序章 銀の少女の死 その4
言い争いながら。刃を押し合いながら。
……いつもこんなことをしていた気がするな。ガキの頃から。アンタとは……。
『雹の女神の舞い』に捧げた左腕を使う。ハンマーのように振り落とす。精度はない。精度など要らない。ただ、一撃のもとに。君の父親の頭を、オレの師匠の包帯だらけの顔を。ぶん殴れたら、それで十分なんだ。
殴った。
骨が軋む音が、雨音に混じる。
どんな罪悪感か、わかるか?……なあ、マルコ。指の骨が痛むだけじゃない。それ以上の何かが壊れる。ボロボロになるんだ……ボロボロに崩れちまったよ。痛みと共に。
いいさ。
それでもいいんだ。娘を、エリーゼを取り戻す。
それしか、最初から望んじゃいない。
力が抜けて、ククリナイフを握ったままの腕が倒れた。意識のない老人の体は、糸の切れた操り人形のように脱力する。見たい光景じゃない。君の父親に、オレはよく酷いことをしてしまうな。
まぶたを閉じた。一瞬だけ。それ以上、マルコから目を離すなんてことは恐怖でやれない。目と見開いた。ほほを伝うものが流れたが、きっと空から降って来たものに由来する。警戒しながらも立ち上がるんだよ。雨に濡れて、疲労がたまった体は重たい。鎖で縛られて、ガンジス川にでも投げ込まれたようだ。
それでも。
歩いた。
小さな声が聞こえたから。
「……パパ…………」
「……今、行くぞ。エリーゼ」
歩く。か細い声を求めて。マルコが誘拐した、うちの娘。最愛のエリーゼ。
助手席ではなくて、後部座席にいた。毛布で包まれていた。大切に扱われていたのだろう。オレが全力でぶん殴った誘拐犯は、この孫娘のことを愛しているのだから。邪悪な行いをしてでも……狂った正義なりに、助けようとした。
迷う。
いや、違うさ。迷わない。
君でもその選択をしただろう。古代の邪悪な呪術や、疫病よりも邪悪に人類を襲う闇に属する者たちを、嫌悪し戦って来たバチカンの戦士ならば―――いいや、一人の母親として。君だって、望むことはないはずだ。
死より悪い結末へと向かう、エリーゼ。その小さな唇が酸素を求めるように開いて、呪われた犬歯を見せる。ドクター・ハウゼンも驚愕した、正統派の医学には記述されもしない、封印されるべき症状がそこにある。
オオカミのそれのように。
巨大化した永久歯。10才のエリーゼの口には、吸血鬼化の兆候が激しく現れていた。
「……守ってやれずに、ごめんよ」
「……はあ、はあ…………ままあ……っ」
君のことを呼んでいる。君のことを、求めている。見えているのかもしれない。ヒトとしてもうすぐ命を落とすエリーゼを、君ならば迎えに来るはずだ。魔物と戦うバチカンの戦士であるオレにも、見ることはできないけれど。
正直。
神さまも信じちゃいないんだ。神さまはオレにいつも意地悪だから。でも、君ならば信じられる。この子の傍にいるだろう。手を握る。熱で消耗し続けた、細くて白い手首。本来の半分近くまで細くなっているんじゃないだろうか。
……こんなじゃなかった。
こんなはずじゃなかった。
……どうあれ。してやれることは、もう一つだけだ。
病院から無理に連れ出したせいだろう。脈拍に乱れがある。もしかしたら、マルコは事前に秘薬を使っているのかもしれない。脈が、飛び飛びになる。儀式をするつもりだった。死を遠ざける、間違った方法……。
生けるしかばねにして―――吸血鬼化を止める。動く死体として、術者の心のままに動く孫娘を、己の心を慰めるためにそばに起きたかったか。空しいだけだろう。どんどん朽ちていき、壊れていく。苦しみはないのかもしれない。ただの死体を動かす呪いに過ぎない。
吸血鬼になって暴れる日は遠ざかる。
そうかもしれない。
それでも。
そんなものを、オレは生きていることだとは認めない。
「……ッ!!?……エリーゼ……っ」
脈が、飛ぶ―――呼吸が消える。涙が、あふれた。エリーゼも。オレも。
知っている。
殺すことが仕事だ。ヒトじゃなくて、ヒトを襲う邪悪を。そいつらもヒトと同じような形をしていることがある。何百人も見て来た。ヒトとして死に、不死者として邪悪な存在となり人肉を喰らうことを目的として動き始める、動く死体……。
吸血鬼に。
エリーゼはなろうとしていた。
「……あ……あ……」
呼吸もしないのに声を出そうとする。いや、声ではなく、鳴き声だ。眷属に成り果てた死体は、言葉を使うこともない。肺も心臓も、ほとんど機能しちゃいないんだから。青かったはずの瞳を開く。
そこにある金色は、オレのエリーゼのものじゃない。
ただの邪悪な輝きだ。
エリーゼは、死んだ。ここにいるのは、エリーゼを利用して動き出した悪意に過ぎない。
拳銃を抜いた。
古い霊鉄で作られたリボルバー。そいつに、込めるんだ。聖別されて清められた、この純銀の銃弾を。不死をも殺すためにある、バチカンの戦士たちの商売道具。エリーゼを呪ったモノに使いたいと考えていたが。
いいんだ。
「……エリーゼ。パパと、一緒に死のう。お前を殺して、オレも死ぬ。少しは、さみしくないはずだ。オレは、お前をママのところに連れて行き、ママに謝ってから地獄に落ちる。天国で……ママと暮らすんだ。世界が……終わってしまったあとでも」
神さまは信じてはいない。信じてはいないが。祈りは知っている。
「ああああ……ああああ、ああああ……」
「……哀れな迷い子の魂を―――導きたまえ、主よ」
拳銃を膨らむことも知らなかったままの胸に押し当てて―――引き金を絞った。
音が鳴ったはずだが。
無音だけを感じた。
涙に融けそうになる視界の果てに、ただうちの娘を見ていた。大きく揺れた。衝撃でだ。
心臓を、銀色が撃ち抜いて、大司教がくれた車のソファーも、大地も、貫いた。幼い体は飛び跳ねながら壊されていく。火薬の爆裂で加速を帯びた銃弾のサイズと重さと、神の慈悲を一心不乱に求めて刻み付けられた聖なる祈りが、邪悪と堕ちた肉を清めながら破壊した。
「がごふ――――――」
金色の瞳になったうちの娘は、血を吐いた。胸からはどす黒い血がほとばしり。罪人であるオレの顔を染めた。
「はあ、はあ、はあ……っ。はあ、ああ、あああ……っ」
凍死寸前の男みたいに体を激しく揺さぶって。溺れている男のように荒げた呼吸を口が連続した。壊れて行くのが分かる。罪の重さに、オレは潰れている。エリーゼを救うためだ。知っている。死んでバケモノになったエリーゼを救うために。
エリーゼに。
銀色の銃弾をぶち込んでしまったッッッ!!!
「うああ、ああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!??」
叫んで、震えて、拳銃を棄てて。罪から逃れるために叫び。エリーゼを求めて、斬られた左腕と、罪深い引き金を絞ってしまった指がある右腕を使って……抱き寄せた。
小さくて軽くなった……オレの娘の死体を。抱きしめて、壊れて狂ったオレは叫び続ける―――言葉は崩れて消え去って、ただただ絶望だけを震わせて。
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