第17話 背中越しの心拍


「ねぇ、悟」

「なに?」

「ありがとうね。こんな私みたいなのに優しくしてくれて」


 明かりの消えた暗い部屋に、ベッドの上からぽつりと寂しい声が木霊した。

 お風呂に入り終わり、2人は同じ部屋で就寝しているが、梓はベッド、悟は床という位置で寝ころんでいる。


「なんだよ急に」

「いや、なんとなく……。こんなに温かくされたの初めてだったから」


 その声は少しだけ震えていた。

 青色の寂しさが部屋の中に充満し、次第に壁に吸い込まれ、そしてまた静寂が訪れる。


 その静寂を切り裂くように、ばさりとベッドを剥ぐ音が聞こえ、梓がゆっくりと起きだす。

 何事だと悟は振り向こうとしたが、その反応は背中側に入り込んだ梓によって防がれてしまった。


 一つの布団の中に、2人の男女。

 もはやこの状況に悟の心臓は急激に早まり、じっとりと手のひらに汗をかき始める。

 背中と背中を合わせた状態で、梓は悟に寄り掛かった。


「あの時、助けてくれてありがとうね。すごく嬉しかった」

 あの時というのは、昨夜の件であるということはすぐに察しがついた。


「あんなん……助けるに決まってるじゃん」

 悟はさも当たり前のことだと、がむしゃらだったことをひた隠すように格好をつける。

 その言葉に、梓は「ふふふ」と笑った。


「私ね、ホテルに行く直前まで"もう金のためなら抱かれてもいい"って思ってたの。今考えれば売春行為なんだけどね。財布の中身もなかったからさ、掲示板で募集したら15万出すって言われたもんだったからさ。そんな大金、逆立ちしたって手に入らないし、浮かれちゃってさ。二つ返事で了解しちゃったんだ。でも、やっぱり、ホテルの前まで来たら急に怖くなっちゃって。経験なんてないのに、見知らぬおじさんに今からめちゃくちゃにされてしまうってことを想像したら、お金なんて幻想すぐに霞んじゃってさ。とにかく逃げなきゃって必死になったんだ。でもやっぱり危ないことに片足突っ込んだわけだから、そのおじさんに取り押さえられてたところにあなたが来たの。最初は誰だか分らなかったけどさ……王子様なのかなって思っちゃったよ」


 次第に、梓の体が熱くなっていく。

 背中越しに彼女の心臓が高鳴っていくのを、悟は肌で感じ取った。


 彼女はもぞもぞと動き出すと、付け合わせた背中を半回転させ、悟の背中に顔を埋めた。

 不意な出来事に、悟の緊張はピークに達する。これ以上はまずいと、額に汗がにじみ出る。


「―――あなたになら抱かれてもいいよ」


 柔らかな耳打ちが、悟の体を震わせた。

 彼の体の中で理性と欲望がせめぎあい、もはやその均衡が崩れてしまう寸前まで差し掛かっている。


 だが、そこで彼を引き留めたのは詩の存在だった。

 例え容姿が似ていても、詩と梓はまったくもっての別人である。やはり悟の中の一目惚れは、未だに彼の中の幼き恋情の炎を燃やし続けていた。


 それに今仮に梓を抱いてしまえば、これから一生、詩と梓を仲良くさせることなどかなわぬ夢のまた夢にしてしまう。

 母から言われた「責任」という言葉が、本能から溢れ出す欲望を無理やり押さえつける。

 彼は拳をぐっと握りしめ、そして深く息を吐いた。


「馬鹿野郎。そういうのは好きな人のためにとっておけ」


 悟はどこかで見た少女漫画の言葉をそのまま口に出す。もはや彼が今出来る精一杯の彼女への慰めであった。


「このヘタレ。バカ」


 梓は悟に捨て台詞を吐く。だが、強気な台詞とは裏腹に彼女の指は少しだけ震えていた。


 またも、静寂が訪れる。

 2人はお互いの葛藤を抱えながら静かに夢の中へ意識を沈めていった。

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