幸せだったよ。
葉澄環
幸せだったよ。
その刻限は、突然告げられた。
「申し訳ありませんが、現代の医療では、彼……ロドルさんを救って差し上げることが出来ません。もって……あと二ヶ月余りでしょう」
いかにも申し訳なさそうな表情をしながらも、嫌という程使ってきたであろう言葉を淡々と告げる医師。しかしながら、俺はその言葉をただ理解するだけなのに、酷く時間を要したような気がする。
ロドルが、あと僅かな時間の内に一生を終える?そんな馬鹿な。あってたまるか。あいつは、俺の、誰よりも大事な……。
「アレクさん、信じられないというお気持ちはお察しします。彼に真実を告げられるのも、貴方の自由にしていただいて構いません」
固まっていた俺の心境を察したのか、医師は優しく俺の肩に手を置き、それでは失礼致します、と軽く頭を下げて退室した。そんな気遣いは要らない。しかし、不思議なことに、一度はふざけるなと思ってしまったが、そのあとは憎悪も悲しみも、そして絶望も湧いては来なかった。
ロドルが死ぬ。俺より遥かに先に。
その単純で残酷な事実を、俺はひたすら頭の中で繰り返した。そして、頭の中の整理が何一つついていない状態ではあったが、俺は診察室を後にした。
「……アレク、どうだった?」
「ロドル……」
潔癖な消毒液の匂いで満たされた、些か清潔すぎるような病棟の一室に、ロドルは居た。ロドルは元々病弱な性質であったが、昨日の晩の遅くに、突然大量に吐血をして病院に担ぎ込まれたのだ。手の尽くす限りの手当てと検査で、ロドルの体内には進行しすぎた悪性の腫瘍が、彼への死の宣告として見つかった。
死ぬ。そのたったひとつの事実を親友に伝えるのに、俺は酷く迷っていた。命あるものはいつか必ず死ぬ。それは不変の真理だ。しかし、ロドルに降りかかるその真理は、あまりに早すぎはしないだろうか。
ロドルは、この死の宣告を聞いて絶望しないか? 自暴自棄にならないか?
その問答を、音にはせずに何度か舌の上で転がした。
「……ロドル……」
外では、雪が静かに降り積もり、音をひたすらに殺し続けていた。
「何? アレク」
俺は決断した。ロドルは、そんなに弱い男ではない。
「ロドル……お前の中に、悪性の腫瘍が見つかった。もって2ヶ月らしい」
「……そっか」
「……ごめんな、助ける方法が、見つからないらしい……」
「まあ、気を落とさないでくれよ。それに、アレクが謝ることじゃない」
「……え?」
「余命がいくらでも、春まで生き延びて見せるから。俺、春の満開の花に囲まれてなら、安らかに逝けるよ。いやぁ、春が楽しみだな!」
本人に真実を告げた瞬間、俺の背中を駆け上がってきた絶望をたしなめるように、ロドルが微笑んだ。
どちらが病人であっただろうか。きっと、通夜のような表情の俺の方が死んでしまいそうに見えていることだろう。
「春。春だよ、アレク。それまで俺は、絶対に死なない」
「! ……春、って……だって、春までは四ヶ月以上……」
「いいから、俺を信じてよ。皆で、今までできなかったこと、いっぱいやろう」
この地域は、冬以外の季節全てがものの数週間で終わる。一年のほとんどが、雪に閉ざされた世界なのだ。春まで生き延びるなど、到底無理な話であった。
ロドルは、俺を安心させようとしているのか、それとも本当に出来ると思っているのか。それは本人にしかわからなかった。俺はただ、死を目前に控えながらも微笑む親友の姿を、ただ見つめることしか出来なかった。
そして、俺は精一杯の笑顔を浮かべてこう返した。
「ああ、思い出づくり、大事だもんな」
その返事を聞いたロドルは、微笑みを笑顔に変え、明るく言うのだ。
「君は俺の親友だから、メインの思い出になってもらうよ。俺があっちの世界で退屈しないように、な」
窓を僅かにすり抜け、外に漏れたロドルの声は、降り積もる雪の中へと消えていった。全てを音もなく葬り去る雪は、まだ降り止まない。
短い短い春まで、あと四ヶ月。
宣告されたロドルの余命は二ヶ月。
どちらが勝るのかは、誰にも知る術はない。
死の宣告から一週間後に、ロドルは退院した。残された日々を好きに生きろとのことだった。医師がロドルに渡したもの……痛み止めを数種類。以上。緊急時には勿論、そして更に二週間に一度は病院に来いとのことだ。
「はぁ~あ……病院のあの汚しちゃいけない感じ、どうも慣れないな~。やぁっと自由だー!」
ロドルは死の宣告など無かったかのように大きく伸びをした。そして満面の笑みを作る。
今日も、雪は降り続く。きゅ、という足音も、残響音を雪に取り込まれて響かない。
「アレク、冬は寒いな!」
「あぁ、寒いな……ぶっ!」
「ははっ、先手必勝!」
ロドルはおもむろに俺の顔面に雪玉を投げつけてきた。こうしていれば、あの宣告は嘘だったのだろうかという錯覚を覚える。否、病気がちであったロドルが、健康体になったかのようにさえ思えた。俺を気遣っての空元気なのだろうか……そんな気を遣うほど、よそよそしい間柄ではないのだが。
「ロドル、うちに帰ったら何がしたい?」
思い出づくりはあの宣告をされた瞬間からもう始まっているのだ。我が侭放題をさせてやることは出来ないが、ある程度の願いは叶えてやりたい。
「あー、まずは……そうだ! おばさんの手料理を毎日腹いっぱい食べたいなー」
ロドルには両親がいない。まだ幼い頃に事故で他界していた。身寄りのないロドルを俺の家が引き取り、俺達は共に育った。暗い過去を持ちながらも、それより余程幸せな生活をしている俺よりも明るい人間になったロドルは、俺のある種の憧れでもあった。
「そうか、じゃあ母さんにお前の好きなものを作ってくれないか交渉してやるよ」
「やった!」
飴を与えられた子供のようにロドルが笑う。出来ることなら、この笑顔を何十年先になっても見ていたいのだが、現実はそれを許そうとはしないだろう。
永別の刻は確実に迫っていた。ロドルは段々と寝込むことが多くなった。
しかし、己の苦しむ姿は誰にも、俺にさえも見せることはなかった。具合のいい日には俺を含めた友人達と語り合い、そして笑いあった。
思い出づくりは順調に進み、一日の終わりにはそこはかとなく満足気に見える日もあった。心残りは、ロドルの中に淀む重荷は軽くなっているだろうか。それは、万人に愛されたこの世界とロドルが袂を分けても知ることはなかった。
冬がその季節をいよいよ盛り上げん、と言わんばかりに荒れた天気が続き、そして中休みのように気持ち良く晴れた日に、運命は天秤を傾けた。
「ねえ、アレク。カーテンを開けてくれないかな」
「ああ」
その日は、ちょうどあの時、医師が俺たちに告げた刻限。
「いい天気だなぁ……久しぶりだよ、太陽を見たのは」
身体を病に蝕まれたロドルが、ベッドに身体を横たえたまま嬉しそうに、だが酷く弱々しく呟いた。その声はひどく掠れていた。
「そうだな……眩しいよ」
「アレク」
「何だ?」
「最後にひとつ……いいかな」
――――最後に。この言葉をどれほど恐れていただろうか。
「最後ってなんだよ。お前、花が沢山咲く頃まで生きるんじゃなかったのか?」
俺は少しおどけて見せた。するとロドルが少し微笑んで、それから……首を微かに横に振り、ごめんと小さく漏らした。
「その予定だったけど、まだ死にたくないけど、でも……これまでかな」
あの絶望が再び背筋を駆け上がる。
「嘘だろ……? だって春までまだ二ヶ月もあるじゃないか、っ……なあ、冗談だろ!?」
思わず声を荒げた俺にロドルは少し驚き、その様子に気付いた俺は慌て謝った。
「いけると思ったんだけどなぁ……駄目だった。情けないな、俺」
申し訳なさそうに微笑み、声を震わせるロドルの目元に、太陽の光がちかりと反射したが、俺はそれを見なかったことにした。ロドルの太陽のように明るい少年でありたいという矜持は最後まで守ってやろう。
「情けなくない、お前は頑張ったよ……お前の最後の願いって……何だ?」
先程声を荒げた代わりに優しく語りかけると、ロドルは僅かに自分の右手を持ち上げた。
「手、握ってくれるかな。最期は、君と一緒がいい」
人生最後の願いの余りのストイックさに、身体が揺らいだ。情けなく震える手をそっと差し出すと、弱々しく、しかし予想よりも少し強く、手が握り返された。
「ふふっ……やっぱり親友の手って安心するね」
「……そうか」
命の灯火が消える瞬間に立ち会うのだ、それがどれだけ重く、そして尊いことか。
「生まれ変わっても、君の親友でいたいな。……アレク」
「ああ、俺もだよ、ロドル」
互いに握る手を強めた直後、ふっとロドルの手から力が抜けた。
「……ロドル?」
返事はない。
……遂に、ロドルという存在がこの世界から切り離されたのだ。もっと一緒にいたかった、春になって沢山の花に囲まれたロドルを見てみたかった、もっと、もっと……
それらが全て幻となり消えていった……そう、夢を見ていたのは、俺の方だった。俺は己の心の幼さを怨みながら、命を空へと還したロドルの顔を覗き込んだ。
薄く笑みを浮かべたままの死に顔は、どこか荘厳である気がするのは錯覚であろうか。俺は、鼓動をやめたばかりでその温もりを残したままの、握ったその手にそっと唇を落とす。
そして、俺は簡単で、しかし永遠に答えが返ってくることのない、ひとつの問いを投げ掛けた。
「なあ、ロドル。お前は、……幸せだったか?」
『幸せだったよ。』完
幸せだったよ。 葉澄環 @t_hasumi0601
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