第133話 女神の世界樹



「足下、気をつけろよ?」

「大丈夫だ。下りは上りよりも慎重に進め、というのが登山の基本だからな」

「さっき飛び下りて転んでたじゃねぇか」



 ネクロマリア大陸の西部、ネクロ山脈の北に突如現れた巨大な木。


 それは、女神の世界樹と呼ばれた。



 その頂点はネクロ山脈よりも高く、雲に届きそうなぐらいに巨大だ。直径も根の太さも桁違いの大きさで、その重量で一体どうやって維持できているのか誰にも分からない。


 枝は広範囲に広がっているにも関わらず、頑丈で折れない。そして薄く軽い葉が青々と生え揃い、空の光をほんのりと透き通していた。


 その葉は沢山の魔力を保有していた。葉が風に乗って舞い落ちると、落ちた場所にはじわりと魔力が浸透していく。そうして魔族の地は、少しずつ魔力の回復を始めていた。



「既に鬱蒼としているな」


 ムラカはその根元を散策していた。

 地面に届く光は少ない。



「俺達の里によって比べりゃ、天国だぜ」

「だが、これからは光の魔法も使っては駄目だからな。生活は不便になるだろう」

「何言ってんだよムラカ。蓼科の便利道具が売れるチャンスじゃねぇか。一儲けして俺達の豪邸を建てようぜ!」

「お前はミアと同じような事を言うな、まったく……ふふ」


 ムラカは柔らかく頬笑んだ。

 この男のいい加減な所は嫌いでは無い。

 


「――随分としおらしいわね、ムラカ」


 そんなムラカを煽る、もう一人の女性の声。

 2人の後ろを続いて歩いていた、リヨンだ。



 リヨンの洗脳は完全に解けていた。その振る舞いは、ラクス救助隊の頃と何も変わっていない。手錠などもされておらず、普段と変わらない姿だ。


 あの黒い猿グノーの長は、魔族の欲望に取り入って操っていた。リヨンがふとマチコデに惚れそうになった時、黒い猿グノーの眷族にその心を乗っ取られたのだ。


 それはカンドロールを含め、他の操られていた統率者達も同様だった。いつの間にか自由を奪われて、今はその時の記憶すらも薄らいでいた。そのため、ルカンとヴェンは誰の罪も問わなかった。内々で処理しようと決めたのだ。



「リヨン、マチコデ様はご結婚されたぞ」

「聞いているわ」

「お前も早く伴侶を見つけろ。そして私と一緒に山を登ろう。お前は精神的に幼いから、山に登って心を鍛えた方がいい」

「……ルカン兄、ムラカはどうしちゃったの?」


 リヨンはあきれ顔でルカンに問いかける。


「我が妻は、山に心を奪われてんだよ」

「でも、ネクロ山脈って荒れ放題でしょ?」

「ネクロ山脈じゃねぇ、八ヶ岳だ」

「やつ……はぁ?」


 八ヶ岳とは何の事だとリヨンが聞こうとした時、空からぽたりと雫が垂れてきた。



 リヨンは上を見上げた。


 真上の木の枝は高すぎて分からない。空も葉で覆われている。あの葉の向こう側では、雨が降っているようだ。


 ここ最近、曇天の空を晴らすかのようにこうして定期的に雨が降るようになった。全てはエスティの仕業だったが、その仕組みがどうなっているのから誰にも分からない。生き残った下級魔族は雨に打たれると魔力に分解されるため、ネクロマリア大洞穴で暮らすようになっていた。



「……雨と葉が魔力を再生させる。そのうち川が出来て緑が育まれ、柔らかな日の光が注ぐ。美しき世界の幕開けだぜ」

「でもルカン兄。この魔力ってこの木の周りだけじゃない。魔族が密集するよ?」

「それを管理するのが俺達の仕事だ」



 枝を乗り越えた先、やや低い位置に、魔族が集まっている広場が現れた。


 何も無い、広く開けた平地だ。地面は荒野の岩場が残り、土ですら無い。だが、たまたまこの辺りは根が張っておらず、魔力の葉が沢山振ってくる場所だった。そのため統率者達はここで魔力を吸収していた。



「――――ですから、エスティ様は偉大なのです! 手紙にはこうも書かれておりました――」


 その広場の真ん中で、枯木の精霊ドリアードがエスティの素晴らしさを熱弁している。


 枯木の精霊ドリアードの話には、大小様々な魔族が興味深そうに耳を傾けていた。オークに毒グモ、お互いの命を奪い合った天敵同士までも。そんな彼等が、エスティについての熱弁を静かに聞いている。


 ルカンは胡座をかいて根に座った。そしてひじをついて手に頬を乗せ、嬉しそうにその様子を見下ろした。



「やれやれ……俺ぁ、あそこの奴らの仲裁に失敗したんだぜ。それが、まさかこうなるとはねぇ。こんな平和な光景、他に無いぜ」


 それはリヨンも同じ思いだった。これだけ凶暴な種族が集まっているのに、どこにも争いは起きていない。夢でも見ているかのようだ。



「ルカン。あの枯木の精霊ドリアードは確か、エスティに殺されかけたんじゃなかったか?」

「らしいな。すっかり信者になっちまってる」

「宗教でも始める気か」

「お、それも一儲け出来そうだな!」

「ふふ、またそれか」


 ルカンが立ち上がった。

 そして、3人で広場へと降りていく。


 木の根はどこも新しく、ツルツルとしていて滑らかだ。踏み外して落ちないように、両手を使いながら慎重に進む。



「――皆、静かにせよ!」


 その時、広場から威厳のある声が響いた。



「お? ムラカの使い魔様だぞ」

「……使い魔なのに、全然顔も見せないがな」

「ははっ、拗ねるなよ。ヴェン様は魔王業で忙しいんだ」

「元はお前の仕事だろう、まったく……」


 ヴェンの登場で、3人は再び足を止めた。



「女神様から、この国の名を授かった」


 魔族達が響めく。



「本日からこの世界樹の影の国をを、『オフロカンパニー』とする!!」


 響めきが、大きな歓声へと変わった。


 言葉の意味など誰も気にしていない。ここは、女神によって生命の源である魔力を授かる事が出来る国、その事実だけで十分だった。



「……おいルカン」

「俺も知らねぇよ」

「このままだとやりたい放題だぞ。あいつは多分、1年ごとに国名を変えるな」

「それも経典に書いとかなきゃな!」

「はぁ……」


 ムラカが呆れていた時、周囲の警戒に当たっていたクーリが現れた。



「――あ、ルカン様!」

「ようクーリ、お疲れさん。元気そうだな」

「ルカン様もお元気そうで何よりです。里の移動の方は順調なのですか?」

「おうよ。皆、こっちに向かってる所だ」


 魔族の王の住まう国、ダークエルフの里は、この世界樹の下に移動する事になった。それには2つの目的があった。


 1つは、魔力を平等に各種族へと分け与えるよう管理をするためだ。それはダークエルフの里のスタンスと変わらない。魔王の座をそのままヴェンが引き継ぎ、この辺の調整を取り持つ。交友関係が広く、交渉事が巧みだからだ。


 そして、2つ目の目的は――。



「……例の魔法陣の調子はどうだ?」

「相変わらず稼働し続けています。ただ誰も読めないので、調子は分かりません。消されても問題は無いと思いますが」

「ま、大人しく従っておこうぜ」


 世界樹の根元には、かつて古城が建っていた。


 その地下には雨を降らす魔法陣があり、今も稼働し続けている。下級魔族に影響の大きい魔法陣だが、雲が散るまでは止められない。割れた地面を進めばそこへ辿り着ける事が出来てしまうため、エスティからは秘匿と警戒を頼まれていた。


 この世界樹と魔法陣を守る事。

 それが、ルカン達の当面の役目だ。



 丁度その時、魔力の葉がはらはらと舞い落ちてきた。


 広場にいた魔族達は空を見上げた。歓声が更に大きな喜びに変わる。まるで新たな国の誕生を女神が祝福しているかのようだと、誰かが叫んだ。



「……そういえばルカン様、枯木の精霊ドリアードの集会に女神らしき姿があったそうですよ。面を付けたまま世界樹に腰掛けて、うんうんと頷きながら聞いていたそうです。お会いしましたか?」


 クーリの言葉に、ムラカとルカンは目を合わせた。そのまま目で会話を交わし、お互いに聞いていない事を察した。



「……あいつは気まぐれだからな」

「今は遊ばせておいてやるぜ。だが、宗教を創始する時には連れ戻してやる」

「ルカン、お前本気なのか?」

「だって最高に面白そうじゃねぇか。エスティ教の経典を作ったのはルカン、みたいになるんだぜ?」

「ふふ、まぁいいさ」


 3人はクーリと共に、ようやく広場に降り立った。ヴェンはその姿に気付いたが、枯木の精霊ドリアードはこの状況に夢中なようで、更に言葉に熱がこもる。



「――さぁ皆様、これからより多くの人々にエスティ様の教えを広めるため、エスティ教に入信しましょう! お布施はひとつ、銀貨5枚です!!」


 枯木の精霊ドリアードは【弁当箱】から、薄い魔力が込められた葉を配り始めた。どうやら、入信申込書を兼ねたお布施のようだ。魔族がこぞってそれを手に入れようと、枯木の精霊ドリアードの周りに集まってくる。


 4人もヴェンも、呆気にとられた。

 いつの間に準備したのか。



「……先を越されたな、ルカン?」

「ほう、中々のやり手じゃねぇか。じゃあ俺があいつを採用すれば、エスティ教を好き勝手に出来るって訳か」

「ふふ、そろそろエスティに報告するぞ?」

「やめてくれ、全部冗談だよ」


 ルカンは両手を挙げて、ムラカと笑い合った。


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