第11話 かび臭い牢獄を抜けて1

 水滴が、石畳を叩く音が響いている。

 カビ臭く、淀んだ空気が満たされていた。

 気味が悪い。あまりの不愉快さで、エルの意識が戻る。

 ここは……

 全身と、頬に振れる違和感にたまらず眉をひそめる。じっとりと湿った、簡素で不快極まりないベッドの上に横になっていることが分かった。

 エルは起き上がらなかった。息を殺し、そのままの姿勢のまま、あたりを見渡した。日の差さない、石で囲まれた不衛生な部屋だった。奥に鉄格子が見える。どうやら牢屋に入れられているようだった。鉄格子の向こうに、警備らしき人影が見えた。退屈そうに鼻歌を歌っていた。

 どこかで、扉が重々しく開く音が聞こえた。光が差したと思ったら、扉が閉まる音とともに再び暗くなる。靴音が響く。音が輪郭をはっきりとさせながら近づいてきて、警備の人物のそばまでやってきて止まった。

「大尉、お疲れ様です」

 警備の男の言葉のようだ。

「やつの様子はどうだ」

 大尉と呼ばれた男が答えた。聞き覚えのある声だった。ハンマーの男だ。

「は。いまだ意識が戻った様子はありません」

「そうか」

 エルは一層吐息を抑えた。エルの様子に気付かない二人は、会話を続ける。

「大尉、あの旅人は一体何者なのでしょうか」

「ううむ……荷物を調べてみたが、どこの国のものでもなさそうだ」

「では、本当にただの旅人なのでしょうか」

「わからん。まだ何か隠しているかもしれない。どうあれ、目標とともに行動していたのだから、目標の正体を知っていると考えたほうが良いだろう。私は作業に戻る、やつが目を覚ましたら、呼びに来てくれ。上の第一書物庫にいる」

「了解しました」

 再び扉が開く音が聞こえ、男は出ていった。あたりに静寂が満たされる。エルはゆっくりと息を整えた。

 話の通り、今の僕は丸腰だ。そして、持ち物はおそらく第一書物庫というところにあるらしい。ならばまず目指すのはそこだ。それはいい。“目標の正体”とは一体何だ? 目標というのは、リリーのことだろう。あの幼い少女に、一体何の秘密があるんだ。

 気を失う直前の出来事が脳裏をよぎる。見たこともない光だった。自然のものではない。あれは、ある種の走馬灯のようなものなのか、はたまた現実のものなのか。一方で、多くの男たちの絶叫が、夢見心地に耳の中に張り付いていた。嫌な気分だった。

 扉が開く音が聞こえた。今度は若い男の声だった。

「交代だぁ。そいつの様子はどうだい?」

「おう。相変わらず静かなもんさ」

 警備の男が、先ほどとは打って変わって気さくに答えた。

「そいつは都合がいい。一服しよう。なあに、ちょっと席を外しても問題ないだろ」

「……そうだな。あーあ、准将のわがままに付き合うのは疲れたよ。仲間の様子はどうだ?」

「ひどいもんだ。大尉は手りゅう弾の暴発によるものだって言っていたが、とてもそんな傷には思えないね。居合わせた連中のほとんどは“腕から先がきれいさっぱり”だ」

「やっぱりあの娘が原因か?」

 男たちが声の調子を変えた。エルが耳を澄ました。

「わからん。大尉は何も教えてくれない」

「そうか……。それでも、手土産は無事確保した。もうすぐ祖国に帰れる。そうすれば、晴れて英雄として年金暮らしだ」

「違いねえな。訳の分からない任務だったが、もう少しの辛抱だ」

「そうさ。准将のわがままがいい思い出になる日も来るかもしれないな」

「流石にそれはないだろ」

 二人は笑い合いながら出ていった。

 扉が閉まり、あたりが静かになったのを確認して、エルは起き上がった。

 状況を整理しよう。奴らの目的はリリーの身で、リリーは捕まっている。僕も捕らえられた。装備は別室にある。

 装備を取り戻して、リリーを助け出す。このままでは、僕にリリーを託したあの女中に示しがつかない。そして、助け出したら、どこに逃げる? この街の中ではないことは確かだ。街の外まで逃げる。

「備えあれば、ってやつか」

 エルは、ブーツを脱ぐと内側から二本の金属ピンを取り出した。ベッドから静かに立ちあがる。頭が痛んだ。大尉にしてやられた怪我のせいだったが、全然我慢できそうだ。鉄格子までやっくると、そこにかけられた南京錠にピンをねじ込み、あれこれといじり始めた。仰々しい大きさの錠だが、それ故に作りが簡素で助かる。手こずることもなく、南京錠はかちゃりと音を立てて外れた。

 その時、扉の方から話し声が聞こえてきた。

「それじゃあ、あとは頼むぜ。何かあったら大尉に知らせてくれ」

「まあ任せてくれ。滅多なことなんて無いだろうけどな」

 笑い声を残して、扉が閉まった。男が一人で降りてくる。鼻歌交じりにエルが入っていた牢屋の前までやってきて、そこがもぬけの殻であることを確認すると、

「…………へ?」

 はじめは訳がわからないといった雰囲気でぽかんとしていた。

「だ、脱走だ!」

 状況をやっとの事で理解したとき、別の牢屋に身を潜めていたエルが助走とともに男に蹴りを叩き込んだ。

 鈍い悲鳴を上げて男が転げ崩れた。立ち上がろうとしたところを、その腕を掴み、捻り上げ、組み倒した。

「騒がないでください」

 エルが男に馬乗りになって、静かに言った。男は焦りと痛みで脂汗を浮かべながら、背中に乗っているエルを睨みつけた。

「き、貴様っ……! どうやって牢を……!」

「僕の質問に答えるのが先です。あの女の子はどこですか」

「へっ、賊風情に教えるはずが――」

 そこまで言いかけたところで、エルは男の眼の前で、こぶし大の石を地面に叩きつけた。

「この部屋、随分古めかしいところですね。おかげで、人を殴る石に事欠きません」

 淡々と言う。

「教えていただけないのなら、それで構いません。さっさと“処理”をして、次の誰かに聞くだけです。別にあなたでなくても構わないですし」

 その口調が、逆に恐怖心を煽る。硬い地面にできた凹みを見て、男の顔が青くなる。

「ま、待て、わかった! 娘は地下の実験室にいる、准将と一緒だ!」

「なぜあの子を狙うのですか」

「理由はわからない……! ――本当なんだ! 俺たちは、どこかの王族の末裔だとか、大富豪の一人娘だとかいろいろ噂してるが、真実を知っているのは准将と大尉ぐらいだ! 俺たちのほとんどは、め、命令されて、それに従っているだけなんだ。でなければ、ほかのやつらみたいな、あんな目に合うなんて……」

「そこまで教えていただけれが十分です」

 エルは、問答無用で男の頭を殴った。男は小さな悲鳴を上げて渾沌した。捻り上げていた腕から力が抜けたのを確認して、エルはゆっくりと立ち上がる。殴った男の頭を見た。

「こりゃあ……しばらく腫れそうだなあ」

 ちょっとの罪悪感を飲み込んだ。

 それから男の服をまさぐった。適当な装備を奪ってしまおう。銃は……苦手だからやめておこう。刃渡りの長い刃物も苦手だから、サーベルはだめだ。手頃なナイフが望ましいなぁ。腰のあたりに……よし、あった。

 ナイフを鞘ごと取り外して、そこに添えられた紋章を見るやいなや、エルは目を疑った。

 青い牙をたずさえた、赤い目をした虎。

「この紋章、アルガス帝国軍の……っ!」

 ――アルガス帝国。西の外れにある大国で、エリスティン共和国とルーカシア連合王国府に肩を並べる、歴史と伝統に守られた由緒ある国だ。軍事国家として名高く、争いの血の気が濃いゆえに権力争いも激しいと聞く。

 男の会話を思い出す。准将に、大尉とも言っていた。祖国という言い方も軍人らしいものだった。まさか、こんな南東の外れにある辺境の地に、アルガス帝国軍が来ているなんて。

 なおさらリリーのことが心配だ。一刻も早く見つけ出して、ここを離れなければ。

「ナイフ借りますよ。返す気はありませんけどね」

 エルはナイフを腰に仕舞うと、牢屋を離れた。

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