第9話 うすぐらきものよ、さぐれ
結城から電話が来たのは、僕がバイトの試用期間を追えた翌日だった。
「急で済まないが、今からこられるか?場所はH区にある『時計人』というカフェだ」
「もちろん、行けます。場所を教えて下さい」
「地図のファイルを添付したメールを送る。店は商業ビルの一階で僕は窓際の席にいる、ただし……」
「なんです?」
「実は今日もあまり時間がないんだ。あまり遅れて来られると困る」
「わかりました。できるだけ急ぎます。……僕は一度、地図を見たら忘れないんです」
「うん、まあそうだろうな」
結城は「じゃあ、あとで」と言うと通話を切った。僕はおや、と思った。
僕が地図を暗記できるというのは、ジョークと取ってくれるだろうとの思いからだったが、結城の口ぶりからするとまるで僕の能力を知っているかのようだった。
「まあいいや、急ごう」
身支度を整え終えると、待っていたかのように結城からのメールが来た。添付ファイルをあらためるとビルの位置がマーキングされた地図が現れた。
「そんなに遠くないな。三十分もあれば行けるだろう」
地図を見た瞬間、僕の頭の中に経路と所用時間が浮かんだ。こういうおかしな頭の造りは、僕が記憶を失ったことと何か関係があるのだろうか。
僕は部屋を出ると、最寄りの地下鉄駅を目指した。この前、結城と会った時はようやく自分の過去がわかるかもしれないといくぶん興奮気味だった。だが、今回は何かが違う気がした。うまくは言えないが、簡単な素性さえわかれば後はもう、知らなくても構わない。そんな気がし始めていたのだ。
※
結城が待ち合わせ場所に指定した『時計人』は、銀行と保険会社の建物に挟まれた地味な商業ビルの一階にあった。
自動ドアをくぐると、窓際の席でスマホをいじっている結城の姿がすぐ目に入った。
「こんにちは。ご無沙汰してます」
僕は挨拶すると。結城は虚を衝かれたように「あ、ああ。君か」とスマホの画面から目を離した。
「こんなところですまない。実は今日もあまり時間がないんだ」
僕が勧められるまま向かいの席に腰を据えると、結城はおもむろに身を乗り出し「率直に言おう」と言った。
「君は私を含む多くの人間が関わっているあるプロジェクトの、重要人物なのだ」
「あるプロジェクト?何の話です」
僕は面喰らった。本名は何だとか、どこに住んでいて年はいくつだとかそういう話題から入るものだとばかり思っていたからだ。
「君が突如、消息不明になったことは私も聞いていた。だが、様々ないきさつから私は君のことをてっきり死んでいると思いこんでいたのだ。だから君が連絡を取ってきたときには正直、驚くとともにまずいことになったとも思った」
「まずい?どういうことです?僕が犯罪に関係していたとでも?」
「君には何ら落ち度はない。が、ある利権のために君を探していた人間がいたことは事実だ」
「ある利権……」
僕は背筋にうすら寒いものを感じた。あの、追ってきた男たちはその利権を追ってきたということなのか。
「私がプロジェクトに君の生存を伝えれば、当然、居場所を教えることを求められるだろう。だが、それではフェアではない。記憶を取り戻したばかりの君には相手と交渉するだけの材料が何もないからだ」
「要するに、あなたは僕をどうするつもりなんですか?」
「個人的には君の記憶が戻るまで、プロジェクトに君の存在を伝えることを控えようと思う。どうするかは記憶が戻った時に君自身が決めればいい」
「そんな……記憶がいつ戻るかなんて、わからないじゃないですか。それまで僕の正体はお預けだなんて」
僕が不平を漏らすと、結城は「わかってくれないか。私の立場も微妙なのだ」と言った。
「じゃあせめて、記憶を取り戻すための手がかりをください。このままじゃ蛇の生殺しですよ」
「そうだな。君のいうことももっともだ。……じゃあこうしよう。この次、会う時は君の過去と関係のある場所に行こう。思いだすかどうかは、君次第だがね」
「過去と言うと……生まれ故郷ですか?」
「まあ、そのようなものだ。……すまないが、今日はこれくらいで失礼させてくれ。ここ支払いは私が持つ」
勇気は早口でまくしたてると、そそくさと席を立った。僕は結城が去った後の店内で、しばらく会話の内容を反芻した後、ため息をついて腰を上げた。
――仕方ない、結城から次の連絡が来るまでまたバイトでもするか。
僕は店を出ると大した成果もないまま、まだちえりが戻っていない部屋へと足を向けた。
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