第18話 紫陽花が揺れる月曜日の束の間

 週明けの月曜日はあいにくの雨であった。


 梅雨の時期であるから当然の天気なのだが、いやに蒸し暑く、セットした髪の毛がうねるためか、悟にとっては1年の中で最も天敵ともいえる季節であった。

 いつもの悟であれば、アラームで目が覚めてもごろごろと布団の中でスマホをいじっているせいで、結局時間がギリギリとなるところだが、遠野家には居候である梓のおかげで、悟は叩き起こされるようになっていた。


 時刻は朝の7時30分である。朝のHRの時間は8時45分からとなるので、それを考えるとだいぶ早い到着であった。

 教室はすでに蛍光灯がついており、こんな朝早くに誰かいるのかと彼は不思議に思い、ガラッとその扉を開ける。


 煌々と白い明かりのついた教室には、詩だけがポツリと着席していた。

 扉が開いた音にびくりと驚いたのか、詩が彼のほうを向く。

 悟の姿を見た彼女は驚いた顔をし、同時に引きつった作り笑顔を浮かべた。


「おはよう、有栖川さん」

「お、おはよう」


 相変わらず詩は悟と目を逸らしている。

 声もどこか元気がなく、緊張していることが鈍感な悟でも手に取ってわかるほどであった。


「梓のこと……両親から聞いてる?」

「―――え?」

 先ほどまでの緊張でこわばった顔が、その言葉で素の彼女に戻る。


「今ね、梓がうちに居候ってかたちでいるんだ。いつまでいるかわからないけど」

「ねぇ、それって本当!?本当なの!?」

「あ、あぁ、本当だよ。今朝も叩き起こされたし……」

「よかった……」


 ぽりぽりと頬を掻く悟とは対照的に、詩は涙目となっていた。

 その様子に、彼は思わず慌てふためいた。こんなところ、誰かに見られたら非常にまずい。


 落ち着いて落ち着いてと、悟は詩を必死に慰める。

 すると、ガラリと扉を開く音がして、数人の女生徒が教室へと入ってきた。


 その中には恵の友達である北条 香奈も交じっており、ほんの数秒、彼女と視線が合った。

 椅子を向かい合わせた状態のままであり、誤解されていないかと冷や汗をかいたが、彼女はそれを見て見ぬふりをするようになにも触れず、自分の机に着席した。

 その様子に悟はホッと胸を撫でおろした。


「今日さ、お昼一緒に食べない?」

「うん。食べたい」


 詩はハンカチで目元に溜まった涙を拭きとる。彼女の言葉に素が見えたことに彼の中に思わず嬉しさが溢れ出した。


 今まで敬語だった口調が、ついにタメ口へと崩れたのだ。

 些細なことであったし、詩も無意識だったかもしれないが、その接し方の変わりように悟の心は温かくなった。


 それからぞろぞろと時間が経つにつれ、教室には生徒が登校し始め、HRの10分前にはほぼ全員が教室に集まった。

 雨が窓ガラスに張り付いては、蛇行した線を描きながら、その雫をゆっくりと下ろしていく。

 その景色をじっと見つめる詩はどんよりとした空模様のように浮かない表情を浮かべていた。


 来週から中間テストが始まるせいか、この週の授業はほとんど今までのおさらいであり、悟にとっては退屈そのものであった。

 月曜日の午前中の授業がようやく終わり、お昼の鐘がなり、教室はさきほどまでの重苦しさが嘘だったかのように騒がしくなっていく。


 悟はこの騒がしさから逃げるように、重くなった腰をゆっくりと持ち上げた。

 それを見計らったように詩も立ち上がり、言葉を交わすことなく無言のまま食堂へと向かった。


 沈黙にもいろいろと種類がある。

 嫌な人との沈黙、好きな人との沈黙、友達同士の沈黙、初対面同士の沈黙。


 詩との沈黙はそのどれでもない、お互い言葉を探しては破り捨てて、必要のない最適解を模索し続けて居る沈黙であった。

 無言のまま食堂へ行くが、雨ということもあり、いつもに比べっ食堂で食べる生徒の数は多い。


 辺りをきょろきょろと見渡していると、「おーい、こっちこっち」と悟に向かって手を振る恵と慎之介の姿があった。


「ありがとう、わざわざ席とってもらっちゃって」

「貸し一ね。あとでなにか奢って」


 恵と慎之介は横の椅子に置いた荷物をどかし、慎之介はそこから移動して、恵の隣に座る。

「ありがとう」と悟はお礼を言うと、詩と隣同士で席に着いた。

 詩は突然の見知らぬ人との対面に緊張している面持ちであった。


「悪いね、有栖川さん。席取れないと思って2人に取ってもらってたんだ。恵みと慎之介なんだけど、僕の幼馴染なんだ」

「宜しく、有栖川さん。俺は神木 慎之介っていうんだ。アリス様と友達になれて光栄だよ」

「私は星野 恵。悟と同じところでバイトしてるんだ。もしバイトしたかったら大歓迎だよ。宜しくね、有栖川さん」


 2人は自己紹介を終える。

 相変わらずフレンドリーな奴らで助かったと、悟は胸を撫でおろした。


「宜しく……お願いします」

 詩は顔を逸らしながら、ぼそりと小さく呟いた。

 人見知りであることは十分に理解していたが、悟と話しているときのテンションと全く違うことに少し彼は驚いた。その分、悟には心を開いていることへの証明となり、彼はその嬉しさを無言で噛みしめる。


「そういえば有栖川さん、部活入ってるの?」

 恵が詩に聞く。


「いえ……入ってないです。特にしたいこともないですし、一人だとすごく不安で」

「本当?じゃあさ、うちのホールでバイトしない?有栖川さんなら絶対できると思うんだよね」

「おい、恵。目が金になってるぞ」

 慎之介はあきれながらため息をつく。


「絶対うちの制服似合うし、有栖川さん目当てで来るお客さん絶対増えるよ」

「いや……でも……。お金はとくに大丈夫ですし、親が……」

「親?」

「はい……バイトを許してくれるかどうか……」

「そんなもん、悟が土下座してくれるから大丈夫だよ!ま、一回うちの喫茶店来て見てって」

「そうだね、有栖川さん。今度一緒に行こうか」

「うん」

「そういえばさ、悟」

「ん?」

「有栖川さんの妹とは話しできたの?」


 恵の言葉に、詩のサンドイッチの食べる手が止まる。

 空気が凍り付いたことに、悟は冷や汗をかき、再びあたふたと慌てふためく。


 本来であれば、2人きりで話さなければいけない話題を空気を読まずにぶっ放す恵にほとほと悟は呆れたが、話してしまった自分の非があるわけだし、そもそも怪我をしてバイトに支障が出ているために話さざる得なかったことを自分はわかっていても詩はわかっていない。


 それをすべて把握したうえで話をしているのかどうなのか、悪魔のような話の切り込み方に、悟はこの時、恵の怖さを知った。


「あ、あぁ、うん。有栖川さんにも話そうと思ってたんだけどね。妹の梓さん、うちに居候してるんだ」

「え?居候?え?」


 話についていけていない慎之介の目が点になる。

 怪我をしたときに梓の話をしたが、それ以降のことは何も話していないので当然の反応であった。


「梓は……元気なんですか?」

 おろおろとした様子で詩が聞く。


「元気だよ。普通に昨日も一緒にテレビ見てたし、うちの母親とも仲良くやってるみたいだし、今のところはね」

 そういって悟は自分と梓と母親で撮った写真や、台所で母親と料理をしている梓の写真などを見せた。


「よかった……」

 その言葉で、一気に緊張が解けたのか、詩は深くため息をついた。


「え、悟お前……女の子と一緒に……」

 慎之介が絶望に満ちた顔を浮かべる。


「手出してないわよね?悟」

 恵が鋭い眼光で睨みつける。


「そ、そ、そんなわけないだろう……!」

 思わずその眼光に悟は怯み、土曜の夜の顛末を思い返してしまった。


「怪しい。怪しい匂いしかしないわ」

 恵の恐るべき女の勘という嗅覚が何かを察したようで、悟に疑いの目を向ける。


 冷や汗をかきながら隣の詩を見ると、なぜか頬を赤く膨らませていた。

 悟は必死に弁解をし、その様子に慎之介と恵はくすくすと笑う。


 4人を取り巻く空気は梅雨の鬱屈な空気を払うかのように和んでいた。

 こんな日がずっと続けばいい。悟はそんな少年のような淡い期待を抱いていた。


 雨はしとしとと降り続け、窓ガラスを濡らす。校庭に咲く紫陽花はその雫に揺れては艶めいていた。

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