第二章 日常の忘れ物 4

机の上の折ったチラシの上に土鍋を運ぶ。

鍋の蓋の小さな一つの穴からは、蒸気が吹いていた。

チラシの上に置いて、姫さんはそっと蓋を開く。


「…おお」


一気に蒸気が天井に昇るように上がり、部屋全体に豆乳出汁の匂いが広がった。


「美味そうだな…」


「でしょう?」


俺はその鍋から目を離せなかった。

グツグツと音をたてているその鍋の中は見事に完璧な鍋だった。

姫さんの料理が得意だという言葉は信じて良いのだろう。


「さあ、食べましょう」


「おう」


お玉で鍋から少し出汁を掬い、器に入れる。

そして、もやしや白菜、豆腐に豚肉を器に移し、そして口に運ぶ。


「…!」


机の向かいに座る姫さんは俺の感想を待っているようだった。


「美味い」


「よかった…」


またこの鍋はご飯がよく合う。

豆乳出汁が米と触れるたびに染み込んで、一粒一粒が口に旨みを広げる。

また、鍋の中の素材ももちろん美味い。

もやしは豆乳出汁の味が染みているものの、もやし特有のシャキシャキ感が残っていて。

白菜は出汁が染み込んだ味と白菜のみずみずしさが口の中を幸せにする。

豚肉も高いものを買ったわけではないのに、柔らかくて美味い。


「豚肉、結構うまくできましたね。豚肉は煮詰めすぎると硬くなってしまうんです」


「そうなのか」


「ええ」


やっぱり料理は奥が深い。

もし自分に暇ができたら、やってみるのもいいかもしれない。

誰かと歓談しながら食べる温かい食事。

身体だけでなく、心も温まる夜は過ぎていった。

…ちなみに、鍋の下に敷いたチラシが溶けてしまっていて、大変なことになった。


・・・


鍋を食べ終えて、風呂を沸かしてそれぞれ入り、布団を敷いた。

流石に、今日は姫さんの布団は買えなかったので昨日と同じようになるが、毛布を一枚買ったのでそれを羽織ってもらう。


「別にいいんだぞ?布団を使っても」


「いや、い、いいですよ」


「そ、そうか…」


何故そんなに布団を使うことを嫌がるのだろうか。

汚いとか不清潔だとか、そんなふうに思われているのだろうか。

…今度布団を干そう。

しばらく時間が経って、俺が携帯でニュースなどを見終えた後。


「寝るか。電気消すぞ」


「あ、はい」


ぼうっとしていた姫さんは毛布にくるまって、床に寝転ぶ。

姫さんが床に寝て俺が布団で寝るのは、やはり少し心が痛むような感じがするが、この際仕方がない。

というか、この家は娯楽のものが一つもないから、姫さんを退屈させてしまっているな。

今度、パソコンなども買うべきだろうか。

とりあえずは、今度考えよう。


「よいしょ」


俺は布団の中に寝転んだ。

部屋は真っ暗になり、暖房が稼働している音と、外から聞こえてくる電車の通過する音が響いて聞こえてきていた。


「…魔法使いさん」


「…ん?」


俺が姫さんを見ると、姫さんは天井を見つめていた。


「…今日、魔法を使ってみてどうでした?」


俺は思わず聞かれた事に一瞬戸惑う。


「そうだな…」


俺は今日の昼のスーパーでの事に思いを馳せる。


「よくわからないっていうのが答えかな」


「…」


他人を不幸にして、心が傷んだようなにもすれば、ただお金が入って嬉しい気持ちもある。

他にも言葉に表せない気持ちがたくさん出てきて、複雑に混ざって、結局よくわからないという結論に至るしかないのだ。


「とりあえず、俺が悪い魔法使いであるというのは確かだな。もし、正義の魔法使いみたいなのが存在するなら、俺は退治されるだろうな」


俺はもうどうしようもないほどの悪い魔法使いになってしまった。

一度こうなってしまったら、後戻りはできないだろう。

俺はこれからの一生、悪い魔法使いとして生きていくしかない。


「…私には、魔法使いさんが悪い魔法使いだなんて思えませんね」


姫さんはこっちを見て、そう言った。


「私のピンチを助けてくれて、今こんなにも楽しい時間を過ごさせてくれている。確かに、正義の魔法使いではないにしても、私にとっては救世主で、正義の魔法使いなんです」


「…こんな悪いことをして、そんな事を言われるなんて、思ってもいなかったな」


俺は天井の虚空をただただ見つめる。

万が一、やっていることや自分の魔法についてのことが誰かにバレてしまったら自分はどうなるのだろかと考えたことがある。

きっと自分はロクでもない事になるだろうと、それだけは分かった。

ただでさえ、自分自身もロクでもない事に使っているのだから、他人に従う事になったら、自分の自由は無くなるだろう。


「…だから、貴方にはもっと自由に生きてほしい。それが私のささやかな願いです」


姫さんは俺のこの悪い行動を推奨しているのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。


「姫さん…。アンタ、悪い人間だな」


「ええ。私、悪い子なんです。今も知り合って二日目の人の家で寝ていますし」


「そりゃ、悪い人間だな」


誰も自分を、そして彼女を救ってはくれない。

誰も救ってくれないのならば、自らの手で救いを手に入れるしかないのだ。

人間は悪い生き物だと思う。

自分の救いを手に入れるには、誰かを貶めるしかないのだから。

俺はこれから、多くの人を不幸にするだろう。

…けれど、姫さんがそれを許してくれるのなら。

俺は救いを自分の為に、そして姫さんの為に何がなんでも手に入れようと、そう思える。

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