第53話 消える人間
頑張って顔を上げてみると、そこには真剣を構えたノルシュタインさんが、厳しい表情でこちらを睨みつけていました。
そうです。私が"黒炎環"を使ったのには、突撃してくるイーリョウさんを迎撃するつもりもありましたが、もう一つ、天高く上がる"黒炎環"を放って学校内で強力な魔法が使われる事態が起こっていることを、グラウンドにいる皆さんに知らせるためだったのです。
以前、体育館裏で放った時に目撃者がいたことと、同じように。
「人国軍の……ノルシュタイン……ッ!」
「そこの魔狼殿にもう一度警告するであります! その担いでいる学生殿を離すであります! そうすれば貴殿の扱いも、少しは考えてやるでありますッ!!!」
『マサト……ッ!』
「マサト、ご無事ですか!? 強烈に嫌な予感がしたと思ったらこんな……ッ!」
「無事か兄弟ッ!?」
「前に出るなお前達! ノルシュタインさんに任せるんだ!」
ノルシュタインさんの後ろには、オトハさんにマギーさん、そして兄貴の姿があります。
彼らを守るようにして手を広げているグッドマン先生に、他の数人の先生方も臨戦態勢でこちらを睨みつけています。
オトハさんはあの"黒炎環"を見て、マギーさんはお得意の勘で、兄貴はそれについてきたってところでしょうか。
本当に、私なんかを心配してくれる、私なんかにはもったいないくらいのいい人達ばかりです。
「……やってくれましたねえ、男の子。確かに、身に余る大手柄に目がくらんで、周りが全然見えてなかったあっしのミスですな、これは……」
苦い声を出しているイーリョウさんに向かって、身体が動かないので心の中で中指を立ててやります。
実際にやったら行儀が悪そうですし、私ならこのくらいが丁度いいでしょう。
「……しかし、まだ終わりじゃねえですよ。ノルシュタインさんよぉ! 取引と行こうじゃありませんか!」
するとイーリョウさんが、声を上げ始めました。取引、一体、何をする気なのでしょうか。
「なんでありますか! 取引とは一体なんの話でありますか!?」
「この状況下、いくらあっしでも無事に逃げられるなんて夢にも思っていませんぜ。だから、取引しようじゃありませんの。あっしの取引材料は、この男の子でさあ」
そう言うと、イーリョウさんは私を地面に落としました。落とされた私は仰向けに倒れましたが、あ、もう落ちた痛みすら感じない。本格的にヤバいかもしれません。
右手に懐から取り出したナイフを構え、私を担いでいた左手をポケットに入れて、イーリョウさんは話を続けます。左手、何かゴソゴソと動いているようにも見えますが。
「あっしは見ての通り、この男の子を離しやしたぜ。そっちの要望は、もう応えてやったって訳でさ。加えて、言われてはいないですが、この男の子にこれ以上危害を加えないことを約束しやしょう」
「なっ……これ以上ってことは、やはりマサトをそんな姿にしたのは貴方ですのね! 許せませんわッ!」
「マグノリア! 少し黙っていろ! 変に刺激するなッ!」
マギーさんが声を上げてくれますが、グッドマン先生に黙らされています。
まあ、確かにこのイーリョウさんを変に刺激して、何をされるか解ったもんじゃないのは、私です。何せ今、身動き一つできない私は取引の材料となっているのですから。
「……それで、貴方の望みは何でありますかッ!?」
「話が早くて助かりますね。あっしの望みは一つ、このまま逃げさせて欲しいのですわ。断ったらどうなるか、あんたくらいの人間なら言わなくても解りますよね、ノルシュタインさんよぉ?」
「…………」
そう言われたノルシュタインさんは、黙っています。あの力強い声のノルシュタインさんが。
断ったらどうなるか、そんなこと当事者の私が一番良く解っています。ええ、おそらく私は助からないのでしょう。ありきたりですが効果的な脅し文句です。
この距離、ノルシュタインさんがこちらに来たり魔法を放ったりするよりも、イーリョウさんが私にナイフを振り下ろす方が絶対に速いでしょう。そうなったら、私は一巻の終わりです。
しかし、とうとう私が人質に取られるようになりましたか。一体この後、どうなってしまうのでしょう。
ノルシュタインさんの動き一つが、私の命運を左右します。
「……決めましたでありますッ!」
少しの沈黙の後、ノルシュタインさんは口を開きました。彼は自身の目を見開いており、まるで水晶のような碧い瞳が見えます。
あれ、あの人って碧眼でしたっけ。そんな私の疑問をよそに、ノルシュタインさんはいつもの大声を上げます。
「要求には応えないであります! その学生殿は助けるし、魔狼殿は捕縛させていただきます! 両方やるでありますッ!」
「……ハッ!」
そして口にされたのは、まさかの両取り。私は助けるし、イーリョウさんも逃さないと、そう言っておられました。いやウッソでしょノルシュタインさん。
それを聞いたイーリョウさんは鼻で笑い、右手に持ったナイフを振り上げました。
「果たしてそんなことができるのでしょうかねぇ! そんなことしか言えないってんなら交渉決裂! この男の子は、ここでお終いでさぁ!」
『マサトッ!』
「マサトッ!!!」
「兄弟ッ!」
その瞬間に、イーリョウさんはそう叫び、私に向かって思いっきりナイフを振り下ろしました。
オトハさん達の叫び声も聞こえますが、私の目にはまるでスローモーションかのようにゆっくりと、自分に向かって振り下ろされるナイフが見えています。
あっ、終わったかもしれません。避ける気力も体力もない私は、迫りくるそのナイフの切っ先を見つめることしかできませんでした。
「いいえ! 片方は既に終わっているのでありますッ!!!」
すると、私に向かってナイフを振り下ろしていたイーリョウさんが、まるで幻であったかのように消えました。
気がつくと、私はノルシュタインさんに抱きかかえられています。
えっ? 一体何が?
「……は?」
『……えっ?』
「な、何が起きましたの、今ッ!?」
「い、いや……気づいたら兄弟が、ノルシュタインさんの腕の中に……?」
私も、オトハさんも、マギーさんも、兄貴さえも、何が起きたのかが解らずにいます。
私に至っては当事者であるにも関わらず、事態を一切飲み込めていません。
先ほどまでスローモーションで見えていたナイフの切っ先も、叫びながらそれを振り下ろしていたイーリョウさんも。
まるで見えていたもの全てが嘘であったかのように見えなくなり、視界には私を抱きかかえながらイーリョウさんを警戒するノルシュタインさんしか見えていません。
「先生、学生殿をよろしくお願いしますであります! 怪我が酷いので、病院へ連れて行くのでありますッ!」
「は、はい……」
そしてそれは先生方も同じだったらしく、グッドマン先生が戸惑いながら、私を受け取ってくれます。
未だに狐につままれたようなこの感じ。一体、何が何だか。一切合切さっぱりサッパリ解りません。
「な、なんですか今のは……男の子が、消えた……?」
刺す対象を失い、地面にナイフを突き立てたイーリョウさんも冷や汗を浮かべています。
あの人ですら、何が起こったか理解できていないみたいです。ノルシュタインさん、なんていう人なんでしょうか。
「残るは魔狼殿、貴殿の身柄を抑えるだけあります! 観念するのでありますッ!」
そう口にしているノルシュタインさんの目は黒いものに戻っています。あれ、先ほどは碧かったような。私の見間違いでしょうか。
「は、ハハハハハ……これが"消える人間(バニッシュ)"と称されてる、ノルシュタインさんの実力って訳ですかい……」
乾いた笑い声を出しているイーリョウさんですが、ポケットにしまっていた左手を出すと、突如として立ち上がって天を仰ぎ、その体勢のままおもむろに語り始めました。
「……一番最初の記憶は、あの路地裏だったですかねえ。貧困に病気に売春に。ホント、ロクな環境じゃなかったですわ。あの時、旦那に拾ってもらえなかったらあっしは、今の今まで生きてこられてたかなあ……ホント感謝してますよ」
「……観念したのなら、うつ伏せになって両手を頭の後ろで組むであります! 妙な真似をしたら……」
ノルシュタインさんの静止を振り切って、イーリョウさんは叫びました。その表情は、全てを悟って諦めたような、そんな顔をしています。
あれ、彼の身体が、光始めているような。
「旦那ぁ! あっしはこんな調子だから伝わってなかったかもしれませんが、あんたの下であんたのために働けてホント幸せもんでしたぜ! あっしは先に逝きやすが、旦那はなるべく遅く来てくだせえよぉ! 早かったらグチグチ文句言ってやりますからねぇ!」
「っ! 不味いであります! 全員、今すぐに伏せるであります! こいつ、自爆する気で……」
「あばよぉ世界! "終焉(ジ・エンド)"ォッ!!!」
イーリョウさんが吠えた次の瞬間、彼の身体が急激に輝いたかと思ったら爆発が発生し、周囲一体を巻き込みました。
爆発の衝撃波が広がり、その余波を浴びた私は限界近かった体力が遂に超えてはいけないラインを突破し、意識がプツリと切れてしまいました。
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