第12話 さだめられしものよ、ひそめよ


 いったい、追っ手たちは僕を捕まえて何をさせようというのだろう。少なくとも記憶喪失のことを知っていれば、今の僕から何かを聞き出そうなんて思わないはずだ。


 僕は結城が出るのをじりじりしながら待った。だが一向に出る気配はなく、僕はビルとビルの狭い隙間に潜りこむと、そのまま裏へと抜けた。ビルの裏はフェンスで囲まれた駐車スペースで、誰かに侵入を見咎められたら言い訳できない場所だった。


 僕は結城と連絡を取ることを諦め、結城から教えられたもう一人の『味方』の番号を打ち込んだ。その人物の名前は『多岐川歩』。男性か女性かもわからなかった。ビルの壁に貼りつくようにして応答を待っていると、やがてスピーカーから「はい」と声が聞こえた。


「あの……猪瀬といいますが、多岐川さんですか?」


「猪瀬?」


 多岐川らしき人物の声は、明らかに僕のことを訝しんでいるようだった。


「はい、猪瀬心太といいます。結城さんという人から、多岐川歩さんという方が味方になってくれると……」


 僕が畳みかけると相手は「ちょっと待って。あなた本物の猪瀬心太さん?」と遮るように問いを放った。


「そうですが……」


「なんてこと。生きていたのね。……私は多岐川歩たきがわあゆみ。技術者よ」


「技術者?そんな人がどうして僕を……」


 どうやら相手は多岐川に間違いないようだ。しかも、女性らしかった。


「そんなことよりあなた今、どこにいるの?」


「どこっていうか、よく知らない路地の奥で追っ手から逃げてるんです。急に電話したのも、僕がなぜ追われているのか知っていたらと思って。……実は僕、一週間以上前の記憶が失われているんです」


「記憶喪失?しかも追っ手ですって?……まずいわね、それは」


 歩は絶句すると、唸り始めた。結城もそうだが、僕について詳しい人たちは皆、一様に僕の置かれた状況をまずいと言う。だったら、何がどうまずいのかくらい、教えてくれてもいいだろうに。


「それで?今はどこに住んでるの?」


 そんなことより追っ手だろう、そう言いたかったが僕はぐっとこらえて「知人女性の部屋に住まわせてもらっています」と答えた。


「女性の部屋ですって?……猪瀬君、悪いことは言わないから、今すぐその部屋を出なさい」


「そんな乱暴な。いきなり姿を消すなんてできませんよ」


「急がないと、その恩人さんも危険な目に遭う可能性があるの」


「確かに僕は、おかしな連中に追われています。でも今すぐだなんて、僕はそんなに危険なことをしでかしたんですか?」


「ある意味、そうよ。それとあなたを追っている連中だけじゃなくて、あなた自身が危険な存在なの。私はあなたのことをあなたよりよく知っているわ。少し時間をくれれば、当面の居場所くらいは用意してあげられると思う」


「僕のことを僕よりよく知っている?いったいあなたは何者なんです?」


「ただの工学博士よ。家族じゃないけど、あなたを造った人間の一人と言ってもいいわ」


「工学博士?なんでそんな人が……それより、追っ手に捕まらないようにするにはどうしたらいいんです?」


「スピーカーのヴォリュームを最大にして。私が護身用に使っている音声ファイルを再生してみるわ」


 僕は相手の意図を呑みこめないまま、言われた通りヴォリュームを最大にした。


「――いたぞ!」


 ふいにすぐ近くで声がしたかと思うと、ビルの間をこちらに向かってやって来る足音が聞こえた。僕が「早く!」と叫んだ瞬間、スピーカーからパトカーのサイレンが大音量で流れ始めた。


「……ちっ、まずいな。いったん引きあげだ!」


 足音が僕の居場所の手前で止まったかと思うと、近くで忌々し気な舌打ちが聞こえた。


「どう?役に立った?」


 サイレンの音が止むと、入れ替わりに歩の声が大音量で聞こえた。僕はヴォリュームを下げると「ええ、お蔭様で」と答えた。


「それじゃ、今すぐこっちに来て。場所は……」


「待ってください。すぐには無理です。せめて彼女にお礼とお別れを言わないと……」


 僕が渋ると歩は大げさにため息をつき「わかったわ。一日待ってあげるから、お別れしてきて」と何も教えないくせに上から口調で譲歩した。


「明日また連絡するわ。……まったく、それでよく今まで生き延びてきたわね。驚きだわ」


 呆れたような口調で諭してくる歩にいくばくかの反感を覚えつつ、僕は通話を終えた。


 ――畜生、神様は過去だけじゃなくちえりとの『現在』まで僕から奪おうっていうのか。


 僕は心の中で呪わしい運命に悪態をつくと、ちえりに別れを告げるために歩き始めた。

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