは無様に転がり落ちながらも、獣の貌を選ぶ。


 腕も足も動かないのであれば、噛みついてでも殺してやる。


 許すべきではない、邪悪を、バチカンの戦士ならば!!いいや、男であり夫であり父親であり、アレク・レッドウッドならば、死んでる場合かああああ―――ッッッ!!!





「―――ぐ、ぐうううっ!!?」


 激烈な痛みだった。衝撃を帯びた痛み。巨大な豚面の獣人に殴られたときの屈辱を思い出したよ。口のなかに、血の味がした。胃液混じりの血は、口とノドを焼きながらわずかに歯のあいだからこぼれていた。


 腕で、口もとをぬぐう。胃酸混じりの血は、いつになくどす黒く見える。


「ふう、ぐう、うう…………クソがぁ……ッ。死に損なったか……ッ」


 生存に感謝するべきか。それとも、生きていることの責務の重さに、文句を言ってやるべきか。考えものだな。考えものだぞ。


「―――慈悲深い者がする行いじゃないぞ、マルコ・ザ・スカーフェイス」


 ホコリのにおいのする灰色の部屋。ベッドと何も入っていない本棚、そして小さな丸机と職人ではない者が拙い技術で作り上げたイスしかない殺風景な場所。


 そこには、包帯で顔面をぐるぐる巻きにして、醜すぎる古傷を隠す老人がいた。


 エリーゼと一緒に、ロンドンの映画館で見たミイラ男を彷彿とさせる姿だ。痩せていて、牧師や神父が好むような黒いスーツを着ていたがな。ミイラ男みたいに巨大でもなく、ファラオのきらびやかな装身具でもなかったが……。


 エリーゼの祖父は口に咥えたタバコを指でつかみ、口から紫煙を吐き出した。痛み止めの薬草が混じっているのだろう。そのにおいにはバチカンの戦士たちのにおいが混ざる。古代から伝わる錬金術の怪しげな薬を常用しながら、魔物を追いかけるのがオレたちだ。


 包帯男の口もとが動いたよ。錬金術のかおりをさせながら。


「……慈悲を与えるつもりで、お前を助けたのではない。いや、そもそも、『助けた』とも言えない状態だ」


「そうだろう。苦しみだぞ。現実を認識している時点でな。オレは、娘を喪い……娘の体を、バケモノに盗まれた」


「……ワシにとっては孫娘だ」


「……ああ」


「喪に服したいところだがね」


 タバコをはさんだ指で、バチカンの戦士の一人が胸の前で十字を切る。我々は本職の僧侶たちに比べれば、ずいぶんと態度が悪いもんだ。


「本来なら三年は落ち込んで、聖なる修行者の伝統に則り、断食でもし続けたいところだが。残念ながら、アレク・レッドウッドよ。ワシとお前には安息日は来ない」


「働くさ……エリーゼの死体を、あのクソ化け物から取り戻すんだからな。ん?なんだ、こいつは……?」


 ベッドから身を起そうとして、気づいたことがある。オレの両手首に手錠がはめられて、そいつには太い鎖が結ばれている。そして、その鎖はベッドに巻き付けられていた。どうやら、オレは囚われの身のようだ。この包帯男の。




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