黄泉の国

36 国境サーヴァイン

 夜の帳が下りた森にもう夏の暑さはない。だが日中の炎天下で掻いた汗により肌はじっとりと湿り気を帯び、指がぺとりと引っ付くような不快感は身体が冷めても決して拭えなかった。


 隆行と仲間の兵士たちが国境の森で昼間から真剣に見続けているのは闇。それも深く澱んだ闇の奥だ。目先の森はもうヨミの国である。人魔の溢れる荒廃した国だ。この地に到着して早2週間が経つ。


 不意に森が蠢いた。兵士たちの間に緊張感が走る。皆、槍を携えて颯爽と立ち上がるとひりひりとした緊張感を走らせた。


 闇の中から出てきたのはブヨブヨとした流体の身体を目鼻持たぬマネキンのように保った痩身の闇の兵士たち、人魔だ。がいこつのように細く長い足で茂みを書き分け、手に種々の武器を握りしめ、ゆっくりとレネの地を侵略してくる。


「タカユキ!」


 兵士長が声を高らかに上げた。名を呼ばれた隆行は目を瞑りはあっと吐息する。随分と気に入られたものだ。隆行は前へ進み出ると眼鏡の奥の眼を怒らせた。


 この地にやって来た時に兵士たちは兵士長から人魔の対処法についてひと通り学んだ。徴兵が初めての者もいれば複数回目になる者もいる。確かな知識を再度与えるように兵士長は皆へ人魔の撃退法を語った。


 人魔の撃退法、それは威圧を見せること。人魔を構成するのは汚物と人の念である。決して侵入させぬと魂をくじくことが大事なのだ。威圧のみで撃退して決してその体に触れてはならぬ。触れれば魂を阻害される。


 隆行は槍を掲げるように腕を振り上げ、声を森の王者のように響かせる。

「ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ」


 額には緊張の汗が滲み、心は不安で揺れている。弱みは決して見せてはいけない。相手に魂に付け入るスキは見せてはいけない。人魔の動きがピタリと止まる。隆行はさらに声を大きくするとただひたすらに心で念じ続ける。


――帰れ、帰れ、帰れ!


 身が千切れんばかりの緊張感。そして少しの興奮を纏う。

 しばらくの威嚇の後、人魔は森に溶けるように消えた。



 夜通し見張り続けて早朝になり、代わりの兵士と交代する。外で体を簡素に拭いて不快を拭うとテントへと入った。酷使し続けた神経の疲労は頂点に達して頭中が船上のように揺れる。次起きる時刻は夕方だ。夜間勤務に慣れていない老体には至極キツイ。眼鏡を枕元へ置くと自然と瞼が落ちて来る。隆行はそのまま気絶するように眠った。


 人々の叫喚で目を覚ました。外はまだ明るい。何時だろうと思って枕もとの腕時計に目をやるとまだ10時半だった。疲労の抜けきらぬ頭で眠れた時間を必死で計算する。外では慌てふためく声が飛び交っていた。


 寝不足のまま隆行はテントの外へ出ると走る兵士の1人を捕まえた。


「おい、何があった」

 兵士は急いでいる様子で手短に答えた。

「3人、人魔にやられた」

「何だって」


 ここ2週間、神経戦のような攻防を続けてきたけれど誰かが襲われたのは初めてだった。


「おい、それでその襲われた奴らはどうしたんだ」

「もうすぐ運んでくる」

「人魔は撃退できたのか」


 兵士は余程急いでいたのか、表情を険しくする。

「すでに祓った。急いでいるんだ、後にしてくれ」


 彼はそう言い残して兵士長のテントへと走り去った。


 速やかに簡易の担架で運ばれてきた3人の兵士たちへ大勢の仲間が駆け寄る。その兵士たちの間を縫って出てきたのは軍に同行してきた老女の祈祷師だった。存在は知っていたが彼女が表立って出てくるのは初めてだ。東洋のような民族衣装を纏い、数珠を鳴らしながら地べたに寝かせられた兵士の傍による。彼女の指示で仲間により体が拭われて、塩で清められた。


 数珠を振り上げて天に祈りながら老女は声を上げた。どう発音しているか判別出来ぬ呪文を繰り返している。数度目の祈りの後、横たわった兵士の身体が波打ち始めた。


「くっ、ぐわああはあ、あああ」


 苦しみの声を上げて兵士は身体をのけ反らせる。次第に彼の身体から黒い炎のようなものが上り始めた。


「呪詛だ、近づくな!」


 皆恐れるように後ずさりする。祈祷師が腰元に着けていた陶器の小瓶の中身を呪詛へと振りかけると呪詛は霧散して消えた。


「応急処置は終わった。もう2人も見よう」


 そう言って祈祷師は残る2人の兵士にも同様の行為を繰り返した。処置の終わった3人の兵士は救護用のテントへと運ばれていく。次第に騒ぎは収まって、人々も自身の持ち場へと戻って行った。


「大丈夫だったのか」

 隆行の呟きを聞いたのは同じ部隊のルードだった。彼は5度目の徴兵、経験豊富だ。


「たぶん無理だろうな。全身に浴びている。これから町の病院へと運ばれる。まず、正気には戻れないだろうさ」


 2週間、知らずのうちに自分たちはずっと危ない橋渡をしてきたのだ。そのことに初めて気が付いた。人魔という生き物の存在が急に空恐ろしく思えて拳を固く握りしめる。あと1月半は帰れないというのに。

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