35 人魔の影
「うううあああああああ」
涙を流しながら亡霊のごとく雄たけびを上げるジェス、その叫び声が漆黒のレンガに反響して空気を激しく揺らす。込められた指の力は老僕の物ではない。目前の敵兵を刈り取る兵士のように猛然と麗奈に襲い掛かる。
麗奈は苦しみ喘いで口を大きく開く。何とか助けをと思ったが声はひと絞りも出なかった。次第に指先から力が抜けて浮遊感に襲われる。頭中に押し寄せた混乱で何も考えられず、ただ懸命に腕を突き上げたジェスを見下ろす。
ジェスの目に宿っていたのは怒り。それも激しい怒りだった。悪いのは麗奈ではない。でもそれを受け止めるのは今は麗奈しかいない。
怖い殺される。そう思い描いた時、遠くから近づく足音が聞こえた。
「止めるんだジェス!」
大勢の看護師がジェスの雄たけびを聞いて駆けつけた。
「じん、ま! じんま!」
「彼女は人魔じゃない。お嬢さんだろ」
「じん、……う、うわあああああああ」
ジェスは麗奈の首から手を離すと叫びながら両手で頭を抱えた。涙を流して、全身を震わし怯えていた。麗奈は頽れると喉を確認するように手を当てた。心臓が激しく動揺している。
「大丈夫?」
覗き込んだ女性看護師へと顔を向ける。
「大丈夫です。すこし休んできます」
そう告げると麗奈は立ち上がって部屋の外へと出た。
ジェスの部屋はどうやらこの病院の最深部らしい。どこよりも多くセキュリティーを潜り抜ければならない場所なのだ。通行可能な区切られたフロアには5部屋あってそれ以上はどこにも行けない。ここは鳥籠の中。小さな小さな世界なのだ。
その最深部のフロアの中央部には小さな空間があって、木のテーブルといすが6脚並んでいる。傍には数冊の雑誌。患者が集まれるような場所だがそこには誰もいない。
麗奈はイスに腰かけて静かに呼吸した。思った以上に変な場所に来てしまった。もう帰ってしまおうかと考えたとき声がした。
「ジェスには家族はいねえよ」
振り向くと枝のように痩せた男が立っていた。多分年齢以上に老けている、声は若い。指は煙草を吸う仕草をしているが手には何も握られていなかった。
「あなた患者さんね」
「家族はいるさ。でもジェスに会いに来る優しい家族はいねえんだ」
どうやら麗奈の質問は聞こえていないようだった。
「あんた誰だよ」
とても美味しそうに煙草を吸っている。麗奈は言葉を探した。
「教えて欲しいことがあるの」
「いいよ。聞いてみな」
はじめて言葉が通じた気がした。
「人魔の呪詛って何? どうしてヨミの国にだけ人魔が発生するの」
男は愉快そうに笑うと語り始めた。
「オレはヨミで呪詛に侵された。触れただけでこのざまさ。おっとあの言葉は口にしねえ。ジェスの荷の舞だからな、出来るだけあんたも使ってくれるなよ」
ジェスの嘆きの原因は人魔への恐怖だったらしい。麗奈は理解したと黙って頷く。
「あいつの正体は人の思念だ。ヨミに流れ着いた汚物と死人の魂が混じり合って異形の存在を形作る」
「汚物?」
「ヨミの国の川を見たことがあるか。ないだろう。何処からか流れ着く下水で真っ黒だ。汚れ腐臭が漂い、鼻がひん曲がりそうなほど臭い」
「下水……」
麗奈はある1つの可能性を思い描く。
「触れたとき流れ込んできたのは死人の記憶だ。そう、ヨミでは遥か昔多くの人が死んだ。原因は知らねえから聞くな。あの国には多くの死人の魂が今も残っている。無念を抱えて、死んだことさえ理解できず、彷徨う亡霊だ。亡霊は汚物と結びついてアレになる」
「じゃあ、人魔は汚物の塊だというのね」
その言葉を口にした瞬間、男の目の色が変わった。
「おい、……いうなって言っただろうが」
男は目に見えぬ煙草を口から離すと目の奥に炎を灯して近づいてくる。麗奈は焦りながら立ち上がる。
「ごめんなさい、悪気はないのよ」
「黙れ! オレにあの言葉は2度と聞かせるんじゃねえ」
「ごめんなさい、もう帰るわ」
「おい、逃げんのか」
パーソナルスペースに踏み込んで来た男性を恐れて麗奈は後ずさる。
「手前、聞くことだけ聞いて逃げようって魂胆か」
「もういいわ、ありがとう」
「待ちな」
男性は麗奈の腕を引き寄せると渾身の力を込めて握りつぶそうとした。
「痛い、離して」
「人魔っていっただろう。人魔って……じん……ま……って。じん……」
男性は自身で『人魔』発声してしまった事実に気づくと戦慄した。
「うあああああああ」
叫び声に看護師が数名またやって来た。囲って暴れだそうとする彼を取り押さえている。
「ああああああああ」
「オーラン落ち着くんだ。大丈夫、大丈夫だよ」
宥める声も届かず、その表情は阿鼻叫喚。目に見えぬものに恐怖している。同じ世界にいると思っていた彼の精神はもうこの世界になかった。
オーランは看護師たちに抱えられて部屋に戻されると施錠され、出てくることはなかった。
残された麗奈はモヤモヤとしたものを抱えていた。大事なことは聞けたけれど、余計に疑問が膨れ上がった。不快という名の大きな悩みだ。
「あの、私帰ります」
そっと声を掛けると「分かりました」と若い男性看護士が微笑んだ。
「今日は大変でしたね。でもまた来てあげて下さい」
多分もう来ることはないだろう。
麗奈は看護師に付き従われてフロアを後にした。
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