その8


 全身結着剤化したべとべとのゼリーまみれで、そして子供の泥遊びみたいに泥だらけ。職人街のみんなに同情と哀れみの目で見送られ、陽も沈む頃にレシピの魔女の工房へとようやく帰ってこれた僕とガブ。ボロ雑巾のようにみすぼらしい二人を見て、ツキノワさんは華奢な身体をひん曲げてお腹を抱えて大笑いした。


「なんて格好してんのよ、二人とも」


 僕とガブは同時に答えた。


「「こいつのせいで」」


 僕とガブのシンクロにさらに笑いが止まらないツキノワさん。


 こいつがもっとスマートに蠢きゼリーを潰してくれればこうはならなかった。蠢きゼリーを結着剤で固めた僕の調合は完璧に機能していたはずだ。これが僕の意見。


 こいつがもっとクレバーに魔法を使えばあっさり蠢きゼリーを倒せた。そもそもあんな雑魚ごときちゃんと戦えれば俺の大剣でぶった切れたはずだ。とはガブの主張。


「はいはい、わかったわかった」


 ツキノワさんはひとしきり笑った後に二人分返事をしてくれて、ふくれっ面の少年二人の前まで歩み寄った。女の人のわりにすらりと背が高く、レシピの魔女の二つ名が示す通り異国のミステリアスな真っ黒い瞳がとてもきれいだ。僕もガブも彼女に見据えられて思わず背筋をぴんと正してしまう。


「グレートソード・ガブ。あたしは護衛対象に悟られないよう隠密行動で護衛しなさいって依頼したはずよ。仲良く泥だらけになって一緒に帰ってくるってどういうこと?」


「うっ。で、でも、こいつより先回りして、危険だって言ってた赤蠢きゼリーをやっつけてやったぜ」


 何故か自慢げに胸を張ってくいと顎を突き出すガブ。こいつか。道理で赤蠢きゼリーの姿が見えなかったはずだ。こいつのせいであんな森の奥まで分け入る羽目になったんだ。ほんと、余計なことをしてくれたな。


「レニ・アステラ。君に与えた仕事は素材収集のはずよ。現地で調合してこいって、あたし言ったっけ?」


「あー、はい。えーと、これは事故です」


 ツキノワさんは当然のように僕の嘘を見抜いているようで、切れ長の目をすうっと細めて僕の両頬に冷たい手のひらを添えた。くいっと強制的にツキノワさんを見上げる角度に首を持ってかれる。


「うん。調合の具合は悪くないわね。初めてにしては上出来よ」


 うにうにと僕の頬や鼻の頭にこびりついた蠢きゼリーの万能結着剤をこねくり回す。この結着剤はやたらしつこくってそんなんじゃ全然取れない。くすぐったいやら、気恥ずかしいやら、やめてほしいです、ツキノワさん。


 すると、ツキノワさんは不意に僕の頬にその唇を寄せた。あむっと甘噛みするかのように頬に触れる唇。


 どきりと心臓が跳ねて僕は思わず硬直してしまう。吐息を感じるほどツキノワさんの顔が接近している。いや、もう接触している。


「この結着剤はね、食品の加工とか料理の見栄えを良くする時に使うの。食べても平気よ。むしろレモンの酸味があって美味しいくらい」


 ぺろっと僕の頬から離れるツキノワさんの唇。


「人の唾液で粘性がなくなるから。失敗してくっつけちゃった時のため覚えときなさい」


 ツキノワさんは僕の頬にこびりついていたゼリーの結着剤を咥えて言った。細い指でねっとりと緩くなった結着剤をもてあそび、ちらり、流し目でガブを見やる。ガブも僕同様顔中蠢きゼリーの結着剤まみれだ。


 何か期待と緊張が混じった顔で口元を緩めて、急に背筋をしゃんとさせるガブ。ツキノワさんはそんな傭兵少年の緊張で強張った肩に手を置いてくすりと笑った。


「恥ずかしいから、目を閉じて……」


 素直に目をつぶるガブ。


 ツキノワさんはガブではなく僕の耳に唇を触れさせ、結着剤の残りを舐め取りながら静かに囁いた。


「遅くなって心配させた罰よ。君が舐めてあげなさい」


 えっ。


「あたしはそれを見ながら一杯やるから」


 何も知らないグレートソード・ガブは興奮と期待と緊張とで溺れそうなほど顔を紅潮させていた。


 レシピの魔女の命令は絶対だ。




 レシピの魔女いわく、はるか遠く、こことは違う世界の異国からやってきた彼女の趣味はボーイズラブとかいうものらしい。それが何を意味することなのか、僕はまだ知らなかった。

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