幸運
アデールに引き取られてしばらくが経った。俺……じゃない、あたし、ヴェロニクはアデールが仕事をしている間、早朝は内務省の庶務室の隅にある休憩スペースでその部屋の次官であるルー・ガルニエにチェスを教わっている。それが終えたら図書館で勉強をしたり下働きの連中に掃除や料理なんかの生活に必要なことを教わる。そのまま一緒に昼ごはんを食べたらアデールの私室か中庭で昼寝をして、そのまま中庭で過ごすこともあればアデールのところに行ってまた勉強したりちょっとした手伝いをすることもある。
そして今日は天気が良かったから昼ごはんを食べてから中庭で昼寝をして、先ほど目が覚めたところだ。陽は温かいけれど風が少し冷たい。でもアデールが少し温かい上着を持たせてくれたのでそれを着ていれば大丈夫だ。
アデールは最初は冷めた雰囲気の女だと思った。それがいきなりルーに向かって「ムカつく!」と怒鳴り、あたしを飯に連れて行ってくれた。それで多分油断したんだと思う。あ、冷めてるわけじゃないんだなって。温かいものが内側にあるんだなって思ったのだ。その後も手を洗えだ髪をとけだ、うるさくて仕方ない。けどそれは怒っているわけではなく、あたしが人間の中で暮らすにはあまりにだらしないから指摘しているだけだ。アデールはちゃんとあたしを受け入れて育ててくれてるんだとわかっていたから、多少ぶつくさ言っちゃったりはするけど言われた通りにしている。そうしたら周りの人たちも親切になって、いろいろ教えてくれたり優しくしてくれるようになった。母さんって多分あんな感じなのかな。
ルーのことも最初は淡々とした感じ悪いおっさんだと思ってたけど、そうじゃなかった。仕事中は静かなだけだった。チェスを教えてくれているときは話し方は静かだけど、すっごい熱がこもっているのが分かる。たまにいるレオ・ニコラは逆だ。騒がしいしにぎやかだけど芯は静かだ。絶対にぶれないし揺らいだりしない塊が内側にあって、それに従って動いている。そういうタイプだと、何度か見かけるうちに気付いた。喧嘩したくない相手だな、とも。
オウジサマはなあ……。まあ嫌いなんだけど。と、思っているとふと何かが気になった。寝転がったままだったのを起き上がって気になった方をよく見てみる。
「これ、四葉じゃん」
どうしようか少し考えて摘むことにした。アデールを迎えに行くときに見せてみよう。エメかリゼットが栞にしてくれるかもしれない。
「そんなもので彼女が喜ぶとでも思っているのか小僧」
いけ好かない声が上から降ってきた。一度しか聞いたことはないけど顔を上げなくても分かるムカつく言い草。
「その小僧にわざわざ絡むなんて暇なんだなオウジサマ」
顔を上げると不機嫌そのものの顔をしたエロワ王子がこちらを見下している。みおろす、ではなくみくだすという表現がぴったりの顔だ。
「その呼び方止めろ」
「こっちのセリフだ。ママ(仮)をポッと出の小僧に取られて悔しいからって、八つ当たりはみっともないぞ。オウジサマ笑」
ちょっと煽るとオウジサマは顔を真っ赤にした。乳離れしろよと言おうか悩んで止めておく。
「クソガキが。アデール嬢に気に入られているからって調子に乗りやがって」
「別にアデール関係なく前からこんなもんだ。お前が勝手に気にしてるだけだろ」
「なんだと!?」
「あー、はいはい。……これやるから落ち着けよ」
ふと思いついて手にしていた四葉を差し出す。エロワ王子は一瞥しただけで何を言うでもなく、鼻息を荒らげて立ち去って行った。一体何だったんだ。
何て言うか、オウジサマの葛藤? 苛立ち? そういう不快さみたいなものをあたしに感じる気持ちがまったくわからないわけではない。寂しいのかなと思わなくもない。そう客観的に思えるようになったのも自分にきちんとした居場所があることと、ルーがたまにそういう話を漏らすからだ。それに感情に巻き込まれるなってルーもアデールもいつも言うし。
オウジサマが立ち去った方を見ると遠くに見覚えのある後ろ姿が、あたしと同じ方を見ていた。
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