第16話 2人屋根の下
「―――ということで、何日か居候することになった。よろしく!」
悟は突然の出来事に頭の中が整理出来ずに動転した。
いったい、自分がバイトに行っている数時間の間に何があったのだと、彼の頭の上に疑問符がいくつも浮かび上がる。
「え、いま、え?居候?」
「そう、居候」
「え、母さん、なんでこうなったの?」
「どうもこうも、梓ちゃんが泊まりたいっていうから泊まらせてあげるのよ。パパだって今出張中なんだし、困る人はいないでしょ?」
「いや、そうだけど……泊まる部屋はどうするの?」
「あなたの部屋があるじゃない」
「え?」
「あなたの部屋があるじゃない」
「いや、え?」
「宜しくね、悟」
もはや彼の頭が理解不能というエラー表示をし始め、警報音をあげる間もなく、その思考回路はショートした。
現状、そう決まってしまった以上、飲み込むほかなかった。
リビングにはお泊り用と思われる手荷物用のバッグが2つ置かれている。
悟の母は、いつもそうであった。もはや面白いことがあれば飛び出すという習性に、悟は何も疑問を持ってはいない。耐性というものはつくづく怖いものだと、彼は改めて身に感じた。
「あ、ベッドの下のエロ本、捨てておいてよ。私あの上で寝るの嫌」
なぜそれを知っているんだと、悟はその言葉に冷や汗をかく。
すでに母親にもバレているんだと彼は悟り、すぐさま撤去しようと心に誓った。
悟は2階の自室へと上がり、バイトで汗をかいた衣服を着替え終わると、ベッドの下にあるエロ本を数冊まとめ、それを今は使われていない父の部屋へと移動させる。
本来であれば、すぐにでもビニール紐で縛り上げ、資材ごみで出せばことは済むのだが、なんせお気に入りの本であったために、悟はそれを破棄することを躊躇った。
リビングに戻ると、悟の母は夕食の準備に取り掛かっており、梓は机でノートを広げ、スマホでイヤホンを接続しながら勉強をしていた。
悟は台所へと向かい、冷蔵庫からお茶を取り出す。
コップに注がれた冷えたお茶を一気に飲みほし、仕事で乾いた喉を潤した。
「母さん」
「どうしたの?」
「梓……大丈夫なの?居候って」
「大丈夫よ。彼女の両親にも了解は取ってるわ」
「本当?」
「本当……といえば、断言しづらいところはあるわ。彼女ね、あんまり家に帰っていないせいか、家に居ずらいみたいだし、両親は厄介払いできたみたいな感じで対応してきたから私のほうがちょっとイラっとしちゃってね」
「そうなんだ」
「詩ちゃんもつらいと思う。なかなかきっかけをつかめないんだと思うよ。変に優しいというか、気を使ってるというか。とにかく、梓ちゃんがうちに居てくれるなら、あとで詩ちゃんも呼ばないとね」
「あぁ、そうだね」
悟はその場で自信なさげに頷くことしかできなかった。
なにせ、あの事故以来、詩との間には見えない壁のような隔たりが出来てしまっている。
以前のように、一緒にご飯を食べたり、話をしたりということはなくなってしまった。
まだ事故から2週間しか経っていないし、他の人から見れば、たいした時間たっていないじゃないかと馬鹿にされそうだが、悟にとっては詩の隣に座る1日1日が辛いのだ。
嫌われているわけではないと心の中で思っていても、片思いの不安というのは無邪気に増幅していく。手を伸ばせば届く距離にいる隣の席に座る彼女を見ながら、悟はため息をつき、家に帰っては枕に顔を埋めていた。
どちらにしろ、梓が遠野家の居候となったことを詩には伝えなければならない。
悟の口からは意味もなく、不安の塊が生ぬるい空気となって漏れ出した。
「ま、なるようになるよ。詩ちゃんのこと好きなんでしょ?」
悟の母はニヤニヤとした顔で、彼を見つめた。
「うるせぇ」と悟は顔を逸らせ、リビングのソファーに深く腰を掛けた。
赤くなった頬を隠すように、彼はスマホの画面を凝視する。
それから20分ぐらいがたったころから、いい香りが台所から立ち上り、それがふわふわと漂い始め、リビングに充満した。
「ご飯できたわよ」
その言葉に梓はすぐさまスマホの画面を切り、耳からイヤホンを外した。
悟もスマホの画面を見ながらも、美味しい匂いに誘われるように、食卓へと歩み寄り、梓の隣の席に着いた。
なぜ梓の隣だったかといえば、それに理由などなかった。
たまたま梓の隣の席、ちょうど右側の奥席が悟の定位置であったために、無意識にその席に着いたのだ。
悟が不意に隣の席に座ったものだから、梓は思わず硬直する。
お互い気にしないようにと意識をしていたが、同じ世代の異性同士、意識しないほうが無理難題であった。
悟は隣の席にいる女の子が詩でないことは十分に理解している。性格も尖っていて、平気で人のプライベートに土足で踏み込んでくる、清楚さの欠片もないのに、その横顔は透き通るほどに綺麗で、艶やかなな金色の髪と青色の瞳は詩とそっくりであることが悟を惑わせた。
「なによ、そんなに見て」
悟の視線に気づいたのか、仏頂面でこちらに向いた。
「うるせぇ、見てねぇよ」
「絶対見てたね。あ、もしかしておねえちゃんに似てたから?悟やらしい」
梓はニヤニヤとしながら図星をつく。
悟は自分の恋心を馬鹿にされたと思い、思わず子供のようにそっぽを向いた。
「こらこら、梓ちゃんも茶化さないの。悟もそれぐらいで拗ねてたら器が小さいって思われちゃうわよ」
その言葉とともに、2人の目の前には白い湯気の立った、おろし大根の乗った和風ハンバーグがが白いお皿で出された。
醤油ベースの香ばしい香りは、梓と悟の鼻腔をくすぐり、それに食欲が感化されたのか、フォークとナイフを握りしめ、「いただきます」と同時にハンバーグへと差し込んだ。
「「うまい」」
梓と悟の言葉が重なる。
その重なりに思わず目と目を合わせ、そして馬鹿みたいに笑った。
それから猛烈にハンバーグを食べ進め、お替りを悟の母に要求したが、さすがに大量に買ってないわよと言われ、2人揃ってしゅんとなり落ち込んだ。
そんな2人を見かね、「フライドポテト食べる?」と悟の母が聞くと、梓と悟は瞬時に晴れやかな顔へと戻り、うんうんと頷いていた。
「あんたたち、水と油みたいだけど、案外感覚は一緒なのね」
悟の母は微笑ましくその様子を見つめながら、台所へと戻り、冷凍のフライドポテトを揚げ始めた。
「似てるってよ、私たち」
ニタニタと梓が悪戯に笑いながら悟をからかうが、不思議なことに、今の彼にはそれが嫌味に感じることはなかった。
悟はどちらかといえば、清楚で物静かな、文学の似合う女の子が好きであった。逆を言えば、口数が多く、粗雑な言葉遣いをする荒くれた女の子は苦手なのだ。
彼の天敵ともいえる性格を持つ梓ではあったが、美味しいと感じる感覚も、話のテンポ感も、どこか同じような空気を持っていることに親近感が湧いていた。
確かに馬鹿にされることは嫌だし、土足で心の中に踏み込まれるのも好きではないが、気を使わなくていいというのはどこか安心感のようなものを彼に与えた。
それは距離感の掴めない詩からは感じることのできない感覚であった。
お互い、フライドポテトをつまみながらテレビのバラエティショーを見て、時々笑った。
誰かと一緒にテレビを見て笑いあうなんて、彼にとっては数年ぶりの久しい出来事に、つい口元が緩み、梓と饒舌に話し始めた。
意外にも梓の見識は広く、雑学のクイズ問題に出題される、日本の神社名や難解漢字、絵画の名前などをすらすらと回答する姿に悟は驚かされた。
「なんで知ってるの?」と聞くと、「これでも勉強はしてるのよ」と彼女は照れながら笑った。
その無垢な笑顔に、悟の心はぎゅっと心を掴まれる。
詩の笑顔を見た時に感じたそれと、すごく似ていたことに、今更になって彼は気づいた。
「お風呂、早く入りなさいよ」
「「はーい」」
梓は昨夜から数えて二十二時間しか経っていないのに、遠野家の一員と見間違えしまうほどに、色が馴染んでいた。
「じゃあ私先はいらせてもらうから。覗いたら殺す」
「覗かねぇよバカ」
「興味ないの?」
「興味ないわけ……ないわ!」
「やっぱり男はみんな獣ね」
はははと笑いながら、梓はお風呂場へと向かった。
悟はリビングで一人プルプルと震えながら、我慢に悶えていた。
まるで、餌のにおいの充満した部屋に入れられた犬の様相、そのものである。
もはや意識しないことが不可避な状況に、さっさとテレビを消してリビングから出ると、彼は2階の自室へと向かった。
ベッドの上に寝ころび、5分ほどで心を落ち着かせると、ティッシュをゴミ箱の中に投げ捨て、スマホにイヤホンを接続して大音量の音楽で耳を覆った。
悟は目を瞑り、頭の中の思考の海の中へ飛び込んでいく。
潜っていく最中、思い浮かんでくるのは詩との思い出であった。その笑顔に、先ほどの梓の笑顔が重なっていく。
2人は双子であっても、性格も雰囲気も人格も別人そのものだ。
それでもその屈託のない笑顔は違う可愛さを持ちながらも、悟はいつの間にかどちらにも惹かれてしまっていた。
自分の不器用さに呆れながら「はぁ」というため息が悟の口から漏れ出る。
むしゃくしゃとした自分の中のしがらみから目を逸らしていくように、悟は思考の海の中を深く、深く潜り込んでいった。
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