第131話 黒い猿と時空の魔女



 ガラングは、信じられない光景を見ていた。


 ネクロ山脈が赤く光っている。

 あれが全て、魔族の目の光だというのだ。



「――全軍、徐々に後退しろ」

「あんな数、一体どこに……」

「お前も下がれ、枯木の精霊ドリアードよ」


 魔族の雪崩は一旦ミラールに敷かれた罠で停止するだろう。だが、それも結局は一部だけだ。ラクス山脈の東西に関しては、冒険者達の防衛力に期待するしか無い。


 とてもじゃないが、困難を極める戦だ。



「確かに、滅びという言葉が相応しいな」

「ガラング様……」

「崩壊というのは、得てしてこのような状況から起こるものだ。どれだけ綿密な計画を練ったとしても、必ずこうして反旗を翻す異分子が現れる。だが同時に、その解も必ず現れるのだ。今回は生き残れば勝ちだ、後退せよ」


 生き残れば勝ち。

 ガラングには確信があった。

 いや、正確にはつい先程、確信が生まれた。


 エスティから届いた、手紙を読んで。



 『全軍撤退を。最後は私が処理します』。



 ガラングは空を見上げ、見えないグラスを掲げた。同じ空の下にいるあの旧友とは、もう運命は分かたれた。



「さらばだカンドロール。また飲もう」



◆ ◆ ◆



 山が崩れ落ちても、その行軍は止まらない。



 この突如現れた赤い目の魔族は、なんとたった一種族だけ。黒い猿グノーと呼ばれる魔族の亜種だ。


 その姿に大きな特徴は無い。全身に黒い毛が生えており、背は低く丸まっているだけだ。攻撃方法は長い手足で敵に飛び付いて爪を薙ぐという、どこにでもいるような魔族だった。


 そして山頂の横穴に、その亜種の長がいた。



「――赤爪獣チョドウが堕ちました」


 その長に対して、カンドロールは静かに報告をした。


 長は黙ったまま動かない。

 何の反応も無い。


 黒い猿グノーは元々、言葉を持たない種族だ。念話のようなもので意思疎通を図る。亜種である彼らも同様だった。


 しかしこの突然変異である亜種には、念話に関する恐ろしい特性を持っていた。



 まず、他の魔族を洗脳する事が出来た。それは統率者も含め、あらゆる心を浸食する魔法のようなものだ。


 そしてもう1つ、この亜種は生存能力と繁殖力が恐ろしく高かった。この荒野の世界でも他の魔族を操って増殖していったのだ。この2つの能力を使って、黒い猿の亜種は圧倒的な数の軍団を作り上げていたのだ。


 だが、亜種単体では戦闘能力は高く無い。これは長も同じだった。長はただ単に、、最初に洗脳する力に気が付いただけなのだ。それからは、本能のままに侵略を行った。



 そんな長の目の前に、異分子が現れる。



「――――なるほど、貴方が頭ですか」



 どこからともなく聞こえたその声。

 全員が身構えた。

 いや、身構えるように黒い猿グノーからの命令が出た。



「お前は……ぐおぉっ……!?」

「エスティと言います。その節はどうも」


 エスティは、最初から姿を現していた。

 その身から圧力が放たれる。 


 この横穴には黒い猿グノーの他に、カンドロールを含めた数名の人型統率者しか見当たらない。エスティは完全に姿を見せているが、この状態で影響を受けないのは長だけのようだ。



「貴方に一つだけ確認したい事がありまして。まず、意思の疎通は出来ますか?」


 エスティは黒い猿グノーの長に問いかける。

 だが、当然ながら長からの返事は無い。


 黒い猿グノーはじっとエスティを見つめていた。そして突如、カンドロールからひねり出されたような低い声が流れ出した。



「お前は……何者だ……」


 エスティはその状況を瞬時に理解した。



「……なるほど、他人の口を借りますか。私はエスティ。貴方こそ何者でしょう?」

「――魔神」

「まじん?」


 黒い猿グノーはゆっくりと立ち上がった。そのまま、エスティと対峙する。そして、隣にいた四つん這いの側近のフードを取り、爪を首に当てた。



「リヨン――!?」

「動くな……」


 エスティが止まる。


 脅しのつもりのようだ。最初から自分が現れる事を想定していて、リヨンとの繋がりも、自分の心の甘さも知った上で。


 リヨンはエスティの力で動く事は出来ない。


 黒い猿グノーとは少し距離がある。

 魔法で相打ちにはできるだろうが――。



「……私はかつてラクリマスと呼ばれた、魔法の創始者の一人です。私がここに来たのは、貴方と取引をするためです」


 そう言って、エスティは空間から魔石を一つ取り出した。かつてダークエルフの里に収めた、魔力が溢れ出す魔道具の一つだ。



「これを差し上げます。その代わりに、全ての下級魔族を撤退させて下さい」


 黒い猿グノーは動かない。

 体をふっと震わせ、身構えた。

 笑っているようだ。



「……甘い」


 その言葉を合図に爪が動いた。

 リヨンの首を目掛けて、真っ直ぐに。


 血を見る前に、エスティの瞼が閉じる。



(――ここまでですね)




 エスティは、時間を巻き戻す呪文を発動する。




◆ ◆ ◆



 その一団に気が付いたのは、数分前だ。


 エスティは魔法陣を書き換えた後、一旦ロゼを蓼科に送った。そして再びネクロマリアに戻り、敵の本陣を探している時、ネクロ山脈の一角に魔力が集まっている場所を見つけた。山頂付近で景色が良く、ラクリマスであった頃にたまたま訪れていた場所だ。


 そこからカンドロール特有の魔力を感じた。毒々しい魔力を聖属性で上書きしたような、他には見ない不気味な魔力を。



(二度はありません)


 時間を巻き戻したエスティは、再び黒い猿グノーの長の背後に転移した。そして黒い猿グノーの首に【時空セーバー】を密着して起動する。


 出力は最小。

 だが、長の首があっけなく転げ落ちた。



「な……お前……は……!」


 それは、あまりにも理不尽な攻撃だ。

 決着は一瞬で付いていた。



「……神という称号があると、特殊な力が芽生えるようですね。私は他者に威圧を与え、貴方は服従を強要する。称号とは不思議なものです」


 この場でエスティに抗える者は誰もいない。それどころか、黒い猿グノーを倒してから全員が眠ったように気絶していた。



「――――んん!?」


 死んだ訳では無いはずだ。

 エスティは慌てて意識を失っているリヨンに触れ、確認する。



「生きてますね……ふぅ」


 だが魔力は空っぽに近い。黒い猿グノーに魔力を送り続けて一時的に枯渇した状態だ。



 エスティは周囲を見渡した。


 この現状だけを考えれば、リヨンやカンドロールもずっと操られたままだったのだろう。魔力集めに使われていただけのようにも思える。


 それで罪が消えたわけではない。

 だが、多少は許される。許されて欲しい。



 エスティは外に出て、山を見下ろした。


 魔族の足音で埋め尽くされていた山が、今は死んだように眠っている。黒い猿グノーは全ての下級魔族に対して命令を下していたようだ。



「……これが、魔神の力ですか」


 恐ろしい影響力だ。この数の魔族から吸い取って、しかも操るとは。単なる突然変異だったのかも疑わしい。もしかすると、あの手の特殊な魔族は周期的に表れていたのかもしれない。



 だが、今回でそれも終わりだ。



「お、始まりましたか――」


 エスティの顔に雨粒が落ちた。

 予定通り、山にも雨が降り出したようだ。



「……魔神。この雨は、下級魔族を分解してしまう雨です。影響があるのは、意識を持たない魔力を好む者だけ。この雨に含まれる魔力は豊富に見えますが、実は単なる毒です。下級魔族は疑いも無く吸収するでしょう。統率者は影響が出る前に気付くでしょう」


 眠ったままの黒い猿グノー達から、魔力の光が立ち上り始めた。それは山全体を覆い始め、幻想的な光景へと変えていく。


 エスティは空に向かって話を続ける。



「もちろん、雨は降ったり止んだりします。洪水のようにはなりませんし、この曇天が一度晴れるまで繰り返します。師匠達の魔法陣は、綺麗な状態で上書きをしました」


 エスティの頬からも、水滴が滴り落ちる。


 ここまで長かった。あの城で研究をしていた頃は、まさかこんな未来になるなんて予想だにしていなかった。



 温泉に浸かってアニメを見たい。

 そんな言葉が脳裏に浮かび、笑った。



「――私達の勝ちですよ、フラクト」



◆ ◆ ◆



 その雨は一晩中、ネクロマリア大陸中に静かに降り続けた。


 人々は空を見上げ、久しぶりの雨に喜んだ。魔族との生存競争なども忘れ、豊作を祈願し、ひと時の幸福を味わっていたという。


 逆に、魔族達は逃げ惑う事になった。統率者は雨水の当たらない穴に逃れ、状況が理解できない下級魔族達は雨を吸収して分解されていく。静かなる死が、彼らを襲い始めた。



 だが――両者の歴史に、滅びの文字が記される事は無かった。


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