その2


「レニ・アステラ」


 ツキノワさんは人をフルネームで呼ぶ。レシピの魔女いわく、むやみに感情移入せずに適度な距離感を保つため、だとか。


 相手が年上のベテラン職人だろうが、懇意にしている雑貨店の看板娘だろうが、それこそ初対面だろうがおかまいなしにフルネームで呼び捨てる。それがレシピの魔女がいう適度な距離感なんだろう。そのくせ僕の肩に手を置いたり、子どもみたいに頭を撫でたり、やたら距離が近いのはちょっと困る。




「ハイ、君の初仕事はコレね」


 ツキノワさんの工房に引っ越してきて一週間。掃除と後片付け、炊事洗濯など、家事全般以外の薬餌調合師っぽい仕事をようやく言い渡された。


 でも、僕の手にはレシピとひとことアドバイスが書かれたメモ一枚。レシピの魔女はそれ以上何の情報も与えてくれなかった。


「いったいどうすれば正解なのか。自分で考えるのも修業の一部なのよ」


 たぶん、たった今考えた口から出まかせだろう。直前に「忘れてた」とか「明後日までか」とか低い声で呟いたのが聞こえたし。


「わからないことは自分で調べて、それでもわからなければあたしんとこに戻ってきなさい」


 レシピのメモを見る限り、ほぼわからないことだらけなんですが。


「締め切りは今日の夕方までね」


 今日中ですか。そうですか。さっき明後日までって聞こえましたけど。


「ほらほら、時間は限られてるよ」


 愛弟子の初仕事だというのにこの放置感。これがレシピの魔女の適度な距離感なのか。


 それから数時間後。新米薬餌調合師として初素材収集に出かけた僕は、東も西もわからないアルファリアの森の中で途方に暮れているのであった。




 アルファリアの森。内湾に接するミルキア地方に拡がる森林地帯。特に北部大森林はまさしく自然の宝庫であり、さまざまな大地の恵みを授けてくれる生命溢れる森だ。その大森林を貫くように整備された山岳縦断鉄道に乗れば、鉱山都市エルカディオ・エッセまでたったの一日で到着できる。ミルキア地方の北部大森林を走る縦断鉄道は国内移動において交通の要でもある。


 とは、グリッド・マシュウズの雑貨店の看板娘、アンヌの受け売りだ。


 大の鉄道ファンであるあの子はいつも山岳縦断鉄道に乗りたがっている。店に買い出しに行く度に注文の品を用意しないで鉄道の話ばかりしては、レシピの魔女の工房から離れられる僕の貴重な自由時間を削ってしまう困った看板娘だ。


 ついさっきも、アルファリアの森に自生するレモンの木と浮かびナッツのことを聞きに行ったのに、いつのまにか縦断鉄道の力強い蒸気走行音の口真似を聞かされるだけで、結局は何の情報も得られなかった。


 仕方ない。自力でなんとかするしかないさ。


 レモンの木は職人組合街のレモン畑の実を鳥が啄んで、そして種が森に運ばれ、そこで定着して野生化したもの。それが青レモンだ。人の手が入っていない分だけ畑のレモンよりも小振りな実を付けるが、その実は野生種に近くて青みが強く、かなり酸っぱい。その酸味が薬餌調合に使える。


 だから調合に使うレモンは青ければ青いほどいい。レシピに書いてある必要な数は3個。野生のレモンの木さえ見つかればすぐに調達できるだろうと思ってたけど、実際は違った。


 いわゆるレモン型の緑色。少しとんがった青色。楕円形の黄色。まん丸い赤色。実にカラフルなレモンたちを実らせたレモンの木が僕を待ち受けていた。


 レモンの木に決まった収穫時期はない。実が熟して色付いて落ちれば、すぐにまた新しい果実が実る。だから早熟な青色から完熟の赤色まで見事なグラデーションが揃っているのだ。


 手を伸ばせば摘める高さに実るさまざまなカラーリングのレモンたち。何色を何個摘んで帰ろうか。青色はもちろんのこと、完熟の赤色も捨てがたい。シンプルに甘くて美味いし。


 素材収集時に薬餌調合師としての最低限のマナーがある。それは素材を摂り過ぎないことだ。ほかの調合師さんのため、素材を餌とする野生動物や小モンスターのため、素材の独り占めはよくない。


 僕はレシピの通りに青レモンを必要なだけと、今晩のデザートにと赤レモンもちょっと多目に収穫した。

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