第2話 おすし
発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。母は一息ついてソファに横になった。わたしはパイプ椅子に腰掛け、ぼんやりと兄を眺めている。
いくら危篤と言われてもまるで実感がない。悲しくてその現実を受け入れられないのではない。きっとこの一時も笑い話のひとつになる日が来ると信じて疑わなかった。
なまぬるい病院の個室に注ぐ柔らかな初夏の日差しが、平和な日常を思い出させてくれる。外はこんなに爽やかなのに...。
ベッドに仰向けで寝ているはずの兄は、目を瞑ったまま徐に天井に手を伸ばし、空気を摘もうとしている。そうかと思うと、その手を口に運んでもぐもぐと口を動かした。ひとつ、またひとつ。
「お母さん、見て!何か食べているみたい...。ほら、また!」
「ほんとだわ。お寿司...? お兄ちゃん大好きだからね。」
彼は幻のお寿司を満足そうに味わっている。好物の帆立に、次はいくらの軍艦巻きだろうか。幸せな幻覚。母とわたしは顔を見合わせてくすくすと笑った。
泊まり込みの看病が始まってから一週間、疲れと緊張が高まっていた私たちを、兄はいつもと変わらず笑顔にしてくれた。
彼は3歳の時に病に侵された。1年後に茨城でわたしが生まれた時には、祖母が付き添って東京の病院で暮らし始めていた。
それから24年間、何度入退院を繰り返してきたのだろう。人懐こい笑顔とお茶目なキャラクターで院内の人気者でもあった彼は、入院というより「病院で暮らす」という言葉の方が合っている。新入りの患者が困っていれば代わりにナースコールを押し、仕事に慣れない新米ナースを励ますのも彼の役目だ。
「お兄は何の病気なの?」何度も繰り返してきた問い。
幼い頃は、原因不明の病としか聞かされていなかった。これまで3つの病院を渡り歩き、数えきれない医師達が関わってきた。これだけ医療が進んだ今でさえ、誰も彼を助けられないことを悔しくも受け入れるしかなかった。
しかし、大人になって改めて母に聞いた事実は少し違うものだった。
「赤ちゃんの時は健康そのものだったの。ある時、麻疹が流行ってね、お兄ちゃんも近くの小児科で受診したの。その時の処置がまずかったのかな...。強い薬で発疹を止めてしまって。それから口内炎で口の中も食道もひどく荒れちゃって。その後も外に出れなかったウイルスがずっと身体の中で悪さを続けているみたい。癌と言われたこともあったけれど、結局本当の病名は分からない。」
“それって医療ミスじゃないか!”と見たこともない医者へ怒りを募らせることもあったが、20年も前の出来事であっては暖簾に腕押し。
「近くの小児科」と言うだけで、実際にその名前を聞くこともなかった。家の近くには人気の小児科はあったけれど、そこのことだったのか、母の実家近くの小児科だったのか、特定するのは少し怖いようにも感じられた。
両親がその小児科を訴えることはなかった。裁判云々にパワーを割くよりも、兄を救うことに必死だったのだろう。無論、討論さえ嫌いな平和主義の父が、医者を訴えることなどしなかったのかもしれない。
それから母の人生は兄一色に変わった。わたしの家族は兄中心にまわっている。
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