笹月美鶴

 そこに、それはいた。

 それは、手。

 とても、美しい手。




 通学路の途中にある大きな公園。季節の移り変わりを公園の花壇が教えてくれる。その移り変わる景色を見るのが僕の毎日の楽しみだった。


 高校生活の一年が過ぎ二年生になった春、穏やかな日常を壊す、異常な光景。


 そこに、手はあった。

 その手は公園の花壇を囲う白い石でできたブロックの上に、まるで花が咲くように生えていた。

 たった一本、石からにょきっと生えていた。

 それは、まごうことなき人間の手。肘の少し下あたりから、まっすぐ天に向かって生えている。


 とても異様な光景なのに、その手に目を向ける人も、騒ぐ人もいない。

 まるでそれは、誰にも見えていないかのようだ。


 僕にしか、見えないのか?

 あまりにも非現実的な光景に思考が追いつかず、見間違いだと自分に言い聞かせて通り過ぎたが学校の帰りに見たときも、やはりそこに手はあった。

 次の日も、その次の日も。

 手は、そこにあった。


「やっぱりあるなあ……手」


 幽霊? それとも妖怪?

 手の幽霊や妖怪の噂など一度も聞いた事はない。友人にさりげなく手の幽霊に関する噂がないか話を振ってみたが、不思議そうな顔をされるだけ。

 確かに僕にはあの手が見える。でもほかの人には見えていない。

 このことを友人に話したらきっと頭がおかしいと思われるだろう。だから、誰にも相談できなかった。


 今日こそ消えてくれ。

 公園を通るたびに願うのだが、その願いは一向に叶えられない。

 仕方なく僕は毎日通りすがりに手を眺める。


 だがひと月も経つと不思議なもので、あんな気持ちの悪いものでもいつのまにか日常になりつつあった。それどころか僕は興味がわいて、授業が終わるとすぐさま学校を出て公園に行き、少し離れたところに座って本を読むふりをしながらしばしばじっと手を観察した。


 ひっそりと咲く花のように、その手はたいていの時間じっとしている。

 時折柔らかな日差しに向けて手をかざしたり、風を掴もうとするかのようにひらひらと動いた。

 その動きはとても優雅で、美しかった。


 まれに手が生えている場所に人が来ることもあったが、誰もその手に気づかない。

 時には手の上に座る者もいたが手は実体がないのか座った者が驚く、なんてことはなかった。人がいなくなると、手は何事もなかったかのように石の上に佇んでいる。


 やはり幽霊なのだろうか? でも、なぜ手だけ?

 観察すればするほど疑問しかわかない。


 ある日、恐怖よりも好奇心が勝った僕は勇気を出して手の近くにそっと腰を下ろす。

 手は相変わらず静かに佇んでいる。僕に気がついている様子はない。僕は少しずつ座っている位置をずらして近付いていく。

 少しずつ、少しずつ、そうっと……。


 心臓が早鐘を打つ。そもそもコイツの正体がわからない。

 幽霊だったら取り憑かれるかも。妖怪だったら、祟られる?


 不安で心がいっぱいになりながらも僕はその美しい手に近づきたい一心でにじり寄る。

 手に近づくにつれて僕の心が高揚するのを感じた。


 なんて綺麗な手だろう。


 血色の無い手は白さが際立ちまるで真っ白な陶器のようだ。

 その手に触れたなら、どんなにか滑らかだろう。そんな妄想に囚われる。

 緊張で思わず息が荒くなる。恐怖しているはずなのに、なぜだか顔が熱い。今にも気が遠くなりそうだ。


 ずっ……、ずっ……。


 腰を、少しずつずらす。手はもう真横だ。あと一回ずらせば手に触れる。


 ずっ……。


 手が、僕の腰にとん、と触れた。


「え?」


 思わず声が出る。

 僕の腰に、確かに物が当たった感触があった。

 手が当たった?


 いや、小石でもあったのかもしれない。だって実体はないはずだもの。そのはず、だよな。


 僕の鼓動はますます激しくなり、口から心臓が飛び出しそうだ。でも、耐えた。耐えた、けど、それ以上進む事もできず僕はその場に座り続ける。体が動かない。ここまで来て今更ながら恐怖に襲われどうしていいかわからなかった。


 小石なんかじゃない。手だ。手が僕の腰に触れたのだ。間違いない。


 突然の衝撃に手の方も驚いたのか、一瞬、ビクッ、と指を震わせ、動かなくなった。僕はおそるおそる目を向ける。視線の先にちらりと白い指が見えた。

 手はそのままの状態で動かず、じっと様子を伺っているように見える。


 どれほどの時間がたっただろうか。

 しばらくすると「もういなくなったかな?」という感じに手は恐る恐るくうを探り、僕の足に触れる。手に足を触られた僕は思わず出かかった悲鳴を必死に飲み込みじっとしていた。だが手もまたびくりと震えて動かなくなる。

 手も触れられるものが突然現れたことにとまどっているようだ。


 よく見ると、手は小さく震えていた。

 まさか、僕を怖がっているのか?

 その様子を見た途端、僕のそれまでの恐怖がすっと消えた。


 かわいい。


 震えている手は可愛く、愛おしい。

 苛めて、みたい。

 そんないじめっ子のような感情がわいてくる。


 僕は衝動に駆られ、おもむろに手をぎゅっと握りしめた。

 きっとするりと通り抜ける。

 その予想ははずれ、驚くことにしっかりと握ることができた。

 体温は感じないが、握った感触は確かに現実のものだった。


 得体の知れない者に突然握られた手も驚いたのか、僕の手を振り払おうとバタバタと大暴れしている。しかし、暴れる手を離すまいと握りしめる僕。

 そのうち手は諦めたように動きを止める。しかし、恐怖しているのかガタガタと震えていた。僕はなんてひどいことをしているのだろうという気分になるが、いまさら離すこともできない。離したら、消えてしまいそうで怖かった。


 握った手をじっとみる。少し離れたところからしか見たことがなかったが、近くで見るとますます美しい。

 それは、白く透き通るような紛れもない少女の右手。華奢な手が、怯えて震えている。


「怖がらないで、僕は怪しい者ではありません」


 そっと声をかける。だが、反応はない。相変わらず怯えたように震えている。

 声は聞こえないのだろうか。手しかないのだから無理もないことだが、どうしたものか。これ以上握っているのはあまりにも可哀想な気がしてきた。

 とにかく、敵意がないことだけは伝えなくてはならない。僕は手をそっと撫で、その手の甲をやさしくトントンっとたたく。これが敵意のない印と受け取ってもらえるかは疑問だが、言葉の通じない手が相手ではどうしようもなかった。


 あまりに震えている手にさすがに罪悪感を感じ、僕はそっと手を離す。僕から解放された手は握り拳を作ってぷるぷると震えている。嫌われてしまっただろうか。とにかく、これ以上彼女を困らせるわけにはいかない。後ろ髪を引かれる思いだったが、一旦その場を去ることにした。


「また明日も来るね」


 伝わるはずもない言葉をかけ、僕はまだ震えている白い手を、見えなくなるまで何度も振り返りながら家路についた。



 その夜は、なかなか寝付けなかった。無理もない。なにせ、石から生えている手を握ったのだから!

 手はひんやりしていたが、握っているうちに、ほんのり温かみが感じられた。それはきっと僕の体温だったのだろう。でも僕には彼女の体温のように感じた。僕はあの美しい手が忘れられなかった。


 きっと腕以外も美しい少女に違いない。そんな妄想が次から次へと頭に浮かび、僕の中ではあの手が「美少女の手」と決定づけられた。まるで恋をしているかのように心臓の鼓動が止まらない。結局、僕は朝まで悶々と妄想に浸り続けた。



 それから、僕は学校帰りに必ず公園に寄り、電話をかける振りをしながらそっと手を握って話しかけた。

 僕はすっかりこの手に心を奪われてしまっていた。

 手は毎日自分を握る得体のしれない訪問者に怯えてはじめは抵抗していたが、だんだんと諦めたのか、数日もすると特に抵抗もしなくなった。

 一週間も過ぎると僕が近づくと気配を感じるのか、手を振ってくれるまでに打ち解けてくれた。


 来る日も来る日も、僕は彼女のもとへ行った。学校帰りだけでなく、朝も早起きして会いに行った。友達は付き合いの悪くなった僕を快く思わなかったが、そんなことかまいはしない。友達なんていらない。彼女さえいれば。


 彼女は僕にすっかり慣れたのか、自分から僕に手を伸ばす。顔を近づけるとその顔を確かめるようにまさぐってくる。彼女の手が僕の唇に触れる。僕は、まるで彼女とキスを交わしたかのようにときめいた。そっと彼女の手を取って、騎士のようにその手の甲に口づける。僕は彼女を守ると心に誓う。


 ある日、突然思いつく。彼女は字が書けないだろうか。

 試しにノートを広げてボールペンを握らせる。握らせ、ようとした。

 だが、ペンは彼女をすり抜け、ころんと落ちた。

 僕はペンと彼女の手を一緒に握って字を書くように促す。


「字を書いて気持ちを伝えて。君は誰なの? 名前を書いて」


 だが、その思いは通じなかった。彼女から文字を書くような動きは見られない。

 「彼女は何者なのか」そのことを、改めて考えた。


 手だけの幽霊。妖怪でなければ人間、ということになる。

 バラバラ殺人。

 この花壇に、手が埋まってる?


 ここに、埋まっている。もしそうなら……。


 僕は考えた。額から汗をかきながら、眉間に皺を寄せて、思考した。


 欲しい。あの手が、欲しい。


 僕は異常な衝動を抑えられなかった。


「茂みに隠れて、巡回警備員が通り過ぎたらすぐに掘って……」


 ぶつぶつと僕は呟く。

 ぶつぶつ、ぶつぶつ……。


 この公園のこと、警備について、人のいない時間。

 調べられるだけのことを調べた。


 やれる。僕はやれる。僕なら、やれる。




「何をしている! なんだそれは!」


 掘り返すのに、予定よりも時間がかかってしまった。

 掘っても掘っても手らしきものは出てこない。

 あきらめかけた時、ビニール袋に包まれた、何かをみつけた。

 と、同時に僕を照らす眩しい光。


 しくじった。

 やっとみつけたのに。


「お前はそいつを押さえとけ! さて、なんだ?」


 若い警備員はとても抗えない力で僕を押さえ込んでいた。

 中年の太った警備員が乱暴にビニールを破る。


「さ、斎藤さん、開けちゃうんですか? 警察が来るまで待ってた方が」

「どうせヤクでも埋めたんだろ。それとも、金か?」


 楽しげに、乱暴に、包みを開く。

 僕の心臓は早鐘を打っていた。

 そこにあるのだろうか。本当に、あるのだろうか。


「ぎゃああぁぁ!」


 ごろりと中から飛び出したのは、作り物のような、ミイラ化した人の手らしきもの。

 やっぱりあった。そこにいたんだ。

 でも……でも……ああ、僕はなんて愚かなことをしてしまったんだ。


 赤い点滅が僕を照らす。


 奪われる。

 奪われてしまう。

 彼女が、手の届かないところに。


 伸ばした手はくうを泳ぎ、流れる涙は押さえつけられている土にしみ込んでいく。


 やめろ、やめろ、彼女を……、


「返せえええぇぇ!」






 警察に連行された僕はありのままを話した。

 手の幽霊を見ていたこと。手の幽霊が出るということは、もしかしたら手が埋まっているのではと考えたこと。

 それをどうしても確かめたくて、掘り返した……と。


 しばらくのち、警察は僕の話を拍子抜けするほど簡単に納得してくれた。犯人はすでに捕まっており、その犯人と僕に接点がなかったこと。そして、友人たちの証言のおかげだ。

 急に付き合いが悪くなった僕を不審に思った友人たちはこっそり僕の行動を見ていて、朝に夕に公園に入り浸る僕に女でもできたかとはじめは思ったらしいが、いつも公園の花壇の同じ場所に座って一人で楽しげに独り言を言う僕。

 その姿ははたから見れば相当奇異に見えたらしく、友人たちの間で僕がおかしくなったと噂になっていたらしい。

 彼らに手の幽霊の噂がないか聞いたという事実も、僕の〝手の幽霊がいた〟という話に信憑性を持たせてくれた。



 殺されて山中に埋められていたのは、僕と同じ当時十六歳の少女。

 その遺体は右腕が切断されており、捜索が行われたが遺体の周辺からは見つけることができなかった。右腕だけが、行方不明となっていた。

 警察の話では、犯人は彼女を一方的に愛したストーカー。

 そのことで警察に相談していたこともあり、遺体の発見とともに犯人はあっさり捕まった。

 しかし切断された右腕のことだけは黙秘を貫き、そして何も語らぬまま、拘置所内で首を吊って自殺したという。



 僕は思う。

 犯人が欲しかったのは、彼女の手だけだったのかもしれない。

 でも結局、公園の花壇に埋めた。

 美しい花の咲く花壇に埋めたのは犯人なりの、愛情だったのか。


 切り落とされた手はどんなに慎重に保存しようと、時が経てばやがて腐ってしまう。

 腐った手までは愛せなかった。


 そうとも、犯人ヤツには見えなかったのだ。

 腐ってもなお、美しい手を。




 一時は霊とコンタクトを取って遺体を発見した霊感少年として話題になり、毎日のように取材に追われて学校でも質問攻めだった。しかし、僕は何も言わなかった。彼女との思い出をこんな無神経な奴らにけがされるのは耐えられなかった。

 そのうち彼らも話題に飽きたのか、誰も何も言わなくなり、再び穏やかな日が過ぎていく。

 ただそこに、彼女はいなかった。

 腕が発見された後、花のように咲いていた手は姿を消した。





 事件から二十年。僕ももう三十六歳。

 二十代で相次いで父と母が亡くなり、両親から受け継いだ郊外の一軒家で悠々自適の独身生活を送っている。

 親戚はしきりに結婚をすすめてくるが、その気になれる女性にはいまだお目にかかっていない。



 休日の穏やかな昼下がり。

 僕はちらりと庭に目をやる。

 綺麗に整備された自慢の庭。レンガが積まれた花壇。咲き誇る季節の花々。

 それはどこか、あの公園に似ている。


「なかなか生えてこないなぁ」


 僕は切なく、吐息を漏らす。




「新しいの、探しに行くか」

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笹月美鶴 @sasazuki

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