プレアデス

葉澄環

プレアデス

「今日から僕が、君の家族だよ」

 昴はそう微笑んで、薫の手を優しく握った。



 薫が大学に入学してから、初めての夏休みがやってきた。昴と迎えた、四回目の夏。朝、薫が起きて、洗面所で顔を洗い、ごみの日だったのでマンションの近くのゴミ捨て場にゴミを出し、それから居間に顔を出すと、昴の姿はもうない。ラップに包まれた朝食に『レンジで温めて食べてね』と書き置きがしてあった。

「本当に、一体どこに行ってるんだろうな」

 電子レンジで温めた朝食を頬張りながら、今日は何をしようかな、と考えていた。大学の夏休みの課題もあるにはあるが、締め切りまでまだまだ余裕がある。しかし、かといって何かしらのサークルや部活動に所属しているわけではないので、交友関係が広い、即ち友達が多いかと言われれば、それはノーであると言う他ない。

「……図書館にでも行くか。勉強しとかないと」

 朝食の皿を洗って片付け、歯を磨き、身支度を整え、勉強道具を鞄に詰めて家のドアを開けた。今日は快晴、暑くなりそうだ。

 自転車を立ち漕ぎして風を切る。からりとした夏の暑気と運動で熱くなる体に心地よい。いくつかの信号を渡ると、この地域で一番規模の大きい図書館に到着した。

 一歩足を踏み入れると、静寂の空間が街の喧騒から薫を切り離す。自然と心が凪いでいく。他人の気配も、このくらいなら心地よい。

 もう必死になって勉強する必要はないが、幼い頃の心の傷が成した勉強の習慣は抜けないのだ。そして薫は、昼食のことなどすっかり忘れてレポートに没頭することになる。



 薫は愛されなかった。裕福な家の生まれではあったが、幼い頃から学業に関しては常に完璧であることを両親に求められた。幼稚園は有名私立、小学校も一流の学校に『お受験』して入学した。そして、テストで満点が取れなければ執拗に虐げられ、一番になれなければ三日間食物を摂ることを禁じられた。学校には宗教上の理由だと、薫の父は嘘を吐いた。

 そして事は傾いていく。

 薫は中学受験で一番偏差値の高い学校を受験したが、ほんの数点の差で首席入学ができなかった。薫の父は激怒し、優秀でない者は家族ではない、もう必要ないと、薫を施設に預けた。金銭的に養育していくのが厳しくなったから暫時預かってくれと、薫の父はまた嘘を吐いた。数ヶ月後に薫はなんの連絡もなしにこっそりと分籍され、薫の父は財力にものを言わせて首席入学した子の藉を無理矢理買い取り育て始めた。薫は最初からいなかったことになったのだ。



 昴は早くに無償の愛を知った。昴の両親は借金苦で、まだ幼い昴を施設に預けた直後に心中した。親の愛は知ることはできなかったが、施設のスタッフと、様々な理由で親を失った子どもの仲間たちが彼を受け入れ、認め、愛してくれた。

 医師になろう。昴は中学生の頃にそう決意した。施設の子どもたちの世話やスタッフの手伝いをしながらそれは熱心に勉強し、特例で大学卒業まで施設に籍を置くことを許されて、国立大学の医学部に進学し、医師免許を取得した。そして安月給の臨床研修医を乗り越え、精神科医になった。

 何故数ある科の中から精神科医になったのか。それは、施設でいつもひとりでいた彼を気にかけていたからだ。とても賢いのに、いつも周りの空気を気にしているのか遊びの輪に入ろうとしないし、何か話をしてもにこりともしない。

 できるなら、彼を縛る鎖をこの手で解いてあげよう。諦観に満ちた目をした薫の心の闇を、少しでも照らしてやりたいと。



そして、昴は薫を迎え、ふたりの生活が始まった。



 薫は図書館で様々な本を開き、信憑性を吟味していく。薫は現在、有名私立大学の文学部に通っている。薫が高校に入学すると同時に彼を引き取った昴は、どこでも好きな大学に進学していいよ、と穏やかな笑顔で言ったのだ。薫は昴が精神科医であることを知らない。わかっているのは、朝早くに家を出て、夕飯時を少し過ぎた後に帰ってくる、ということだけだ。最近までは、家事も全て昴がやっていたが、高校を出てもおんぶにだっこは流石に人としてどうかと思うと昴に申し出て、夕飯作りと火曜日、金曜日の朝の燃えるゴミのゴミ出しだけは薫がやることになった。というかしてもらった。しかし、金銭的には完全に養ってもらっている状態には変わりないわけであって、なんとかまともな職に就けないか、と入学したばかりの今年から考えているのだ。そして無事に試験を受け、一部のレポートを出し、無事に単位は全て取れそうだという見込みにまで漕ぎ付けた。

(……以上のことが、この課題の結論の一つである、と……。出典は……)

 レポートの本文にひと段落ついて、帰ろうと外に出てみると、日が暮れかけていた。

「あっ、昼飯食べ損ねた……ていうか晩飯作らなきゃ。スーパー寄って帰ろうっと」

 誰に言ったわけでもないが、薫は小さく呟いて自転車に跨った。


 夕刻のスーパーは値引き祭りだ。鮮度が落ち始めた生鮮食品は、その日のうちに食べきるのならば格好の食材だ。まだまだ昴のように美味い料理は作れないが、薫は薫なりの努力を重ねている。最初はまともに包丁も握れなかったが、今は慣れないながらもだいぶさまになってきたものだ。そして、忘れられがちかつお約束だが、若い男ふたりの食事量はそれなりになる。薫は朝に水を飲む為に開けた冷蔵庫の中身を思い出しながらかごに色々と食材を入れ、会計をし、また自転車で風を切って自宅マンションへと急いだ。


「今日はちょっと暑かったから、冷製スープにしてみようかな。あとは……」

 簡単レシピ系の本を見て、一生懸命格闘しながらする料理というものは、なんだか非常に初々しい可愛らしさを醸し出す。休みの日の夕飯作りでは、昴が心底嬉しそうに薫が料理をする様を眺めていることに薫本人は気が付いていないし、今日は平日だから、その嬉しそうな昴の姿はない。

 薫が台所に立ち始めて1時間半と少し。

「おー、できた……」

 少し不格好だが、焼き加減は過去一番のハンバーグに、水菜のサラダ、そしてヴィシソワーズ。温かいごはんを盛れば薫にとっては完璧だ。

「ただいま、薫。今日は少し早く帰って来れたよ」

「おかえり、昴。ちょうど晩ご飯の支度ができたんだ。手洗ってきなよ」

「ふふ、それは有り難いね」

 薄手の白いニットコートを脱ぎながら、昴は嬉しそうに目を細めた。居間の隅っこにあるハンガーにニットコートを掛けて、昴は洗面所で手を洗う。

「わあ、今日のご飯は豪華だね」

 椅子に腰掛けながら、並べられた料理を見て昴はご機嫌な声音になった。

「うん、ちょっと時間ができたから、頑張ってみようと思ってさ」

「とっても良くできてるよ」

 昴の整った顔立ちに形づくられたと心地よいハスキーボイスで褒められると、なんだかむず痒いような気がして、よかった、と言うのがやっとだ。ふたりでいただきます、と手を合わせて食べ始めると、昴は美味しいね、と言いながら穏やかに笑いかけてくれた。

「昴が気に入ってくれて、よかった」

「ふふ、薫はちょっと真面目過ぎるかな」

「俺が育った環境、知ってる癖に」

 薫は少しだけ顔を背けて頬を膨らませて見せると、昴はごめんごめんと謝る。真面目であれ優秀であれと思春期の直前までに刷り込まれたもの、それらをある程度の笑いの種に昇華する術を見つけたものの、その事実も記憶もなかなか消えない。もう抜きん出て優秀である必要などないのに、知らないうちに肩に力が入る。それをいつも解してくれたのが昴だった。いつの間にか薫の中で昴の存在が大きくなって、自分の目の前からいなくなってしまったらどうしよう、と考えては心の中の潮が引くような思いをしている。

「ごちそうさまでした。洗い物は僕がやっておくから、薫は部屋で休みなよ」

「え、昴だって疲れてるのに」

「いいからいいから。ね?」

 昴のこの優しい笑顔に、薫はいつも絶対に勝てない。お願いしますと引き下がり、自室へと向かっていった。

(昴は働き者だなぁ……)

 自室に戻ったとはいえ、勉強以外やることがない。漫画もゲームも絶対悪として教え込まれた幼少期の刷り込みで、どうにも手を出す気になれない。何かいい趣味を見つけられないだろうか。楽器などの大きな音が出るものは近所迷惑だし、昴はお金の心配はするなと言ってはばからないため、アルバイトも恐らくない。うーん、と悩んでいると、幼い頃に教養と言って読まされていた本が、自分の中で唯一の楽しい時間だったことを思い出した。自分もあの文筆家たちのように自由に言葉が操れたら、どんなに楽しいだろうか。

 薫はそれを自覚した瞬間、胸の中が一気に満たされていく感覚に襲われた。そして居ても立っても居られなくなり、自室を飛び出し、ちょうど洗い物を拭き終わって食器を棚に戻していた昴の驚いた目と、昴が見たこともない輝きに満ちた目が合った瞬間には。

「昴! 俺、作家になりたい!」

 声高に宣言していた。

 昴は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でしばらく固まっていたが、数秒経って、声を出して笑った。そんなに大笑いをする昴を、薫は見たことがなかった。昴はひとしきり笑ったあと、はー、と息を吐きながら嬉しそうに言う。

「薫も自分の将来への意志、ちゃんと持てるようになったんだね」

「え? だって俺、高校生の頃の大学の進路は自分で……?」

 食器の最後の一枚を食器棚に戻した昴はうーん、と困ったような表情をして頬を掻いた。

「なんだかあの時の薫は、まだ優秀でいなきゃ、って何かに追われているような感じだったよ。僕、見ていてちょっと心配だった」

「……だから俺、友達いないんだな……遊びに行かないし……コミュニケーション能力死んでるし……」

「人間関係なんかあとからどうにでもなるから、心配しなくても大丈夫だよ。薫、せっかく自分の力で見つけた自分だけの将来の夢、花を咲かせよう」

 昴は、道を踏み外そうとしない限り、薫をあまり否定しない。アドバイスという形で忠告してくれたこともあったが、昴が助言したことは大体正しかった。その昴がアドバイスという名の忠告すらしない。ということは。

「前に読ませてもらった薫のレポート、とても整った文だったし、惹かれるものがあったんだ。それにせっかく文学部に入ったのにこのままただの新卒社会人になるのは勿体ないなあって思っていたんだよ。いやあ、現実は小説より奇なりって、本当にあるんだねえ」

 昴は食器棚からマグを二個とティーポットを、冷蔵庫からはデカフェの紅茶の茶葉を取り出して、電気ポットで湯を沸かし始めた。

「ねえ、薫の夢、もっと聞かせてほしいな」

「……う、うん!」

 薫は施設に入る前から、思えば読書は唯一の娯楽だったこと、学校で宿題課題として出されている、そして過去に出されていた小論文、作文の類を苦に感じたことがなかったことを自覚したことなどを、ゆっくりと頭の中でまとめながら話した。昴は心底嬉しそうな微笑みを浮かべて相槌を打っている。話が終わる頃には零時を過ぎていたが、薫は馬鹿にすることなく話を聞いてくれた昴と過ごしたこの時間が、まだ二十年も経っていない人生の中でいっとう輝いた時間であった、と満たされた気持ちで床に就くことができた。




 次の日の朝、昴はいつも通り家に居なかった。薫は昴が作った朝食を食べ、一通りの朝のことをすると、再び部屋に戻った。

(……作家を目指すと宣言したはいいけれど、何からやればいいんだろう?)

ノートパソコンもワープロソフトもある。辞書は小学生の頃から使っている分厚いものがある。しかし、その程度の環境だけで大きな実りを手にできるはずがないのだ。

「そうだ、本屋に行こう」

 財布の残金を確認し、身なりを整えて外に出る。今日もからりと晴れて、暑くなりそうだ。自転車に乗り風を切り、日差しを遮るものがない道をひたすら走る。しばらく太陽光に焼かれた先に、それなりの規模の本屋があった。店の中は冷房が効いていて、体表の熱がすうと引いていくのがわかる。アウトプットをするためには沢山のインプットが欲しい。胡散臭いものからそれっぽいものまで、何冊かの本を購入してまた自転車を走らせ、全力で自宅を目指した。


「うーん、近代文学からハウツー本まで色々勢いで買っちゃったけど、なんか実になるかな……?」

 買ってきた本をぱらぱらとめくりながら、自分は何が得意で、どんなことには弱いのか、まず話はそこからだなと思い至った。昴なら何かわかるかもしれない。彼と話をしてみよう。


「え? 薫の文章の強み? やっぱり綺麗なところじゃないかな」

 その日の夕飯を食べながら、小説談議に花を咲かせていた。

「それで、弱くなっちゃってるのは、もしかしたら綺麗に書こうとしすぎて感情が出にくくなっていそうなところもあるかも。今は小説のためのお題なんかもインターネットに出回っているからそれで練習するのも手だよ。それらも最初のうちは登場人物と関係性を固定していくつか書くのもいいんじゃないかな」

「なるほど……なんかやけに詳しいな、昴」

「いやー、それほどでも。これからもし書いたなら、どんなに短くてもいいから読ませてほしいな」

「う、うん」

 薫は急に気恥ずかしくなり、ぎこちなく頷くばかりだった。



「ただいま、昴」

 あの日から数年経って、薫は無事に大学を卒業し、満を辞して新聞社主催の小説大賞に投稿した作品が見事に受賞を果たし、彼は文壇に躍り出た。新進気鋭の若手作家として執筆と取材の日々だ。

 昴からの返事はない。窓辺のラックの上に、写真立てと、小さな花瓶に生けられた勿忘草。写真立てに飾られているのは、昴が薫を引き取って家族になった日の、笑顔のふたりだ。それ以外に、写真などはまともに撮っていやしなかった。まさか、その唯一の写真が愛した家族の遺影になるとは、薫も昴も思わなかっただろう。


 薫が卒業論文の発表会に臨んだ日、昴は命を落とした。躁になった患者が、家族の目を掻い潜って持っていた刃物で昴を刺したのだ。そして、その患者もその刃物で自ら命を絶った。その報せを受けたのが、薫が発表に入るまさにそのときで、薫はそれから数時間の記憶がない。気が付いたときには冷たくなった昴と共に霊安室にいた。

「そっ……か、昴、精神科医だったんだ。そりゃ、困ってる人間には優しいはずだよな」

 施設で初めて出会ったときから、昴が刺される前夜の記憶が、どんどん湧いて溢れてくる。どの場面でも昴は優しくて、穏やかだった。

「でもさぁ昴、突然俺を引き取って、そんでもって突然俺を置いてどっか行くの、やめたほうがいいよ」

 返事はない。眠っているだけのように見えるが、すっかり血の気をなくして体温が感じられない身体で、そこに横たわっているのは昴だった男の遺体だという現実が激流のように薫の心に流れ込む。頭がおかしくなりそうだった。

 それでも薫は涙を堪えて笑顔を作り、打ち覆いをめくって体温のない頬を優しく撫でた。

「……大好きだったよ、昴。バイバイ」

 ベッドのシーツに、ぽたりと水滴が一粒だけ落ちた。


 薫は諸々の手続きをなんとか済ませた。昴は無縁仏として最寄りの霊園に預けられ、薫が遺産を全て継いだのだが、ちょっとした資産家ではないかという程の遺産が薫の元へやってきた。薫はお金は一銭たりとも使わずに、運良く卒業が確定した直後からアルバイトをしながら執筆に励み、筆力の研鑽を積んだ。学生の頃に最初に書いた小説は、読ませて欲しいと言った昴も苦笑いをする出来だった。いつか昴が驚くような小説を書きたい。その一心で書き続け、ようやく納得のいく作品を書き上げた。そして、その作品が小説大賞を受賞し、薫の作家生活が始まった。



「……薫先生の小説に、一番強い影響を与えた人と言えば、どなたですか?」

 インタビュアーの女性にそう問われると、薫は少しだけ微笑んで、亡くなった僕の兄です、と答えた。

「僕の兄は……兄といっても、血の繋がりはないんですけどね。その彼の暖かさが、僕の中でもずっとふかふかと暖かいままなんです。兄は穏やかな優しい人でした。きっと、この暖かな熱が僕の中で続くうちは、僕は彼から貰った愛情を、僕の作品たちに注ぎ続けようと思っています。たとえ明日死ぬとわかっても、僕は書き続けるでしょう。兄には、今の僕が妥協する姿を見せたくないんです。ですから……」

 話をしながら何の気なしにインタビュアーに目を向ければ、彼女はハンカチで目頭を押さえていた。

「あ、あの! 僕、何かしました!?」

 薫が慌てるが、インタビュアーは首を横に振り、本当に素敵なお兄さんなんですね、と声を震わせて続けた。薫が今まで書いてきた作品は、ものによってテイストは違えど、どこか物悲しくも心温まる雰囲気を纏っていた。それは、昴と薫の血縁関係を飛び越える程の愛情と、それを突然失った喪失感、残された命の燃やし方。薫の生き様だった。

「僕が書き続ける限り、兄は空の星となって僕の道を照らしてくれるんです」

 そのひとことでインタビューは終わった。


 帰り道、薫はすっかり暗くなった夜空を見上げた。今夜は新月だから、星がよく見える。『すばる』の名を冠した星団――――プレアデス星団の、遠く、柔らかな光を眺めて、頑張るよ、と微笑んだ。そして、

「なぁ昴、昴が遺した遺産のお金、全国の孤児施設に全額寄附することにしたんだ。俺、今は印税で生活が成り立つしさ。それに、俺も昴も、施設に預けられなかったら出会うことはなかったわけだし、そういうこともあるかなって。いいよな?」

 そう空に向かって話しかけると、あの穏やかな頬笑みを溶かしたような光が明滅したような気がした。



『プレアデス』完

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プレアデス 葉澄環 @t_hasumi0601

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