申し訳ありませんが引っ叩いたことは謝りません
くる ひなた
申し訳ありませんが引っ叩いたことは謝りません
目を開けると、そこは見覚えのない場所だった。
私邸の裏の湖よりも、まだもっとずっと大きな水溜まりが目の前に広がり、水平線は遥か彼方。
群青色の空にはくっきりとした丸い月が浮かんでいる。それが暗い水面に映ってゆらゆらと揺れていた。
いつの間に服を脱いだのだろう。
我が身は素っ裸で、たっぷりと湯が張られた四角い木の湯船に胸元まで浸かっていた。
と、そこまで把握して、私はぎょっとする。
「たわわ……」
くっきりと谷間を作る豊満な胸は、十八年間一緒に育ってきたものとはまったくの別物だった。
どういうわけだか、思わず零れた声まで慣れ親しんだ自分のそれとは違っている。
さらりと頬を掠めて影を作ったのは、毎日メイドが丹念に梳っていた癖のある金髪ではなく、まっすぐで艶やかな黒い髪だ。
そうして、湯船の中から呆然とこちらを見上げている見知らぬ女性の顔が、湯に映り込んだ今の自分のそれだと気付いた時、私は夢でも見ているのかと思った。
ざばり、と勢いよく湯の中から立ち上がれば、プカプカと浮いていた丸いトレイの上で細長い陶器が倒れ、中に入っていた透明の液体が零れる。
湯船の木の枠を跨いだ足は、自分のそれよりも明らかに長かった。
湯船は木造りのバルコニーに置かれ、開け放した窓の向こうにはこぢんまりとした部屋がある。
それにしても、一年の半分以上が雪に覆われ、国土の三分の一を永久凍土が占める国――ウィンダリア王国で生まれ育った私にとって、素肌を外気に晒すなんて考えられないことだったが、この時は不思議と寒さを感じなかった。
私はきょろきょろと辺りを見渡しながら、湯船の側の台に引っ掛けられていた大判のタオルを身体に巻き付ける。
靴はどこにも見当たらなかったため、仕方なく裸足のまま部屋の中に踏み込んだが、麦わらを編んだような敷物は思いのほか足の裏に心地よかった。
そうして、部屋の隅に置かれていた姿見の前に立った私は、再び呆然とする。
そこに映っていたのは、私とは似ても似つかぬ女性の姿だった。
「まるで、あの人みたいだわ……」
男の隣に立ち、まだ膨らんでもいないお腹を撫でて申し訳なさそうな顔をした女を思い出し、私は遠い目をした。
十八年――ウィンダリア王国の名門シュバリエ公爵家の長女として生まれ、国王陛下と一緒に過ごした時間だ。
両親を早くに亡くし、幼くして玉座に就いた陛下は、寂しさを紛らわせるように私を常に側に置きたがった。
けれども、私は彼を好きだなんて、ただの一度も思ったことがない。
私が正妃になるのを夢見る母の手前、勝手に婚約者みたいに扱われるのにも甘んじていたが、自分が好かれていると信じて疑わない陛下の言動には辟易していたのだ。
思い込みの激しい彼が派手に散財しては私のためだと宣うものだから、こちらが白い目で見られていい迷惑。
だから陛下が、クーデターで国を追われた同盟国の王女殿下に惹かれるのなんて、むしろ大歓迎だった。
貞節を重んじる我が国において、王女殿下と婚前交渉の末に御子を儲けた時はさすがに呆れたが。
王女殿下は、私が今動かしている女性のように大人っぽくて色気のある人だった。強かな彼女は、王家の再興のために陛下に取り入っただけで、おそらく私と同様に彼を愛してなんかいないだろう。
それでも、これでようやく陛下から解放される。そう思ったのに――
「私が哀れだから側妃にしてやる、ですって? ――お断りだわ」
この期に及んでも、陛下は私に愛されていると思い込んでいた。だから、どんな仕打ちをしても私が離れていくことはないと考えたのだろう。
正妃の座は第一子となる男子を産んだ王女殿下のものだが、私のことは側妃として後宮に置くという。
のんびり屋の私が政務に携わるのは無理だと勝手に決めつけ、陛下の横暴に容易く同調した周囲にもがっかりだ。
何より、不敬罪も覚悟で陛下の緩んだ顔を引っ叩いてやれなかった、あの時の自分の意気地なさに絶望した。
家に帰れば、待っていたのは母からの叱責。
お前など産むのではなかったと言われたのに、こっちだって産んでほしくなかったと言い返せなかったのは、母の期待を裏切ってしまったという罪悪感のせいだ。
跡取りの男子がなかなかできないことで祖母に詰られ、父は無関心。七年前に弟が生まれるまでは、母は私を正妃にすることだけを生き甲斐にしていた。
やっとのことで儲けた弟は、何故だか母にはまったく懐かず、その代わり姉の私にベッタリだった。
それが面白くない母はますます私にきつく当たり、父は相変わらず見て見ぬふり。
陛下と王女殿下の結婚式の夜なんて特に、家の中に居たら息が詰まりそうだった。
「だから、腹いせに父様の秘蔵の酒をありったけ持ち出して、湖の畔で栓を開けたはずなのだけれど……?」
ワインを一口含んだところで、カッと身体中が火照ったところまでは何とか覚えているが――次に目を開けると、そこは冒頭に述べた通り見覚えのない場所で、何故だか私は凍て付く湖の畔ではなく、温かな湯船の中にいたのである。
しかも、身体は私自身とは似ても似つかない見知らぬ女性のものだ。
腰まであった長い金髪は艶やかな黒髪になって肩の上で切り揃えられ、雪の反射が堪え難かった薄い水色の瞳は意志の強そうな焦げ茶色に変わっていた。
顔の造り自体全然違うし、見た目の雰囲気なんて正反対だ。
どこもかしこも慎ましやかな上、童顔で人になめられがちだった私自身に対し、こちらはすらり長い手足と豊満な胸、さらには異国的な大人っぽい顔立ちをしている。
もしもあの時、私がこの人のようだったならば、理不尽な陛下の横っ面を引っ叩くことができただろうか――そんな詮無いことを考えていた時だった。
「――岸辺様、お膳をお持ちしました」
「……っ、は、はいっ!?」
突然聞こえてきた女性の声に、私は反射的に返事をしてしまった。
もしや、〝キシベ〟というのが今私が動かしている女性の名前だろうか。
畳んで置かれていた薄いローブのような衣服を慌てて素肌に引っ掛け、側にあった幅広のベルトで留めようとするものの、どうにもこうにもすぐに前がはだけてしまう。
にもかかわらず、私が返事をしたものだから、声の女性が扉を開いて部屋の中に入ってきてしまった。
「あら! まあまあ、失礼しました! お着替えの最中でしたか!」
現れたのは、私の母くらいの年頃の女性だった。
黒髪をすっきりと結い上げ、上品な水色のローブみたいな身頃の前をきっちりと合わせて、私の手にあるものよりさらに幅広の白いベルトで留めている。
女性は半裸で立ち尽くす私に驚いた様子だったが、すぐに微笑みを浮かべて続けた。
「ご迷惑でなければ、着付けさせていただきましょうか?」
「お、お願いします……」
こうして、親切な女性――ナカイさんというらしい――のおかげで無事衣服は身に着けられたものの、相変わらず状況は呑み込めない。
途方に暮れた私は、お困りのことがありましたらなんなりと、と言ってくれたナカイさんの厚意に縋ることにした。
とはいえ、この身体の持ち主であるキシベという女性と、こうしてしゃべっている自分は全くの別人である、なんて言っても信じてはもらえないかもしれない。
自分でも、いまだにこれは夢なのではないかと思っているほどだ。
そのため私は、湯船に浸かっている間に記憶がなくなってしまい、ここがどこなのかも、自分が誰なのかも分からないとだけ話してみた。
するとまた、「あら! まあまあ!」と驚いた顔をしたナカイさんだったが……
「それは、さぞ不安でしたでしょう。よくぞ、打ち明けてくださいましたね」
私の両手をぎゅっと握り締めて優しく労ってくれたものだから、たちまち鼻の奥がツンとした。
だって、陛下に散々な仕打ちを受けたというのに、私を労ってくれる人なんて今まで誰もいなかったからだ。
しくしくと泣き出した私を抱き寄せたナカイさんは、ナイセンとかいう絡繰りでもって、この施設の責任者だというオカミさんを呼んでくれた。
すぐさま駆け付けてくれたオカミさんは、ナカイさんと同じ年頃――つまり、母と同年代と思われる女性で、やっぱり私を労ってくれたものだから涙はなかなか止まらない。
泣き止んだら泣き止んだで、今度は次々と運ばれてくる料理に目を丸くした。
戸惑う私にオカミさんが、「お代はすでに旅行会社を通じていただいておりますので、どうぞ安心して召し上がってください」と勧めてくれる。
どれもこれも見たことのないものばかり。
色とりどりの器に盛り着けられた料理はまるで芸術品のようで、食べてしまうのがもったいないほどだったが、食べたら食べたでその繊細な味付けに私はいたく感動したのである。
ちなみに、食事にはナイフやフォークではなく細い二本の棒を使う。
ハシと呼ばれるそれを使うのは初めてだったものの、身体が覚えていたらしく、難なく食事ができたのは幸いだった。
そんな身体の持ち主の名前はキシベマリというらしい。
『岸辺真理』
この施設に到着した際に記帳したという彼女の文字を見せてもらったが、羨ましいほど力強いものだった。
年は二十七歳で、私より十歳近く年上である。
オカミさんとナカイさんは、記憶を無くしたと言う私の迎えを親族に頼もうとしてくれたものの、連絡先が分からず頭を悩ませていた。
そんな中、私がふと手に取ったのが、窓辺のテーブルの上に放り出されていた手帳。
その間から滑り落ちて、ひらりと木の葉のように舞ったのは、掌に乗るくらいの小さな紙切れだった。〝メイシ〟というらしい。
それを拾い上げてまじまじと眺めたオカミさんとナカイさんが「これだ!」という顔をする。
メイシに書かれていた名前を読み上げてもらったところで、私には全く覚えがないが、マリさんが懇意にしていた人なのだろうか。
オカミさんが連絡を取ると、その人は明日の朝一番に私を迎えにくると言ったそうだ。
食事の後はテーブルを部屋の端に寄せ、ナカイさんが寝床を用意してくれた。
ベッドではなく床の上に直接寝具を敷いて眠るのは戸惑ったけれど、麦わらを編んだみたいな敷物は何だかいい香りがしたし、寝具もふかふかでびっくりするほど寝心地がよかった。
そうして翌朝、ナカイさんに手伝ってもらってマリさんの鞄に入っていた衣服を身に着け、また目の前にずらりと並んだ異国風の朝食をいただいていると……
「――河野さん!」
息急き切って部屋に飛び込んでくる者がいた。
縁の細い眼鏡をかけ、短い黒髪を後ろに撫で付けた理知的な雰囲気の男性である。
年は、マリさんと同じくらいだろうか。ぱりっとした襟の白いシャツに濃紺のジャケットとズボン、柄の入った赤いネクタイを結んだ、華美ではないがきちんとした身形をしていた。
それにしても、どうしてマリさんを〝キシベ〟ではなく〝コウノ〟と呼ぶのだろう。
開口一番そう疑問をぶつければ、男性は一瞬息を呑んだものの、丁寧に事情を説明してくれた。
曰く、マリさんは少し前に離婚をして、コウノから旧姓のキシベに戻ったのだそうだ。
離婚原因は夫の浮気で、相手の女性は妊娠しているらしい。
それを聞いた私は、何だか他人事とは思えなかった。
ともあれ、男性が離婚協議に立ち会った際、マリさんがまだコウノを名乗っていたため、先ほどはうっかりそちらで呼んでしまったのだそうだ。
協議の末、マリさんは元夫と相手の女性から相応の補償を勝ち取ったらしい。
理不尽に毅然と立ち向かった彼女に、私はますます憧れを抱いた。
「僕は瀬戸といいます。あなたの弟さん……優吾君っていうんですけど、彼とは古い付き合いでしてね。今回、あなたを心配した彼から、弁護士として姉の相談に乗ってほしいと頼まれたんですよ」
「弟……ユーゴ……?」
奇しくも、マリさんと私の弟は同じ名前だった。頼りになる弟を持ったマリさんが羨ましくなる。
セトさんの職業である弁護士とは国家資格を得た法律の専門家で、様々な問題に直面した人の相談に乗ったり交渉したりする仕事だという。
ナカイさんとオカミさんが彼に連絡したのも、昨夜手帳から滑り落ちたメイシからその肩書きを知ったせいらしい。
様々な問題に直面した人の相談に乗ったり交渉したりする仕事ということは、今私が直面しているこの不可思議な状況にも対応してもらえるのだろうか。
私は少しだけ迷ったものの、セトさんに全てを打ち明けることにした。
自分が実はマリさんとは別人で、こことは違う場所で生まれ育った十八歳の女だということを。
「……解離性同一性障害かな? だとしたら、離婚によるストレスが原因か……」
セトさんは難しい顔をして何やらブツブツと呟いていたが、私が「信じられないかもしれませんが」と俯くと、慌てて首を横に振る。
「あなたが嘘を言っているなんて思いませんよ。そもそも、僕にそんな嘘をつくメリットがないでしょう? ……そうですね、今の話は一旦僕とあなたの秘密にしましょう。便宜上、あなたのことは真理さんとお呼びしても?」
「はい、問題ございません」
「では、真理さん。ひとまず家に帰りましょうか。大丈夫、僕がちゃんと送りますので安心してくださいね」
「お世話になります」
こうして、お世話になったナカイさんとオカミさんに見送られ、セトさんに連れられて施設を後にした私だったが――外の世界にたちまち圧倒されることになる。
セトさんが操る〝クルマ〟という絡繰りは、馬車よりさらに早いのにほとんど揺れないし静かだった。
窓の向こうで次々と後ろに流れていく景色は、なにもかもが私が慣れ親しんだものとは違う。
そこに行き交う人々もその服装も、私の目にはひたすら奇抜に映った。
今は〝レイワ〟と呼ばれる時代で、ここは〝ニホン〟という島国らしい。
私がマリさんの身体で目覚めた時に目の前に広がっていたのは海だったようだ。
海といえば、私はこれまで北の果てにある流氷に覆われたものしか見たことがなかった。
ニホンにも王はいるものの、国民の代表が政治を行う民主主義国家であるという。
陛下の理不尽に人生を振り回された私としては、羨ましいばかりだった。
私が外の景色を夢中で見ていたから気を利かせてくれたのだろう。
セトさんは休憩と称して、〝しょっぴんぐもーる〟なる広大な施設に立ち寄ってくれた。
そこでご馳走になったのは、ふわふわのミルクの泡が載った紅茶で、なんとお洒落な絵が描かれた紙のカップに入っている。
物珍しくて、私はそれを矯めつ眇めつ眺めた。
そんなに珍しいですか、と問われたのに大きく頷く。
「だって、不思議です。紙なのにどうして紅茶が染み出してこないのでしょう? 手で持ってもこんなに熱くないなんて……」
「防水加工が施された上、二重構造になっているからですね。うん、しかし……なるほど、これがギャップ萌えというやつか」
「もえ?」
「いやいや、可愛らしいな、と」
セトさんは〝ぶらっくこーひー〟なる真っ黒いものを飲みながら、向かいの席でにこにこしている。
まるで幼子を見守るような眼差しに、少しだけ恥ずかしくなった。
結局のところ、セトさんは弁護士という立場でマリさんの離婚協議に立ち会いはしたものの、それ以外で彼女と親交があったわけではないらしい。
身体と人格が別物だなんて相談も、今まで受けたことはないそうだ。
にもかかわらず、さほど親しくもない相手から奇天烈な相談をされて、きっと迷惑でしかないだろう。
それを申し訳なく思いつつも、状況が状況だけに不安で堪らない私は、しょっぴんぐもーるを歩く間もことあるごとに彼の腕に縋ってしまう。
最終的には、小さな子供みたいに手を繋いでもらったが……
「僕でよければいくらでも頼ってください。むしろ役得ですよ」
嫌な顔一つ見せずそう言ってくれたセトさんに、胸がトクンと高鳴った。
彼の紳士的な笑みに重なったのは、ずっと秘かに思いを寄せていた人。
陛下の乳兄弟である侍従も私に優しくて――けれど、彼の一番はいつだって陛下だった。
「――真理! お前、その弁護士とできてやがったのか!」
セトさんに連れられて辿り着いたマリさんの家――幾つもの世帯が共有する背の高い建造物の一室、その玄関扉の前には、これまた見知らぬ男性が待ち構えていた。
セトさんと同じくらいの年齢のようだが、彼に比べれば随分と草臥れているように見える。
襟もないシャツを着て、所々破れたり解れたりした青いズボンを履いた姿はあまりにも哀れ。
私の、というかマリさんの顔を見たとたんに激昂した相手に困惑していると、セトさんが「真理さんの離婚した旦那さんですよ」とさりげなく耳打ちしてくれた。
その間も元夫らしい男性は、「離婚してすぐに男を作るなんて!」「本当は前からその男とできていたんじゃないのか!」と喚いている。
どうやら、マリさんがセトさんと一緒に朝帰りをしたと勘違いして怒っているようだが、そもそも彼女が誰とどう付き合おうと、すでに離婚が成立した元夫にとやかく言われる筋合いはないのではなかろうか。
セトさんも同じことを思ったのか、呆れたようなため息を吐いた。
「彼女が僕と面識ができたのはあなたと離婚の話が出てからですよ。逆を言えば、あなたが浮気なんて馬鹿なことをしなければ、僕達は出会ってさえいなかったかもしれません」
セトさんが落ち着いた口調で諭すように言う。
すると、元夫はそんな彼を睨みつけ、何やら恨み辛みを吐き出し始めた。
マリさんが仕事に夢中で自分に構ってくれないのが気に入らなかった。
いつの間にか彼女の方が収入が多くなっていて面白くなかった。
母のように自分の身の回りの世話をしてくれないのが不満だった。
そして、離婚すると言えばマリさんが追い縋ってきて、自分が優位に立てるんじゃないかと思っただけで、本意ではなかった、と。
なんともまあ、よくぞここまで臆面もなく身勝手を並べ立てられるものだと呆れ返る。
そんな私の手を元夫がいきなり掴んだ。
「真理! なあ、俺達やり直そう! あの子との結婚は白紙に戻したんだ!」
「白紙に? 子供ができたのでは……?」
「あんなの、本当に俺の子かどうかも分かるもんか! あいつ、俺と大学生の男と、二股かけてたんだぞっ!」
「二股……」
男性を二人も手玉に取るとは……その逞しさ、少しは分けてもらいたいものだ。
私はそう他人事のように感心する。実際、他人事だった。
特に言うこともないので黙っていると、私が、というかマリさんの気持ちが揺らいでいるとでも思ったのか、元夫が猫撫で声になって続ける。
「雨降って地固まるって言うじゃないか。絶対、前よりうまくやれるって」
それは、浮気した側が言うべき台詞ではないのではなかろうか。
この期に及んで上から目線で口を利けるのは何故だろう。
マリさんは、いったいこの男のどこを好いて結婚したのだろう――少しだけ、マリさんの元夫に興味が湧いた。
だから、ついつい彼をじっと見つめてしまったのだけれど、これがいけなかった。
彼の話に耳を傾けている、つまり脈ありと勘違いさせてしまったばかりに、あんな言葉を聞く羽目になったのだ。
「真理さん」
窘めるようにセトさんが呼ぶ。
すると、何故か勝ち誇った顔をして彼を一瞥した元夫が、意気揚揚と口を開いた。
「分かってるんだぜ。どうせお前――まだ俺のことが好きなんだろう?」
その瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
マリさんの元夫の身勝手さには呆れたものの、所詮は他人事だったのだ。
けれども、今の言葉はだめだった。
それだけは――相手が自分を好いていると自惚れた上で身勝手を押し通そうとする思考回路は、陛下とそっくりで――とてもじゃないが看過できなかった。
そして、私が何より許し難かったのは、そんな男の傲慢を拒絶することもできなかった、あの時の自分自身の不甲斐無さ。
――パンッ!
気が付けば、私はマリさんの元夫の手を振り払い、その頬を思いっきり引っ叩いていた。
私達以外に人気のない石造りの廊下に、乾いた音が響く。
十八年の人生で、誰かをぶつなんて初めての経験だった。
掌がじーんと痛む。
誰かを痛め付ければ自分もこんなに痛いんだ――そんなことを、私はこの時初めて知ったのである。
けれども今は、痛みさえも何だか誇らしかった。
新しい人生が、今まさに始まったように思えた。
そんな私の感動とは裏腹に、いきなり引っ叩かれて呆然としていた元夫が我に返り、顔を真っ赤にして怒り出す。
殴り返そうというのだろう。彼が腕を振り上げた。
私が先にぶったのだから、彼にもやり返す権利がある。いたしかたない。
ただ、この身体の持ち主であるマリさんにだけは申し訳なく思いつつ、私が痛みを覚悟してぐっと歯を食いしばった時だった。
「――そもそも」
ぐいっと後ろに引き寄せられる感覚がしたかと思ったら、ちっと舌打ちが聞こえた。
前者がセトさんで、後者がマリさんの元夫である。
背後から左腕でマリさんの身体を抱き寄せたセトさんは、右手でもって彼女の元夫の拳を掴んでいた。
それにしてもこの男、拳でマリさんを殴ろうとしていたのか、とぞっとする。
彼の拳をギリギリと締め上げるセトさんの手の甲には筋が浮き、ジャケットとシャツの袖からちらりと覗いた肌には青っぽい紋様が見えた。
「このマンションの名義人は真理さんでよね。すでにここの住人ではないあなたが、勝手に玄関のオートロックを解除して入ってきたとなれば、場合によっては住居侵入罪に問われます。三年以下の懲役または十万円以下の罰金に処されますが――いかがなさいますか?」
とたん、真っ青な顔になった元夫が、セトさんの手を振り払って逃げ出す。
おかげで仕返しを受けないで済んだ私は、みるみる小さくなっていく背中に向かって、セトさんの腕に抱かれたまま叫んだ。
「申し訳ありませんが引っ叩いたことは謝りません!」
掌にはまだ、彼の頬を引っ叩いた感触が残っている。
けれども、こんなに清々しい気持ちになるのは、生まれて初めてだった。
自然と口角が上がり、頬が上気する。
まるで長い長い夜が明けたように、目の前がぱあっと明るくなった気がした。
その時である。
あっはっはっ、と快活な笑い声が後頭部に降ってきた。
ぎょっとして振り返れば、セトさんが満面の笑みを浮かべている。
彼は両目をぱちくりさせる私を抱き直すと、さも愉快そうに続けた。
「いやあ、実にいい啖呵だ。ええ、ええ、あなたがあの男に謝る必要なんてあるものですか。ヤツがこれ以上あなたに付き纏うようでしたら……そうですね、僕が始末を着けましょう」
とても優しい声だった。
私を見つめる眼差しも柔らかい。
それなのに、どうしてだろう。
私の全身には鳥肌が立っていた。
申し訳ありませんが引っ叩いたことは謝りません くる ひなた @gozo6ppu
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