第21話 保健室②

 こんなにも貧乏ゆすりが激しいのはいつぶりだろうか。

 午前中の授業などすべて放棄してやりたいと、不良の面持ちを構えながら、悟はノートを綺麗に書いていた。


 これは誰でもない、詩のためであった。


 結局のところ、彼女はあの後、一度として教室へと戻ることはなかった。

 2限目が終わった休憩時間に、詩の荷物を持って保健室へと行くと、彼女は憔悴しきった様子でベッドの縁に座っていた。


 その眼は赤く、目元の薄い皮膚を強く擦ったかのような跡が残っており、思わず悟の眼がしらに熱いものがこみ上げる感覚がした。

 彼女に荷物を渡すと、「ありがとう」とか細く呟いた。


 それは風前の灯のような、吹けば消えてしまうほどの気力だけでお礼を言っている。

 悟はなんとか詩を元気づけようと、自分をとにかく隠すことに徹した。


「親は……来るのか?」

「ううん……仕事行っちゃってるから」

「タクシー使う?」

「ううん……今持ち合わせないから歩いて帰る……」


 2歩3歩と歩きだし、悟はそれを見守った。

 詩は言葉とは裏腹にふらふらとした足取りで歩くその姿は、彼をひやひやとさせる。

 扉に着く直前、何もないところで彼女が躓いた。


「ったく……言わんこっちゃないじゃん」

 悟は詩が倒れる寸前、彼女の肩を優しく抱いた。


 その華奢な肩は震えていた。

 その震えを抑えるように、悟は詩を抱き寄せる。


「こういう時ぐらい……甘えなよ」

 悟は無意識だった。好意が思わず心を反射させた。


「うん……うん……」

 詩はプルプルと体を震わせ、喉を詰まらせながら涙を零した。

 器の中になみなみと注がれた悲しみが、たった一滴の優しい言葉の重みによって、波紋が水面に広がり、波を打って溢れ出した。


 悟は詩を胸に抱き寄せたまま、優しく頭を撫でた。

 彼の体温に触れたせいなのか、彼女の震えは少しづつ消えていく。


「ありがとう……」

 詩の瞳には涙がまだ少しだけ、目の内側に溜まっている。それは、彼女の青い瞳を透き通るような硝子のようにきらりと反射させた。


「こほん」

 保健室の担当医はわざとらしく咳払いをした。


 青春の一時は初々しく輝かしいものであるが、それはあまりにも場違いで、見ていて恥ずかしいものがあった。

 その咳払いによって、自分の世界から引っ張り出され、思わず顔が紅潮していく。


 少女漫画のような格好つけた自分に、今まで感じたことのない恥ずかしさのようなものが背せり上がり、たちまちその場で硬直してしまった。


「まぁ、とりあえずタクシーは呼んであげるけど、本当に有栖川さん大丈夫?ご両親が家にいないって言ってたけど」

「大丈夫です…‥なんとか」


 その顔色はどこからどう見ても"大丈夫"だと言えるようなものではなかった。


「ちょっと待ってて」

 そんな詩の様子にさすがに放っておけないと、悟は電話をかけ始めた。

 詩は椅子に座り、彼が話し終わるのを静かに待った。


 数分後、彼は一息ついてスマホをポケットにしまう。

 その顔はほっとしたかのような表情を浮かべていて、鼻の詰まった緊張を息で抜いていた。


「うちになら、今母親と梓がいるよ。来ても大丈夫だってさ。どうする?」

 その言葉に、詩は小さく拳を握った。そして、勇気を振り絞るようにして頷いた。


「よし、じゃあタクシー乗る理由ができたな!」

 そういって、悟は詩の頭を優しく撫でた。その様子に、彼女は俯きながら、こくこくと頷きただただ黙っていた。


 数分後、タクシーの到着の知らせが入ると、保健室の担当医に連れられ、詩は学校の外へと消えていった。

 ちょうど3限目の授業が始まるャイムが鳴り、悟は急いで教室へと戻る。


 扉を開けると、相変わらずにたにたと気持ちの悪い笑顔を浮かべたクラスメイトが彼を見つめた。

 だが、彼はそれを飄々と受け流し、そして何事もなく着席した。

 すると、北条とその取り巻きたちが近づき、思い切り机をぶっ叩いた。


「ねぇ、ずっとお見舞いでもしてたの?え?もしかしてシちゃってたわけ?本当ウケルわ」

 北条の人を中傷する嘲笑う声が教室中に響き、取り巻きたちはそれに釣られて「ウケル」と馬鹿の一つ覚えのように笑う。


 だが、悟はそんなことに動じはしなかった。

 不思議なほどに、彼の心は穏やかで、それは凪のような落ち着きようであった。


「それでなんだ?お前らが言いたいことはそれだけか?それなら早くここからどいてくれ。邪魔だ」

 目を合わせることなく、淡々と言葉を話す。

 その言葉に北条は苛立ちを覚えたのか、悟の机に置かれたノートや教科書を思い切り床へとぶちまけた。


「なんなんだよ!なんでお前は怒んねぇんだよ!こんなことされて悔しくねぇのかよ!」

 その怒気に思わず、取り巻きの顔がひきつった。


「か、香奈……。やめなよ。ね?いったん落ち着こうよ」

「やめない!私はあいつが嫌いなの!」


 悟は俯いたまま、北条の言葉には反応せず、その場から立ち上がり、床にばらまかれたノートと教科書を拾い集めた。


「なぁ、北条」

「なによ」

「お前は、俺が嫌いなのか?それとも有栖川が嫌いなのか?」

「それは……」

「まぁいいさ。俺を嫌いなのは別に構わない。有栖川を嫌いだってそれは仕方のないことだ。彼女にだってずっと人見知りで避け続けてきたって問題がある。だが、それとこれは別問題だ。どう考えてもやりすぎた。次、有栖川に手ぇ出したらただじゃおかないからな」


 悟からは自分でも驚くほどに、透き通るような純粋な敵意が流れだしていた。

 下心、金銭、承認、侮辱、そういった不純物など一切混じらない、ただ愛がゆえの敵意。


 その敵意を向けられた香奈の足は思わず一歩後ずさる。意識などしていない、彼女の中の本能がそうさせたのだ。

 直後、担任が扉をガラリと開ける。

 皆はこちらへ向けていた視線をすぐさま黒板へと向ける。


 香奈もそれに舌打ちをし、悟を睨めつけながら前のほうにある自分の席へと戻っていった。

 悟は格好つけたわいいものの、内なる心臓はばくばくと音を立てて鼓動していた。


 彼の中の感情のほとぼりが冷めていくと、それと同時にもう一人の恋する自分が犯した行動の恥ずかしさに、内心身に悶えていた。

 だが、それに「後悔」というものは何一つとして浮かんでは来なかった。

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