第36話 来訪者、居座ろうとする
「すみません日向。そういう訳で、今日はこの変な聖女に構ってあげなくては」
「いいよー、また遊びに来るね」
「はい」
日向を見送り、家へと戻って来た。
日向はネクロマリア語での会話が分からなかったらしい。逆にミアも、エスティと日向の日本語での会話は理解できなかった。ロゼの力が及ぶのは主であるエスティだけのようだ。
「ところでエスティ、彼女は何者なの?」
「パンの神、日向です。貴女方が食べるパンを生み出しています。彼女に背くとパンがしなしなになりますよ」
「パンの……神?」
「おいエス、その辺にしておけ」
ミアは一瞬信じそうになったが、エスティの性格は分かっていた。どうせ嘘だと思い、全てを見抜く目でエスティを眺めた。
だが――なぜか見えない。
カンドロール大司教の時もそうだったが、自分のこの目は一体どうなってしまったのか。
「ミア? どうしました?」
「あ、いえ……行くわ」
庵に戻り、リビングソファに座る。
「ねぇ……ちょっと愚痴ってもいいかしら」
「よくないですが、どうぞ」
ミア・ノリスは、生まれた時から全てが見えていた。
相手の心も、魔力の量も。記憶や、その本人すら忘れていることも。
神官にはごく稀に現れる異常体質だと告げられた。だが、この力は世界の役に立つ。しかもミアは聖属性の魔力の保有者だ。
ミアはラクスで一躍有名人となり、自然な流れで王家の傍らに立つこととなった。その目は交渉相手の嘘を見抜き、一方的に主導権を握ることができる。そうして上手く利用され続けた。
だがこれは、王家の人間も同様だった。
嘘つきだらけ、嘘ばかり。
気付けば、誰も信頼できなくなっていた。
そんな日々が嫌になったある日、ミアの前にマチコデが現れた。
裏表が全くない人だった。純粋な願いだけで命をかけて人助けをしている王子。ミアはすぐに心を奪われ、この人に付いて行くと決めた。
「私はどうやってマチコデ様が振り向いてくれるかと必死だったわ。この目を使って、好みも性格もマチコデ様に合うように変えた。それから6年間、ずっと片思いを続けたわ」
「重い……ロゼ、変わってもらえますか」
「最後まで聞きなさい。彼はまじめでちょっと性欲が強いだけ。私は全てを許していた」
そうして純潔を守りながら、マチコデの冒険に付き添っていた。聖属性は特殊で、その回復力は相手への思いやりや優しさで変動する。マチコデがやたら回復していたのも、ミアが惚れていたからだ。
「そういえば、ムラカは全然回復してなかったですね」
「ムラカは恋敵だから」
「私怨ドロドロじゃないですか! この女、とんでもない聖女ですね……」
「現実なんてこんなもんよ」
愚痴り終わったようで、ミアはソファでだらりとし始めた。
エスティは最初は可哀想だと思っていた。だが今は早くこの人を追い出したい、そんな気になっていた。
「……ところで、ここが異世界で間違いないのよね。一体この魔力は……この世界は、何なの?」
「ここは神域です。神の世界ですよ」
「神の……世界?」
「あなたのその目が無効化されているのも、神域の力です」
これはエスティの嘘だ。
以前、防水と防腐のために《改築》を施した時に、合わせて《防魔法の陣》を庵に取り込んだのだ。
ごく小さな魔法陣だが、膨大な魔力を流し込む事により、庵の所有者に対しての有害な魔法は使えなくなっていた。
「それじゃ、エスティが女神というのも本当なの?」
「そんな馬鹿な……本当ですよ」
「エス、程々にな」
「ロゼ、面倒臭くなってきたので交代です」
「おいここでか」
エスティは飽きてテレビを点けた。午前中は面白い番組がやってないので、録画した特撮を見る事にした。
「まったく……まずエスティは女神ではないし、日向もパンの神ではない。お前の目が見えないのも神域の力ではなく、単なるこの庵の特性だ。ここは神の世界ではなくただの異世界で、蓼科という地だ」
「ちょっとエスティ、全然違うじゃないの」
「あれ、画面が映らない。何でですかね?」
エスティはミアの言葉を無視し、テレビと格闘していた。画面が真っ暗だ。直そうと思ってエスティは説明書を開いたが、文字が分からない。
「ロゼ、分かります?」
「読めんな」
「ん、ここにあるじゃない。画面が映らない時はって――」
「「……え?」」
ミアの言葉で、エスティとロゼは顔を見合わせた。
そしてミアを見た。
「……ミア、この文字が読めるのですか?」
「私のこの目は、物も文字も関係ないわよ」
その言葉で、エスティはニヤリと微笑んだ。
「――そうだ、ミアに仕事をあげましょう」
◆ ◆ ◆
ミアがやって来て3日が経った。
改築によってミアには自室が与えられ、快適な環境で仕事を進めてた。
ミアがエスティから頼まれたのは、『日本語をネクロマリア人語に翻訳する』というものだ。
ミアは文字だけではなく、その言葉の意味までも理解できた。その力を利用して翻訳書のようなものを作ってしまえば、エスティは楽が出来る。寿命が長くなってしまった今、日本語を読み書きする事は必須だった。
「ふぅ……」
今朝も起きがけに露天風呂に浸かり、美味しいパンを食べ、日向から借りた漫画を読む。もちろん、翻訳という名目でだ。
それに飽きたら、エスティからパソコンを借りてネットでアニメを見る。喋っている内容は分からないが、字幕を付ければ読めた。
――これは、確かに駄目になる。
そして、そんなミア・ノリスには大きな悩みがあった。
自分の部屋まで、無線LANの電波が届かないのだ。
リビングでパソコンを開いてアニメを見ていると、エスティとロゼの視線が痛かった。居候だけに居心地が悪い。
エスティは特撮が最高だと言っていたが、何が面白いのか理解できない。アニメの方がよっぽど面白いと熱弁したが、そんな事よりも働けと言い返された。
今だってそうだ。
「……ミア、もう28歳でしょう。あまり言いたくはありませんが、しっかり仕事してください。真人間になって結婚したいんじゃないんですか?」
「ウッ!!」
「エス、気を付けろ。言葉の切れ味が鋭い」
「ここで切っておかないと沼にはまります」
エスティは自分を見ている気がして同族嫌悪を感じていた。遊ぶのは構わないが、やる事をやってからにして欲しい。
「エスティ、腐った林檎の法則ってご存じ?」
「ご存じですが、うちの林檎は新鮮です」
ミアはあの手この手でエスティを懐柔しようとしていた。何とか居座って、働かずに遊びたいと言う一心だった。
「――ねぇエスティ。私、最近思うの。結婚とか恋愛とかって、心の余裕があってこそなのよ。だから仕事なんてしてる場合じゃないわ。人類は精神的に次のステージへ上がるべきなのよ」
「聖女が何言ってんですか」
「エスと同じような事を言っているな」
「ちょっとロゼ、私はこんな駄目じゃないでしょう!」
すると、ミアは深いため息を吐いた。
「エスティ、貴女には心の余裕が足りないわ」
「この女、簀巻きにしてムラカに送り返してやりましょう!!」
「やめてええ! ごめんなさい!!」
エスティが捕獲しても、すぐにその手を振り切られた。ミアはやたら力が強い。
「このっ……なんて怪力っ!」
「え、エスティ! 冷静に考えなさい! 私の本来の仕事は、貴女をオリヴィエントに連れて行く事よ。エスティはあの大国に行きたいの!?」
「……行きたくは無いですね」
「でしょう? エスティは行きたくない、私もここでサボりたい。何なら翻訳の仕事もやる。ほら、私たちの利害は一致していると思わない?」
言われてみれば、確かにその通りだ。
ミアが交渉に戸惑っているという事にすれば都合がいい。蓼科の生活で幸せなのに、わざわざ女神扱いされている国に出向くだなんて真っ平御免だ。
「……完全に一致しています、天才ですか」
「おいエス、騙されるな。この女はただ居座ろうとしているだけだ。追い返せ」
ロゼの言葉でエスティは目が覚めた。
「ああぁ、そうです危なかった! 騙された! 本当にろくでもない聖女ですね!」
「ぐっ……猫め!」
ミアはここ数日で理解した。
エスティは記憶力は良いのに単純だ。
そして、なぜか飼い猫の方が賢い。
その飼い猫が冷静に口を開く。
「ミア、お前こそ大丈夫なのか。大司教とやらは上司なのだろう?」
「大丈夫じゃないわよ。だからムラカも私を送り込んだの。下手したら、マチコデ様や背中の魔術師もどう扱われるか分からないわ。オリヴィエントは本当に恐ろしい国なのよ」
ミアはオリヴィエントの影を少しだけ知っていた。
そして……カンドロールから与えられた指令は、実はもう一つあった。
エスティには伝えていないその内容。
『――その目で時空魔法の秘密を全て探れ。なんなら習得してこい』
自分も使えるようになれ、という事だ。
だが、この庵に居てはエスティを見抜く事すらできていない。時空魔法とはなんぞやと尋ねても、本人ですら理解していなかった。
そもそも、エスティを連れて来いというのも怪しい話だ。女神をオリヴィエントが大々的にアピールする事で権威を保ちたいだけだと思っていた。
正直な所、ミアはそんな事のためにエスティを連れて行くのには気が引けていた。
だが……逆にエスティは、ミアの言葉で戸惑っていた。
「ミア……兄弟子は無事なんでしょうか?」
「しばらくは大丈夫よ」
エスティは急な不安に襲われていた。
ネクロマリアにおける自分の扱いの変化によって、何かが動き始めている。
バックスが戻って来いと言っていた理由が、ようやく分かった気がした。
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