第3話 わたしの兄
3歳で発病後、毎年兄の身体には解明できない症状が次々に現れた。
それでも5歳くらいまでは、ハラハラする母を尻目に一緒に走ってはしゃいでいた記憶がある。それから思うように歩けなくなり、車椅子になり、しまいには股関節が変形してしまった。
ひとつ、またひとつと身体中本来の機能に代わる人工物が彼の一部となっていく。
胸には毎日点滴を刺すポートが埋め込まれていて、ほんの一部だけターミネーターみたいだ。おへそから出た太い管は緑色の胃液を外のパックに排出している。いつかの手術で喉に穴をあけ、ゼコゼコ音が聞こえれば痰を吸引する。
次々に現れる症状に立ち向かう本人と病院の先生達。それは終わりの無いいたちごっこにも思えた。頭、目、耳が唯一手を施していないパーツかもしれない。
そんな連続は完成系とは言えないが、彼の肉体は数えきれない医療技術の賜物だ。
そして、彼の心はいつでも生きることに前向きだった。痛みに耐えて顔をしかめる姿は幾度となく見てきた。けれど、彼のトレードマークは口を大きく開けたくしゃくしゃの笑顔だ。「つらい」という言葉も彼の口から聞いたことは一度もない。
体調が良く家で生活している時は、彼の全てのパーツを毎日母がメンテナンスしていた。分解し、綺麗にして、付け替える。時には血が滲み出ても、母にしてみればお手の物。ベテラン看護師顔負けの冷静さだ。
わたしも小学生になると、新米ナース並に点滴の交換や痰の吸引など、少しずつ手伝えることが増えてきた。
そんな環境で育ったせいで、血を出してわんわん泣いている子どもを見ても、多少通院が必要な友人がいても「大丈夫?」と心配しつつ、心のどこかで “死にはしない” と冷めた自分がいる。
兄にとって一番の脅威は、痰が固まって喉の呼吸口を塞いでしまうこと。
少しでも乾燥すれば、加湿器を喉に当て痰を吸引する。痰が固まってくると喉からはピューピュー音が聞こえる。スポッと大きな塊が取れると、彼は満足そうに親指を立ててサインを出した。
どんなに気をつけていても、酸素が届かず青ざめた経験は幾度となく襲ってきた。母が長時間外出する時は、わたしや姉が代わりに吸引係を引き受ける。塊が取れた時は「こんなに大きかったよ!」とわたしでも出来ると言わんばかりに自慢するのだけれど、どうしてもの時は仕方なく母にSOSを出すのだった。
「(深呼吸して一気に吐き出す)フンっ!!...ダメだ。詰まってる...。」
加湿器と吸引器のダブル攻撃で塊と奮闘する。兄と集中して呼吸を合わせ、何度も勢い良く息を吐く。ついさっきまで一緒にテレビを見て笑っていたのに、彼はいつも生と死が隣り合わせだ。
「お母さん、あとどのくらいで帰ってこれる?お兄が詰まった。どうしても取れないの。」
わたしがやっても母がやっても変わりないはずなのに、兄もわたしも母が帰ってきただけで全てが解決したような気になった。
「ただいまー!なーに弱気になってるの?! 大丈夫だから、ほら、ゆっくり息を吸って、吐いて。もう一回。」
たとえ外出中でも病院内でも、少しでも呼吸口が詰まったとなれば一大事。医療技術の傑作が鼻くそみたいな塊で命を落としてしまってはいたたまれない。
栄養は口から摂取できず、人生のほとんどを点滴のみで生き続けている。点滴をしていない時間以外、彼は常に点滴の管と繋がっていた。歩ける時でも、管によって守備範囲が限られていることで「あれ取ってみて、これ取ってみて」と用事を頼まれた。彼なりに気を遣って「取って」と言い切れなかったようだが、「取って"みて"」という言い方がわたしをイライラさせることも度々あった。
点滴は幼いわたしには、人間が一生液体だけで生きる実験の様にも見えた。もちろん、彼はもう20年以上もそれを証明し続けている。
小学校低学年頃までは、赤ん坊のミルクを作るように、毎日決められた時間に栄養の粉と人肌程に温めたお湯を混ぜ、専用の点滴パックに流し込んでいた。作った液体は白濁色で、茹でたじゃがいもみたいな香りがしてまずくはなさそうだった。
小学校中学年頃になると、製薬会社が変わったのか、点滴はだいぶスタイリッシュになった。無色透明、無味かどうかはわからないが無臭の液体。点滴パックの封を開け、注射器で少しだけ液体を取り出す。ガラスの小瓶に入った白い薬をその液体で溶かし、注射器で全てパックに戻し、彼の食事が完成する。
必要な栄養は点滴で補えたが、彼の「食欲」は舌でしか満たせなかった。
「ねぇお兄、そのまま間違ったフリして飲み込んで見たら?」
「そしたら喉の穴から出てくるかも笑」
どんなに茶化してみても唾さえ飲み込まず、一口ひとくち味わって楽しんでは、専用のポットへ器用に吐き出す。こんな方法で一緒に食事を楽しむことができた。
家族の誰よりも食いしん坊な彼は、祖母の好物である海老天を中身だけ食べてしまうことも度々あった。
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