第8話 過去なきものよ、いそしめ


「ふうん……答えはお預けってわけね。まあでも頼みの糸が切れたわけじゃないし、この次、聞いたらいいじゃない」


 結城と会った日の晩、ちえりは僕に笑顔で言った。あえて明るく振る舞うちえりに僕はなんといって感謝していいかわからなかった。


「私の方は、滞在が何日延びたってかまわないわ。知りたいことが全部わかるまでいていいのよ」


 僕は「ありがとう、助かるよ」と短く返した。ここで遠慮する素振りを見せれば、ちえりは逆に「水臭い」と気を悪くするかもしれない。僕はちえりの好意に甘えることにした。


 手がかりらしきものを手繰り寄せる一方で、部屋にやってきた初日に僕が感じた身体の違和感は、日を追うごとに大きくなっていった。


 食事をとっているにもかかわらず、僕はトイレに行く必要を全く感じなかった。シャワーを浴びても心地よさを感じることはなく、僕はちえりの前ではトイレに行くふりをしたり、シャワーでリラックスしたりするふりをして過ごした。


「ちえり、僕、働いてみようと思うんだ」


 三日が過ぎても結城からの連絡が一向に来ず、僕は思い切ってちえりにそう切りだした。


「いいじゃない。私が働いてるコンビニの店長さん、顔が広いの。相談してみるわ」


 ちえりはそう言うと、その翌日、僕のために本当にバイトの口を探してきたのだった。


「配送センターか。あまり人とも交わらないみたいだし、やってみようかな」


 僕はちえりのアドバイスを受けながら適当な履歴をこしらえると、面接に出かけた。結果は一週間のお試し採用という形だったが、僕は満足だった。


僕は日中、配送センターで働きながら、結城からの連絡を待った。一週間後、僕の指導担当者は感心したように「思ったより良く働くじゃないか」と言った。


「今週中に本採用にするかどうか決めるから、それまで待っていて欲しい」


 僕は何度も頭を下げ、浮き浮きした気分でちえりの部屋へ戻った。


「ちえり、今週の週末、食事に行こうよ。僕が奢るからさ」


 僕がそう申し出ると、ちえりは笑顔を見せつつ、少し困ったように眉を寄せた。


「うん、ありがとう。嬉しい。……だけど、無理しないで。私、恩返ししてほしいなんて思ってないから」


「そうじゃなくて、一度、外で君と食事がしたかったんだ。いやかい?」


「嫌なわけないじゃない。行くわ」


 ちえりは大きく頭を振った後、僕の目を見て今度は本当ににっこりと微笑んだ。


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