第14話 こころゆれしものよ、みつめよ


 その夜、僕とちえりはいくぶん気まずい空気の中で過ごすことになった。


 ちえりが僕のために用意してくれた料理を、僕らはテレビのタレントや売れている本などのどうでもいい話を交わしながら口に運んだ。


 僕が歩と約束した『お別れ』のことをようやく思いだしたのは、冷たいマットレスに身体を横たえて闇を見つめていた時だった。


         ※


「言えなかった?……なにやってるの、あなた」


 電話の向こうの歩は、僕に向かって苛立ちをあらわにした。


「すみません。つい言いそびれてしまって。それに……」


「それに、何?」


 僕は躊躇しつつも結局、玄関先でのごたごたを歩に打ち明けていた。


「まったく馬鹿じゃないの。子供みたいにあれこれ気にして。……でも驚きね。あなたの心がそこまで『進化』してるなんて。予想以上だわ」


「なんですか『進化』って。思わせぶりもほどほどにしてください」


 僕が思わず不平をぶつけると、歩は「そうだったわね、ごめんなさい」と意外にもしおらしい返答を寄越した。


「あなたはそう、言ってみればついこの間、生まれたばかりの幼児みたいなものだもんね。……いいわ、説明してあげる。二時間後に、今から送るファイルの場所に来て。彼女にも言っちゃだめよ」


「わかりました、行きます」


 通話を終えた後、届いたファイルを開くと大学の見取り図らしき絵が現れた。住所はここから地下鉄で四つほど先の地区だった。

 僕はスマホをしまうと、家出少年のように覚束ない足取りで街の中をぶらつき始めた。正直、歩のところへ行くのは気が進まなかった。


 ――このまま、結城とも多岐川さんとも会わずに、ちえりとひっそり暮らせないものだろうか?


 地下鉄の入り口近くで足を止め、もう一度歩に連絡を取ろうとスマホを取りだした、その時だった。近くの建物から出てきた一組の男女が、何やら言い合いを始める様子が目に飛び込んできた。


 ――あれは……ちえり?


 ちえりの横に立っていたのは、昨日の男性だった。僕はちえりが朝、口にした言葉を反芻していた。


 ――今日は午後からスナックの棚卸しを手伝うことになってるの。夕方には帰るわ。


 僕は二人の様子を注意深く見つめた。男性はちえりの腕をつかんで自分の方に引き寄せると、何かを囁きながら顔を近づけた。驚いたことにちえりは男性の腕を振りほどこうとはせず、僕との会話では聞いたことのない甘さを含んだ声で「もうやめて」と言った。


 ――まさかちえり、僕に嘘を?



「なあちえり、お前には真面目な男なんて合わないぜ。どうせいずれはお前の正体を知って離れて行くんだ。それくらいなら俺と……」


 男性が甘い口調で囁くと、ちえりは苦しそうに表情をゆがめた。


「わかって、お願い。……せめてシン君に居場所が見つかるまで……」


「本当だな。単に可哀想な男の面倒を見てるだけだと、ここで誓えるか?」


「それは……」


 ちえりは沈黙すると、男性から顔を背けた。


「ふん、まあいい。いつもの気まぐれだと思えば、許さないこともない。だが、俺を裏切るなよ。所詮、お前はこっち側の人間なんだからな」


 男性は凄みのある声で言い放つと。突き飛ばすようにちえりの腕を離した。

 

 男性が去った後、ちえりはしばらく顔を両手で覆っていたが、やがて鏡で自分の顔を確かめると、ふらふらと歩き始めた。

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