序章 銀の少女の死 その5
……。
……。
……。
いつしか叫び続けていたノドも壊れて。憔悴しきった全身と、見開いたまま痛みを放つようになった目玉が残る。狂人の歌は口から放たれることもなく。ただただ、抱き寄せて娘の死体と一緒に。
いつの間にか。
外にいた。
雨に打たれながら、オレは娘の死体と同じように冷えている。凍死したかった?……違う。もう、イヤなんだ。君のいない世界から、エリーゼまで消えたんだ。それなのに。オレがゆっくりと死にたいはず……ないじゃないか。
「……えりーぜ……すぐに……いくぞ……っ」
涙も枯れているんだろう。頭を伝って落ちる雨だろう。目玉をくすぐりやがるのは。手を伸ばす。バチカンの戦士のための拳銃だ。そいつに指を絡めて……引き寄せる。
背中を車に預けて。左腕で小さな娘の死体を抱き寄せたまま。君に娘を届けて、地獄に行くために。オレは純銀の弾丸がもう一発入っているリボルバーの銃口をアタマに押し付ける。頭蓋骨を撃ち抜き、脳をぶっ壊す。そうすれば、オレの地上での苦しみは終わるんだ。
「……えりーぜ…………」
愛する娘の名前を、何のためにか呼んだ。理由は……きっと、そうだな。愛してるからに決まってる。悲しみも苦しみも、罪悪感も孤独も。そんなの全て、愛がさせた。
この引き金を指に絞らせるのも―――愛のためだということだけは、自信がある。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬはずだった。
それでもよかった。それさえがオレには救いだった。復讐よりも愛の方が好きだったから。
でも、罪は重い。知るべきじゃない現実を見せつけられて、引き金にかかった指は止まる。あと一秒だけ、やさしくしてくれれば良かったのに。神さまは、きっとオレが嫌いなんだ。
「……ねえねえ。今の気持ちってさあ。どんなのかなあ?バチカンの猟犬さん?」
心臓が止まる。止まっても良かった。いや、良くはないか。
エリーゼがしゃべっていた。10才の少女とは思えない声音と口調で。挑発し、ヒトをバカにするための侮蔑の態度を帯びた言葉を、ニヤリと笑った唇の奥から吐いた。吸血鬼の牙を主張するように見せつけながら。
熟練の吸血鬼の所作。
違和感が強い、吸血鬼化したとしても、ここまでの精神的な変容はないはずだ―――バチカンの書庫に隠して保存されている、人皮で作られた背表紙を持つ邪悪な祭祀の式典。それに記述された、悲劇的な例外を思い出させた。いや、悪夢的か。
「……魂を……オレの、娘に―――エリーゼに、移したのか……っ。始祖の吸血鬼の一匹がッッッ!!!」
「正解だよぉ。パパぁ。エリーゼちゃんはねえ、『私』に奪われちゃったんだ。この銀色の髪も、小さな体も、命も、死さえも!」
邪悪が、打ちひしがれた面になっているだろうオレを見て。爆笑しやがった。最愛の娘の顔を使って。
「キャハハハハハハハハハハハハアア!!最高じゃないのっ!!その顔、スゴクいいわよ、パパああああっ!!バチカンの戦士の娘の躯に、ヴァルシャジェンの娘の魂が憑りつくなんて、アンタにとっては、サイアクの痛みよねえええッッッ!!!」
―――『ヴァルシャジェン』。
バチカンの戦士ならば、その禁じられた名前を誰もが知っている。確認できているだけでも、人類を七回は絶滅の危機に陥れたという悪魔だ。いや、キリスト教よりも古い神々の一体と考えることもあるが。
どうあれ、邪悪な存在であることには変わらない。
ヴァルシャジェンは無数の眷属を従えている。どれもが、バチカンの戦士たちを圧倒しかねない強力な魔物どもだ。ヴァルシャジェンを『魔王』と呼ぶヤツもいる。分かりやすいかもな。
ヴァルシャジェンはキリスト教とその信者を恨んでいる。西方東方どちらも恨み、信者を根絶やしにしようとしているようだ。行動原理の動機までは知らない。ヴァルシャジェンは封じられたはずだった。1880年に。
それでも。
その娘の吸血鬼は生き延びていて。オレと君のあいだに生まれたエリーゼに、呪詛を吐き。死して吸血鬼へと至る呪いをかけたか。小さな獣にでも化けて、オレの警戒が届かないタイミングで噛みつき、エリーゼの躯に、その穢れた魂を宿す呪いをかけたと。
怒りと共に。
戦士の腕が聖別された拳銃をエリーゼ―――いいや、ヴァルシャジェンの娘に向ける。頭部に銃口を押しつける。額だ。ぶち抜けば。いくらなんでも……ッッッ!!?
微笑む。
微笑んだ顔を見た。エリーゼの左の瞳だけは。青いまま。君と同じ色だった。
「エリーゼ―――」
「―――残念!!隙ありすぎなのよね、バチカンの駄犬があッッッ!!!」
子供の腕だが、邪悪な力に満ちたそれは鉄槌よりも強い。骨が砕かれた。拳銃を握った右手首の骨が壊れる。
「ぐうっ!!」
暴力は続いた。小さな体が、オレを押し倒し。歪んだ唇から吸血鬼の牙を見せつけながら。何度も何度も拳を振るってきた。顔面の骨に亀裂を入れられ、鼻が折れて、一瞬の脳震盪の直後……伸ばして並べた四つの指が、まるで杭のような硬さで、オレの胸を突き刺した。
「ぐ……ふううっ」
胸骨を穿ち、心臓まで届いた。少なくとも、衝撃は届き。オレに致命的な破壊と、体を動かすことも不可能な重たげな苦痛を押し付けて来るっ!!
「ああん!!いい声ねえ!!サドだから!!感じちゃうわよ、バチカンの駄犬!!もっと鳴きなさい!!私を楽しませるのよ!!きゃははははは!!きゃははははははああ!!」
骨が貫かれ、筋線維を爪が裂き、骨と骨の継ぎ目を打たれ……体が壊されていく。拷問官の考えそうな暴力を、ヴァルシャジェンの娘は実行する。満ちた月のごとく金色の輝きを放つ双眸を、恍惚に濡らしながら。
「はあ!!はあ!!最高よねえ!!小娘の体じゃなきゃ!!アンタのこと、犯して!!娘と父親でケダモノみたいに交尾して!!罪悪感で心までズタズタにしちゃったのにねえ!!残念ね、パパ!!小さな体の味は、教えてあげないわ!!」
「……くたばれ―――」
「可愛くないのね。まあ、いいわ。バチカンの駄犬。私の生贄になりなさいな。お父様を産み落とすための、栄養にねえ!!」
唇が開く。オレを……よりにもよって。ヴァルシャジェンの生贄に?いや、そんなことよりも……おい、ふざけるな。エリーゼの体を使って、ヴァルシャジェンを産み落とす!?
あってはならないことだ。
オレのエリーゼを。
オレと君の娘を使って、邪悪が―――魔王を作るだと!?
否定し拒絶し、抗うために全力を体に込めて……呼んだ。
「マルコ!!!オレごと、こいつを、殺せえええええええ!!」
「残念!!あの老いた戦士は、私の眷属が呪ってるのよねえ!!意識が戻っていても、動けないのよねえええ!!」
「くそがああああ!!が、あぐう!!」
首を固定されて……エリーゼが、いや、邪悪がオレに近づく。無邪気な顔で笑い。吸血鬼の牙を剥いて。オレの首目掛けて近寄る。生贄にするために。魔王なんぞの、世界の敵なんぞの、エサにするために。
「いただきまーす……っ」
首筋に痛みが奔り。その激しい吸血が始まった。血が抜ける―――意識が、混濁し。薄くなる。感情までも、死の空虚が塗りつぶしてく……。
動いている。
裂けた首から弾けた血潮を、淫乱な娼婦みたいな面で笑いながら貪りつつ。嬉しそうに動いて壊して、あふれた血を、口の周りを真っ赤にしながら呑み込んでいきやがる……見るなよ。吸血鬼の金色に輝く瞳で……オレの娘の顔で、嬉しそうに……見るんじゃない。
ああ、クソ。
サイアクだ。
……声も出せん。
……呪いたいのにな。
……アンタにも文句が言いたい。
……ああ。
神さまよ。
オレを大嫌いでもいい。
愛してくれなど言わない。
それでも……それでも……。
……えりーぜだけは、どうにか、すくってく―――――――――。
「……ぷはあ!!……うふふ!!サイコーっ!!パパの血!!最高!!孕んじゃいそうなほどに!!美味しいわよ、アンタのクソみたいな赤いドロドロ汁!!……って。あれー。もう死んじゃってるし!!ウケるわ!!きゃはははははははははッッッ!!!」
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