第10話 あすなきものよ、ひきとめよ


「こんな店にしか連れてこられなくて、ごめんよ」


 僕が詫びると、ちえりは「本気で言ってるの?怒るわよ」と口を尖らせた。

 土曜日の夕方、僕は目抜き通りにある小さなイタリアンレストランにちえりを招待した。一週間分の給料では、ごく普通の食事が精一杯だった。


「高級寿司やフランス料理は、いつかちゃんとした仕事に就けたら連れて行くよ」


「見え張らないの。私、シン君が連れてってくれるならどこでも楽しいよ」


 ちえりはそう言うと、いつもより入念にメイクした顔をほころばせた。


「それから、これ。……安物で失礼かなって思ったけど、どうしても何かお礼をしたくて」


 僕はそう前置くと、ちえりに天然石が填まったイヤリングを手渡した。


「素敵……私、あんまりアクセサリーはつけないんだけど、これはつけさせてもらうわ」


 無邪気にはしゃぐちえりを眺めているうち、僕の中にふとある不安が沸き上がった。


「ちえり……もし君に将来を約束した人がいたら、言ってくれないか」


「いないわ。……どうして?」


「なんだか、このままだと僕は勘違いをしてしまいそうなんだ」


「勘違い?……どんな?」


「君はただ、優しさから僕を部屋に置いていてくれてるだけだけど、僕は、このままだと君を……」


「私を?」


「――好きになってしまいそうで、怖いんだ」


 ちえりは一瞬、目を見開いた後、口元に笑みを浮かべた。


「ありがとう。すごくうれしい。……でも、それは私にとっても同じことだわ」


「同じこと?」


「だって、シン君の記憶が戻ったら、彼女や奥さんがいるかもしれないでしょ?私はただ、部屋を提供しただけの行きずりの他人だもの」


「他人じゃないよ。ちえりがいなかったら、ぼくはきっと途方に暮れたままどこかで野垂れ死んでた。君が僕を生かしてくれたんだ」


「でもね、シン君。あなたはいずれ、元の生活に戻らなきゃならない。今の生活は仮のものなの。私のことは忘れた方がいいわ」


「忘れるもんか。約束する。たとえ記憶が戻ったとしても、必ずまた君に会いに来るよ」


「だめよ、そんなことしちゃ。あなたを泊めてあげたのは私の気まぐれ。私と親しかったのは、記憶が戻る前のあなたよ。わかった?」


 僕はちえりの目を見てはっとした。口調こそ厳しかったが、ちえりの両目には、今にも溢れそうに涙がたまっていた。


「ごめん、そんな話をするつもりじゃなかったんだ。ただ、君にありがとうって言いたくて……」


「わかってるわ、そんなこと。……さあ、食事にしましょう。見て、ネオンが灯り始めたわ」


 ちえりに促されて窓の外を見た僕は、見慣れた通りの思いがけない美しさにはっとした。


「ちえり……君に会わなければ、僕は世界が美しいってことも知らなかった」


「大げさね。……じゃ、乾杯しましょう。あなたの記憶が戻ることを祈って」


「うん」


 僕はグラスを合わせながら、密かに記憶が戻るよりも今夜で時が止まることを祈った。


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