第16話 たばかられしものよ、たたかえ


 結城が指定した『光芝印刷』の倉庫は、年季の入ったモルタルの建物だった。


 往来に面した正面部のシャッターは閉ざされており、僕は仕方なく敷地に足を踏みいれた。


 側面に通用口と思しきサッシの引き戸があり、拳で軽くたたいたが中からの返答はなかった。思い切って引き戸に手をかけると、あっさり開いて中の様子が露わになった。


「――ごめんください」


 僕の呼びかけはがらんとした倉庫内に吸い込まれ、返事が戻って来る気配はなかった。


 内部に人気はなく、製本用の機械が並ぶほかは、壁際に詰まれたパンフレットの束が見えるだけだった。僕は中に足を踏み入れると、「結城さん?」と呼びかけた。


「……猪瀬君」


 突然、背後で声がして、振り向くとどこから現れたのか、髪を乱した結城が立っていた。


「結城さん!」


 歩み寄ろうとした僕の足を止めたのは、結城の背後から現れた二つの影だった。


「……この人たちは」


「すまない、猪瀬君。本当なら君の記憶が戻るまで待ちたかったんだが……」


 結城の肩越しに僕を見ていたのは、あの二人組の『追跡者』たちだった。


「わざわざ来てくれてありがとう、イグニアス」


「イグニアス?なんだそれは」


 ふと脳裏に、ポケットにあった紙片のことが思い浮かんだ。なぜ僕をイグニアスと?


「君の身体は元々、我々が購入したものだ。よって、この場で回収させてもらう」


「購入?回収?……僕を?人間を物みたいに言わないでくれ」


「君は普通の人間ではない。自分でも薄々、気づいているのではないかね?」


「普通の人間じゃない……」


 僕は愕然とした。何を馬鹿なと言いたい気持ちを止めたのは、ちえりとの生活で浮かび上がったいくつかの出来事だった。


「結城さん、僕を売ったんですか」


「許してくれ、身内の事情に付け込まれるとは予想していなかったんだ」


「身内の事情?」


「この方の娘さんは少々、素行が悪くてね。ある事件の被疑者となっているのだ。我々なら『証拠』を跡形もなく消せる、そう持ちかけたらあっさり君の確保に協力してくれたよ」


「なんてことを……人の弱みに付け込むなんて」


 僕は反射的に結城を見た。目を逸らして俯いた結城に、僕は強い失望と同情を覚えた。


「というわけで、一緒に来てもらおうか。言っておくが、抵抗しても君には何の得もない」


 追っ手の一人がそう言って伸ばした手を、僕は思わず払いのけた。


「ふむ、まだわかっていないようだな。我々と一緒に来れば、君が知りたいことを全て知ることができるのだぞ?少しは利口になってもらわないと困る」


「あんたたちのところへなんか行かない。僕には帰る場所があるんだ」


 僕はちえりの姿を思い浮かべながら言った。そう、たとえすぐ別れが来るとしても。

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