第37話 信玄の隠し湯を巡るシニアカー2台


 日曜日の午前10時。


 空は秋晴れ。

 山の秋風は冷たく、しかし心地良い。



「日向。この国では、15歳になると他人のバイクを盗んで走り出すらしいですね」

「エスティちゃん、一体どこでそんなネタを……」

「成典さんですよ。今宵は二人で峠を越えましょう」


 エスティは乗り慣れたシニアカーに跨り、エンジンを始動した。そして隣の日向も、エスティから強引にプレゼントされたシニアカーに座った。



 今日は息抜きの一日だ。



 ミアから情報を得た後、バックスとのやり取りで、実はまだ時間的な余裕があるという事が判明した。


 焦っているのはオリヴィエントだけらしい。そのためバックスには「時空魔法の都合で数十日かかる」とオリヴィエントへの伝言を頼み、エスティは時間的な猶予を得た。


 オリヴィエントはエスティを表舞台に立たせ、パフォーマンスをしたい。彼らは人族のためという大義名分を掲げるが、その裏ではエスティの力を独占したがっているそうだ。



 そんな訳で、エスティは日向と二人で蓼科の温泉を巡る事にした。


「まず、奥蓼科の方へ行こっか」

「『信玄の隠し湯』でしたか」

「うん。というかこのシニアカー、ゆっくりだなぁ」

「これで良いんですよ。スローライフです」

「遅い生活って意味じゃないけど、まぁ楽ちんだね」



 奥蓼科までの上り坂は急勾配だ。

 蛇行しながら、すこしずつ進んでいく。


 少し登って下を見下ろせば、遠く茅野市街までを見通す事が出来る。


「あ、ここが『御射鹿池みしゃがいけ』。観光ガイドにも頻繁に掲載されてる池だよ。森林を鏡のように反射しているの」


 先行していた日向のシニアカーが停止する。


「水面が穏やかですね……写真みたいです」

「幻想的だよねぇ」


 絵画のような池だ。


 日向は池を眺めているエスティをパシャリと撮影し、再び上へ上へと登り始める。



「――ここが最初の頃に入った赤茶色の温泉で、もう少し上に行くと白濁の温泉になるの。どっちも『信玄の隠し湯』だね」

「覚えてますよ、懐かしいですね……ところで日向、なぜ『隠し湯』と呼ばれているんですか? 確か昔の偉い人ですよね、信玄って」

「あー。諸説あるんだけどね、実は隠し湯はこの蓼科だけじゃないんらしいだ」

「ほう?」


 日向はシニアカーを停車し、説明を始めた。



 戦国時代、武田信玄は各地で傷病兵を温泉を使って療養させていた。それはこの蓼科の高原に留まらず、山梨や岐阜でも同様だった。


 療養していた場所として名付けたのが『信玄の隠し湯』という呼び名だ。だがその名が付けられたのは後世になってからだという。


「温泉で病気を治すという発想が素敵です」

「実際に効能があったんだろうね。当時、信玄は最強の軍団だったんだよ」

「私達もさくっと最強になりましょうか」

「ふふ、そだね」


 再びシニアカーを走らせる。坂を上り続けた先に、昔ながらのバス停が現れた。その前には趣のある建物が建っている。


「最初の目的地はこちら! ささ、どうぞどうぞエスティちゃん」

「既に硫黄の匂いが漂ってますね」

「ふふ、ここは強烈だよ?」



◆ ◆ ◆



「お゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛!!」



 壁の上部に取り付けられている木の蛇口から、白濁の硫黄泉が細い滝のように落ちてくる。

 エスティは浴槽に入り、それを背中で受け止めていた。


 冷泉の掛け流しで、その温度は水。

 温泉の滝行のようだ。


「さ、さぶい……!」

「エスティちゃん、次こっち!」


 その隣の浴槽にいた日向が声をかける。


 日向が入浴している湯船は冷泉を加温した温かい湯だ。この湯船と滝の湯船の二つが並んでいる。エスティは冷えた体を震わせながら、日向のいる湯船に入った。


「う、うおおぉ……! 体がピリピリします」

「交互に入るの気持ちいいでしょ」

「ふぅ~。最高です」


 何だがよく分からないが気持ちいい、エスティはそんな気分だった。


 ドバドバと冷泉が流れ込む音が狭い浴室で反響している。


 体を洗う場所は無く、あるのは浴槽が二つだけ。この建物の別の場所に真水のお風呂があり、そこで体を洗う。ここ最近で常連になった日向は、得意気にそう話した。



「この辺の温泉は他もこんな感じですか?」

「ううん、ここは結構特殊な方だよ。あとは体中に泡が付く炭酸泉とか、体がめちゃめちゃヌルっとする温泉とか」

「色々あるんですねぇ~。ふぅ」


 エスティは目を閉じ、音を聞く。


 物凄く気持ちがいい。

 眠くなってきた。



「ミアさんも来ればいいのにね」

「あの聖女は、ああ見えて出不精なんですよ。それに真面目ですから、今頃は家事をこなして料理でもしてるでしょう」

「凄い、まるでメイドさんだ」


 実際、日向の言うとおりメイドのような役割になっていた。給料は渡してないが、欲しいと言われた物は全てを買い与えている。



「……まぁ、あの人も可哀想な人なんですよ」

「どういう事?」

「生娘のまま数年間片想いを続けて、あの歳でフラれたんです。それで自暴自棄になって聖女を辞めたいと荒れまして。でも、本人の性格のせいで決断出来ないのです」


 ミアは期待されているから渋々続けていた。

 だが、もう限界だったのだ。


「辞めれないの?」

「十数年もの間で積み上げてきた、自分のプライドが邪魔をするんですよ」

「うへぇ……厄介な聖女だ」

「ふふ、厄介でしょう?」


 エスティは厄介という言葉がしっくりきた。脳裏にニヤリと笑うミアの顔が浮かぶ。あれはとても厄介だ。


「――ま、蓼科に住んでいるうちに毒は抜けると思いますよ。生真面目さが溶けてしまうぐらい、温泉に浸かってりゃいいんです」

「ふふ、そうだね」

「よし、また滝を浴びます。私も真面目さと勤勉さを溶かさないと。何だか癖になりそうですねこれ」


 エスティは再び冷泉の浴槽へと入り、ぐへへと笑いながら滝行を始めた。



◆ ◆ ◆



 同時刻。


 ロゼとミアは留守番をしていた。



「落ち着けミア、分かっているのか!? それを捨てると言うことは、負けを認めるのと同義なんだぞ!!」


 ロゼは必死で止める。


 だが、ミアは挫けない。


 これは、どうしても引けない戦いだ。

 聖女としてのプライドがあった。


「違う――私は違うわ! 自分で運命を切り開くのよ、ずっとそうして生きてきたんだから!!」

「やめろおぉ!」



 そして、ミアの指が動く――――。



『ロン 国士無双』


「ああぁ馬鹿あああぁ!!」

「だから言ったろう、まったく」

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