第15話 小さく一歩

「あら、おはよう悟。よく寝れた?」

「おはよう母さん。昨日は布団ありがとう。床に直寝は痛いねやっぱり」


 体重をかけてたであろう右腕が筋肉痛のように痛んでいるが、我慢できないほどではない。

 悟は左手で右腕の裏っかわ、ちょうど上腕三頭筋のあたりを指で揉み込んだ。


「梓ちゃん、朝ご飯の支度、手伝ってもらっていい?」


 悟の母は梓を台所へと呼び、お皿洗いや食事の運び出しを手伝わせた。

 素直に母の言うことを聞く梓を見ていると、それはまるで実の娘のような距離感であって、どちらも欠けていた愛情を埋めあっているようにも見えた。


 いったい寝ている間に何があったのだろうかと、悟は疑問を感じていたがそれを聞いてしまうのは野暮だと分かっていたので、口を閉ざしたまま何も聞くことはなかった。


 土曜日の朝のニュースを悟がぼけっとした眼差しで見ていると、「出来上がったよ」と目の前に、焼かれたトーストとサラダと牛乳、そして普段なら出ないであろうふっくらとした黄色いオムレツが白いお皿に乗ていた。

 悟の母と梓が台所の作業を終え食卓に戻ると、3人は「いただきます」と合掌し、溶けたバターが染み込んだトーストにかじりついた。


「これ……梓さんが?」

「うん」

「食べていい?」


 梓は無言で頷いた。

 悟はオムレツにスプーンを刺し込み、その黄色い腹を柔らかく掬い取る。


 それを口の中へ頬張ると、下の上に半生の卵の感触を感じ、卵の甘さとケチャップの塩味と酸味が相まって、極上の美味さへと変質していく。

 オムレツが口の中で溶けていくと、思わずその寂しさから、もう一回、オムレツをスプーンで掬った。


「これ……めちゃくちゃうまい」

 思わず悟の口から感嘆の声が漏れ出した。それほどまでに梓の作ったオムレツが美味しかったのだ。


「当り前じゃない、私が作ったんだから」

 梓は「ふん」とつんけんとした態度を取る。だが、悟には見えないところでその口角はほころび、喜びを奥歯で噛みしめていた。


 3人で1つのオムレツを作っていた筈が、結局のところ悟がそのほとんどを平らげてしまった。

 彼は「ごめん」と謝ったが、「いいのよ、男の子なんだから当然よ」と悟の母は笑顔を浮かべた。


 のんびりとした朝の時間が過ぎていく。

 食卓の上の朝食を食べ終え、悟の母が用意してくれた温かいインスタントカフェオレで寛いでいた。


「悟、今日バイト?」

「うん、バイト。11時~17時かな」

「わかった。夜ご飯、何がいい?」

「うーん……。特に決めてないかな」

「じゃあ適当に決めておくわね」


 のんびりとしているのはいいが、すでに時刻は10時に差し掛かっていた。

 さすがに準備しないと遅れると、慌てて席を立ち、そのまま悟は2階へと駆け上がった。


 その様子に「相変わらずね」と悟の母はため息をついたが、息子の成長ぶりに少し喜びを感じながら微笑んだ。


「梓ちゃん、お昼どこかにランチしにいかない?」

「いえ、私は……」

「そんな気負わないで?そんな堅苦しい話しするわけじゃないんだし、それに私も娘が出来たみたいで嬉しいのよ。おばさんのわがままにも付き合ってほしいな」


 梓はそれ以上言葉を出さなかったが、無言で頷き了承した。

 土曜日のテレビに流れるバラエティ番組が食卓に訪れた沈黙を柔らかくほぐしていく。その中身は、流行の映画だの小説だのを紹介していて、そのテレビを梓はじっと見つめていた。


 バタバタという足音が家のあちらこちらを駆け巡り、慌ただしい息遣いが廊下に木霊する。

「いってきます」という声が響き渡ると、それを書き消すようにバタンと玄関の扉が勢いよく閉まり、遠野家の青嵐は家の外へと去っていった。


「さて、私たちも出る準備しましょうか」

「え?」

「お昼を食べるにはちょっと早いから、ショッピングしましょう一緒に」

「で、でも……」

「ふふ、本当あなたって可愛いわね。詩ちゃんとそっくりよ」

「おねえちゃんのほうが何倍も可愛いです!というかおねえちゃん知ってるんですか?」

「何度かうちに来てるからね。もちろん知ってるわよ。本当に可愛らしい子ね、詩ちゃんも梓ちゃんも」


 そういうと、鼻歌を歌いながら悟の母は準備をしに、自室へと戻っていった。

 梓は他人の家で一人でいることなど経験したこともなく、ポツンと独り、リビングに取り残されてしまった。


 戸惑いをしまい込むこともできず、ただぼうっと椅子に座りながら、梓はこれまでのことを耽っていた。


 彼女はあの事故以来、自分は不幸とばかり思っていたし、これからもずっと不幸なんだと決めつけていた。

 昨夜の出来事がまるで映画のワンシーンのように思い出される。今考えれば彼女は宙に浮いた鉄骨の上にわざわざ足をかけ、つま先立ちで歩いていたのだ。


 不幸を嫌いながら、自分から不幸を啜りに行く。「有栖川 梓」という存在を証明するために、わざわざ彼女は自分の心に罅を入れ、その隙間を接着するように不幸を流し込んでいるということなのだ。


 もはや彼女の心の安定は"不幸"によってもたらされた贋物であった。

 その哀れな姿に、思わず彼女の目が潤む。

 きっと遠野家の優しさと眩しさが彼女の罅の隙間に接着した不幸を柔らかく溶かしていってしまったせいで、元の不安定な心に戻ってしまったのだろう。


 ふいに、彼女の目から涙が一筋流れた。

 一切の濁りを持たない、透き通った色―――


「おねえちゃん……」

 ふと、心の声が漏れ出す。

 梓は、あの事故以来、ずっと孤独に生きてきた。


 罪悪感に苛まれ、両親からは疎まれ、詩から夢を奪い、その重圧に心を押しつぶされていた。

 何度も変わろうとしたが、そのたびに自分が壊れていく辛さに堪えられずに、とうとう心を贋物にしてしまったのだ。


 もう事故から6年もの歳月がたっている。

 彼女はいつまでもこうしていることにも限界が感じていた。なにより、「廃人」となりかけている自分の姿を見ることがなによりの苦痛であった。


「準備できたよ、いこっか」

 悟の母は外用の服装に着替え、リビングの扉を開けた。

 その満ちた輝きに思わず梓は微笑んだ。


『ちょっとずつでいい―――』

彼女はこの家族の優しさを忘れぬよう、手のひらを小さく握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る